大島渚もまた死す・・・

 いやはや、大変な年の始まりです。あの 大島渚 監督が亡くなるとは!


大島渚監督
▲ 在りし日の大島渚監督 〔1932 - 2013 〕
出典:「アメーバニュース」http://news.ameba.jp/image/20130115-547/
(C)THE KOBAL COLLECTION / Zeta Image


 それも1月15日といったら(昔で言う)成人の日じゃないですか。時の権力や古い体制に刃向かい、噛みつき、年がら年中怒って怒鳴っていた「万年青年」の大島さんには似つかわしい気がします。

 大島渚が京都大学を卒業して松竹大船撮影所に入社したのは 昭和29年(1954) 。昨年物故した 若松孝二 は大島監督とは4つ年下ながら、映画界入りはだいたい同じ頃です。
 その年の松竹大船の助監督採用試験は物凄い数の受験志願者だったが、大島さんはその中から一番で通った。その同じ年に松竹に入社したのがあの 山田洋次 です。

 でも山田さんは落とされた。落とされて、日活がちょうど製作再開するというのでそっちを受けたらそちらは合格。
 そうしたら日活が監督や助監督の人材がいないものだから、松竹の助監督を大量に引き抜いた。その引き抜かれた人達ってのはもう逸材揃いです。今村昌平中平康蔵原惟繕 斎藤武市西河克巳 、 小林桂三郎 (実は大学時代、ジャズ野郎はこの方に映画演出を教わりましたが、この方は逸材ではないです)、そして 鈴木清順神代辰巳 、すでに監督だった 川島雄三 ・・・こういう人達が抜けたので、松竹の人材、特に助監督が手薄になり、そこで一旦落とした山田監督に採用通知が来る……。
 そこで山田監督は、松竹か、日活か、どっちに入ったらいいかで悩むのですが、それを 山本薩夫 監督に相談した。

 何で山本監督なのか?
 山本薩夫は 日本共産党員 だったからです。山田洋次も共産党員、だから映画界入りしている先輩に、知恵を授けてもらいに行った。
 でも山本薩夫はどっちへ行けとは言わなかったらしい。

 思案の末に山田さんは松竹を選び、大島渚や 吉田喜重 といった派手なインテリ新人助監督たちとは対照的に、地味~な助監督としてセッセと仕事をこなしていった。

 大島渚は政治的で革新的で、それは『日本の夜と霧』(昭和35=1960年)なんか見ると解りますが、大学時代に演劇をやっていたから左翼的で、一時期、日本共産党に入ろうかどうか迷ったらしい。
 でも入らなかった。一方、山田さんは入った。

 大島渚と山田洋次・・・この二人は、まったく松竹の同期でありながら、それも京大、東大という名門を出ていながら、日本共産党の入党の有無のせいばかりではないけれども、あまり交流しなかったようです、同じ大船撮影所なのに。そこが面白いというか何というか。おそらくライバルなんでしょう(それとも思想信条の相違か)。

 助監督時代の二人は、陽性、陰性の違いはあれ、撮影所の古参のスタッフ達からこぞろって嫌われます。
 何故なら、大島や吉田、高橋治(後の直木賞作家、もともと松竹の助監督がふりだし)って人達は理屈っぽくてお洒落で、あまり熱心に働かなかった。しかも、およそ機能的ではない背広を着て助監督仕事をやっていたりする。
 だから「キザだ」って呆れられた。「そんな格好で助監督が出来るか」と現場で眉をひそめられた。実際あまり仕事が出来なかったという話もありますが、それでも大島さんなどは、ロケ費の会計から撮影のセッティングまで万事にそつなくやってのける「デキる助監督」と言われ、
その時すでに松竹から日活に移っていた今村昌平以来の逸材だと目されていた(その今平さんの前のデキる助監督は西河克巳で、さらにその前は 木下恵介中村登 、さらにその前は 吉村公三郎 といった具合に、松竹という会社は助監督=新しい才能の宝庫でした。そういうデキる助監督が払底した時、松竹大船は事実上、終わってしまった。松竹大船の終焉は、日本映画の主流の終焉です)。

 また大島さん達、松竹ヌーベルバーグの面々は、出たくない現場には来ないで(ほとんど助監督修業をさぼってたって話も)、毎日カンカンカクガク議論を戦わせたり、監督に昇進するための脚本を書いていた。

 一方、山田監督も嫌われた。山田監督が自分で言ってます、先輩監督によく苛められたって。
 でもそれはそうなんです、山田さんは一本芯が通った人で、助監督につくように命じられた井上和男監督の
戦争映画 『予科練物語 紺碧の空遠く』 (昭和35=1960年)を

     “戦争を賛美する映画の製作には手を貸したくない”

と拒否して付かなかった! 


山田洋次監督
▲ 演出中の山田洋次監督 
出典j:松竹映画「男はつらいよ」公式ホームページ https://www.tora-san.jp/supported/yamada.html
(c)松竹株式会社


 上下関係の厳しい映画会社で、入ったばかりのペーペーの助監督が作品のテーマに反対して現場を拒否するなんて・・・山田さんってすごい信念の人ですね。従来から大船の助監督部は独自性があって、助監督がどの監督に付くかを助監督部が決められたし、また助監督もある程度、付きたい組(監督)を選択できたと言われますが、それでも作品のテーマが気に入らないから付きたくない、といって拒否したのは前代未聞だったらしい。
 だから、先輩助監督などに生意気だと疎まれる・・・。そんな行き場のなかった山田さんを助監督に付けて育てたのが、 『張込み』(昭和33=1958年)『砂の器』(昭和49=1974年)野村芳太郎 です。

 野村芳太郎は、自分がチーフ助監督の時には、デキる助監督として一目置かれていたが、かけ麻雀ばかりやってるとか女癖が悪い等と、とかく悪評の高かった今村昌平をセカンド助監督に迎えて育て、自身が監督になってからも初めての時代劇 『慶安水滸伝』 (昭和29=1954年)に今平さんを付かせたりしている。大島渚が助監督として最初についたのも、この野村組です。

 鬼の今平を映画で叩いて鍛えたのは、今平が最初についた 小津安二郎 と川島雄三、そして野村芳太郎なんです。

 怒りの大島に映画のイロハを教えたのも、野村芳太郎なんです。
 (大島さんは 小林正樹堀内真直 などの監督についたが、特に 大庭秀雄 組をよく担当した)
 
 喜劇の山田洋次に、やはり映画のテニヲハを教えたのは野村芳太郎なんです。

      野村芳太郎は偉大ですね。


野村芳太郎監督
▲ 野村芳太郎監督
出典:シネマサイト「シネマトゥデイ」 http://www.cinematoday.jp/page/N0072904
(c)松竹株式会社


 それはともかく・・・松竹ヌーベルバーグの旗手として華々しくマスコミに登場し、やがて『日本の夜と霧』上映中止問題で松竹上層部と喧嘩して辞め、社会派な問題作を連作し、日本初の ハードコア『愛のコリーダ』昭和51=1976年)を撮り、常にスキャンダラスな硬派なムードの中にいた大島渚と、
撮った喜劇映画がヒットしなかったので日蔭の身が長く、『男はつらいよ』シリーズでようやく大当たりをとり、 渥美清 が亡くなるまでこのシリーズ1本で映画会社の松竹を支えた山田洋次。

 偉大な二人ではあったが、松竹大船という同じフィールドでは並び立たなかった。

 こういう二人のような話を、2013年の現在進行形の話として書きたいですが、

 そういう映画人は今いないから。・・・合掌


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


スポンサーサイト

松竹“昭和29年組”の栄光

 先のコラムの「大島渚もまた死す…」というタイトルは フリッツ・ラング 監督の反ナチ映画 『死刑執行人もまた死す』 (1943年・アメリカ)からのイタダキですが、まさに大島渚は日本映画界における 死刑執行人 だったと思います。

 彼が『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』でもって日本映画の既成概念をブチ破った事もそうだし、そのトンガッた勢いのまま、
松竹大船では 渋谷実と野村芳太郎、小林正樹以外の監督はいらない、 と発言して物議を醸した事、
『日本の夜と霧』上映中止に抗議して松竹を退社し、自社プロ 「創造社」 で自分の主張&理想に沿った映画作りを展開した事などはすべて、
旧弊なる日本映画界に鉄槌を下すが如きの所行であって、まさに“死刑執行”といえましょう。
 大胆な大島さんはちょっと日本人の枠に収まらないような傍若無人さと先見性で、当初から意図的に世界進出を見据えていたと思われます。

 昭和30年代後半あたりから、松竹ヌーベルバーグに限らず、羽仁進勅使河原宏 など先進的な映画作家がぞろぞろ出てくるけれども、おそらく真の意味でインターナショナルな映画作家だったといえるのは大島渚だけだったのではないでしょうか。

 もっともベテラン監督批判の時には、他の大船の監督達から傲然たる非難を浴びて謝罪しています。元松竹プロデューサー・升本喜年の著書 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』(平凡社) に当時の様子が書いてあります。

 大島の大胆な発言が目立った。大島は松竹の幹部の無能ぶりを、徹底的にこきおろしただけでなく、若い世代から遊離してしまった「巨匠」と呼ばれる松竹の監督たちを、ボロクソに言った。それらの監督たちを追放することが、松竹の急務だとし、「百歩ゆずっても」と前置きし、渋谷實、野村芳太郎、小林正樹ぐらいを残し、あとの名監督たちはいらないと言いきった。記者の筆が少し滑りすぎたせいもあり、誤り伝えられたとして、大島が、会社に謝罪文をとられたということもあったが、その後、「百歩ゆずって」という言葉が、撮影所のなかで流行した。

 『日本の夜と霧』 問題で大島さんが松竹を退社するのが昭和35年(1960)、“松竹の良心”と言われた小津安二郎監督が亡くなるのはその3年後の、ジャズ野郎が生まれたのと同じ 昭和38年(1963) 。ということは、大島さんは松竹在籍時にベテラン批判をした事になる。退社した後だったら謝罪文をとらされることもないでしょう。
 つまり何を言いたいかというと、あの小津安二郎が元気であった頃にそれを言った事が、凄い、ってわけです。見上げた度胸です。

 先のコラムで大島さんと同期入社の山田洋次監督の事にふれましたが、その昭和29年(1954)春に大船撮影所に入社したのは次の10名。

 山田洋次(東大)、大島渚(京大)、川辺和人(一橋大)、稲垣公一(東大)、不破三雄(京大)、佐藤慶松(東大)、宮川昭司(早大)、小出龍夫(早大)、及川満(立教大)、田中淳剛(慶大)。
 入社の成績は、大島が一番、川辺が二番であったが、山田は、三名の補欠の一人であった。山田が補欠になったのは、成績というより、身体検査の結果だったといわれる。
 補欠のなかの他の一名は、浦山桐郎であった。…(略)…補欠三名のうち、あぶれた一名が、浦山桐郎だった。浦山は、大船から日活へ移った西河克巳に相談に行き、その紹介で、日活へ入っ た。  (前掲書)


 というわけで、この時、山田洋次とともに後に 『キューポラのある街』 (1962年) 『わたしが棄てた女』(1969年)を撮る 浦山桐郎 も入社試験に落ちていた! しかも山田さんは再度採用されて松竹に入ったが、浦さん(浦山監督の渾名)は日活へ行き、今村昌平の助監督について薫陶を受ける・・・いやはや、『ゴジラ』と『七人の侍』の年、昭和29年の松竹大船は物凄い人材を集めていたものです。

 升本本では、松竹を落ちた浦さんは西河監督を通じて日活に入った、と書かれていますが、大船撮影所に助監督試験の合否発表を見に行った浦さんは、自分の名前が掲示板にないのを知るとガックリし泣き崩れていた。するとそこを通りかかった今村監督の奥さん(昭子さん)と 鈴木清太郎 助監督(のちの鈴木清順)に慰められ、
「日活でも採用試験があるようだから受けてみれば」と勧められ、
それで日活入りしたという話もあります(『映画は狂気の旅である』今村昌平、日本経済新聞)

 日活入りした浦さんは西河監督の組につきますが、そこで“天敵”のチーフ助監督・中平康(この人も異才ですよね)の壮絶な苛めに遭う……と、この話の続きはまたいつか。

 この昭和29年入社組の大島渚、田中淳剛に、吉田喜重、後に作家になる高橋治、大島映画の脚本家で大島組以外でも健筆を振るった田村孟、上村力、斎藤正夫といった当時助監督だった面々が加わって『七人』というシナリオ集が出され、いわば大船の若き“七人の侍”による<アンチ大船調>的活動が精力的に行われていった。

 この中の 上村力(かみむら・つとむ) は、後に監督からプロデューサーに転向するのですが、山田洋次監督がシナリオを担当したテレビ・ドラマ『男はつらいよ』(フジテレビ)を映画化する際に最も尽力したのがこの人。
 この映画化が立ち上がった時、松竹のドン、いや日本映画のドンでもある松竹社長の 城戸四郎 が、
「テレビでやったものを何も映画でやることはない」
と言って反対した。
 『男はつらいよ』までに山田監督が作った数本の喜劇映画は興行的に振るわないものが多く、何かの折に山田さんがそのことを城戸社長に詫びたら、

「それは君が悪いんじゃない。宣伝が悪いんだ。だからもっと頑張れ!」

と言って励ましたという。城戸は、世間が山田喜劇を迎え入れる前から一貫して山田監督を支持してきたのだ。なのに『男はつらいよ』はダメだという。
 城戸が映画化を拒んだのは、映画業界を斜陽においやったテレビへの嫌悪感か、もしくはテレビを「電気紙芝居」と呼んでバカにしてきたカツドウヤ気質ゆえなのか。その両方ではないかと思うけれども、危うく映画化がお流れになりかけた時、
「この企画は当たるから、山田に撮らせてくれ」と身体を張って言い続けたのが上村プロデューサーであった。
 結果、松竹はこの『男はつらいよ』で30年以上も食い繋いでいく。

上村力は山田洋次と同期であり、よって大島渚とも同期であり、松竹大船を落ちて日活に行った浦山桐郎とも同期である。この 昭和29年組 はなんという人材の宝庫であったことか。

 こうした有能なカツドウヤ(映画人)の予備軍たる人々はどこに行ってしまったんですかね? みんなIT企業かネット(ゲーム)会社、お笑い芸人になっちゃってるんですかね。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


日本の映画監督 -〝チョコ平〟五所平之助の有為転変

◆ 東宝争議で嘲笑(わらわ)れた巨匠

 何度も名前を出している 五所平之助 は松竹映画を代表するれっきとした巨匠である。
 大店の跡取りながら妾腹の子で、実の母親と引き離されるなど辛い幼年時代を過ごしたことは先に触れたが、足の悪い末弟がおり、その夭折した弟の記憶をベースに『村の花嫁』 (昭和3=1928年)を作ったりする苦労人ではある。だが、時として臨機応変というか計算高いというか、抜け目なくいろいろに顔を出し、また手を出しては〝ヤブ蛇〟ってな形で、失敗することもよくあった。
 野村芳亭絡みでよく名を出してきましたが、五所はもともと同じ東京の商家育ちの島津保次郎の門下です。
 その助監督時代は、

 私が撮影所でコマ鼠のようにまめに動き回るので、「チョコ平」という渾名をつけられ、「チョコ平さん」と呼ばれてもそんな嫌な気がしなかった。…(略)…。   (『わが青春』五所平之助、永田書房)

 というように、チョコ平と呼ばれながら立ち働いており、この頃、松竹では新年には自社のスターを引き連れて地方に顔見世のサービス行脚に出かけるのが恒例で、大正13年の新春には九州へ初めてご挨拶回りに出かけた。当時の男性スター・岩田祐吉さんが頭で、五月信子、東栄子、柳咲子に梅村蓉子といった面々で、団長格はもちろん、芳亭監督であり、五所もこれに同行した。この時の五所の役目は--

 私は、東栄子さんの彼氏である小田浜太郎という一級撮影技師に秘かに頼まれ、旅行中の栄子さんの護衛の役を引き受けてしまった。            (前掲書)

 小田浜太郎 は野村芳亭とコンビの名カメラマンで、この頃、小田は蒲田女優の 東栄子(あずま・えいこ) とデキていたようだが、五所は京都で芳亭と柳さく子の逢瀬を段取ったように、ここでも小田の命を受けて東栄子のガードマン兼お目付役を仰せつかった。そして、この骨折りが小田から芳亭監督に伝わったものか、この後、五所は念願叶って野村組に助監督として引っぱられている。如才がないというか、なかなか巧いことやってるわけです。
 そしてついた作品が、【野村芳亭、知られざる巨人 <その18>】(4月7日付)でも紹介した、京都へ左遷される将軍さんが蒲田で撮った最後の作品『大尉の娘』というわけで、芳亭監督の後押しもあってその翌年の大正14年(1925)5月、めでたく監督に昇格する

 これだけを見るとなかなか世渡り上手に思えるのだが、監督になってからがなかなか大変なのである。
 監督になってその初期に2本の作品が お蔵入り(*1) されてミソをつけ(第2作『空は晴れたり』と第5作目の『当世玉手箱』だが、どちらも後に公開されている)、そこで丁度蒲田にやってきた田中絹代を得てヒット作(『恥しい夢』や『村の花嫁』)をモノにし、ようやく本調子( 『からくり娘』 )が出てきたと思ったら、大スランプ(昭和4~5年)と大失恋でとことん落ち込み、真剣にピストル自殺を考え、結婚するも愛妻を亡くすという悲劇に見舞われる。
 この妻が息を引き取った時、五所は出先にあって妻の死に目に逢えなかった。だが彼は横浜駅の駅頭で自分を見送る妻の姿を遠目に見ており、その時間はまさに妻の恵美子が病院で亡くなっていた臨終の刻だった・・・その妻の姿は亡霊(!)ということになる。
 五所の妻は元女優の春日恵美子であった。五所は日本初のトーキー映画『マダムと女房』(昭和6=1931年)を撮って長いスランプを脱したのだが、それを喜んだ矢先、この愛妻の死である。恵美子は妊娠しており、難産の末に母子ともに亡くなったわけで、五所は悲嘆にくれた。なんとも辛いことだが、この後、昭和11年(1936)には五所自身が肺結核に侵されて数ヶ月間、休養し、ようやく蒲田に復帰するも、今度は城戸四郎と喧嘩して松竹を辞めるハメに陥る(昭和16=1941年)・・・。






 まったく絵に描いたような波瀾の監督人生であり、大いに同情すべきところだが、五所が〝計算高い〟というのは、松竹を辞め、大映などで映画を撮った後、戦後に所属した東宝でのことである。ココで彼はまたもや東宝大争議という大嵐に見舞われる。『君の名は』などを撮った〝法皇〟こと大庭秀雄監督の話--。

……五所平之助って、あれ東宝に行ったでしょ。東宝争議があってね、昭和二十一、二年かな。大船来たんですよね。大船の監督にもいっしょに争議やってくれってわけじゃないけど、なんとなく声援してくださいっていう、儀礼的な意味でね。そこまではいいんですよ。帰りに所長室の月森〔月森仙之助〕に、
「東宝が今、ああいうことになってるから、何かあったら一本」
 って言って帰っていった。なんて奴だ。ある意味で、裏切り行為でしょ。人間としては、唾棄すべき奴だなあと思ったですよ。まあ、苦労もされたんだろうけどね。
(『人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語』山田太一 斎藤正夫・田中康義・宮川昭司・吉田剛・渡辺浩〔ゆたか〕、マガジンハウス)   ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 仲間がみな自分の仕事や生活そっちのけで争議を闘っている最中に、自分一人が争議後の事を考えて「何かあったら1本」、つまり「1本映画を撮らせて頂戴ね、お願いね!」という売り込みをやっているというわけである。だから〝五所ってのはなんて奴だ、狡い、姑息だ〟と大庭監督は憤っているのだが、東宝争議でワイワイやってた五所は、その後どうなったかというと、「年寄りの冷や水だ」と周りから冷笑されるハメになる。
 よく〝来なかったのは軍艦だけ〟と言われる駐留米軍の戦車や戦闘機と警官隊が東宝撮影所を包囲した昭和23年(1948)8月19日--東宝の砧撮影所に立て籠もっていた組合員がついに撮影所を明け渡す--その当日、組合員達が撮影所を退去する際、五所はどういうわけか、その先頭を切って門を出る ことになり、それが写真やニュース映画に撮られてデカデカと出てしまい、やたらと目立ってしまった。ゆえに「よく頑張ったな」などと賞められるどころか、「いい年をして、今更、争議でもあるまいに……」と一部で揶揄されてしまうのである。

 そんなわけで五所平之助という人は、先の関東大震災の時に大阪に映画を見に行ってクビになりかけた事件もそうだが、時にやることがヘマである。そればかりか、紆余曲折の末に損をするというような、まことにドジな、オチャメな監督人生を送っている。どことなく憎めないお人であり、一時、彼がついた野村芳亭もそうした憎めない無邪気な部分をもっていたと言われる。 〔続く〕

※1 「お蔵入り」・・・映画作品の出来がひどく悪い、とか、映画会社の上層部にウケが悪かったりした場合、その作品の劇場公開を取りやめる事。またその未公開作品を言う。松竹の場合、お蔵入りの作品を作った監督は、再び助監督に降格させられる、というシビアなこともあった。幸い、五所はコレを免れているが、吉村公三郎や豊田四郎、渋谷実などは一旦監督になってから助監督降格を食らっている。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その1>

 島津保次郎のことを足かけ5ヵ月も書いてきたので、1週間ほどお休みをいただきました。次にアップする島津と同じ松竹の監督・ 清水宏 のコラムはすでにスタンバイ完了なのですが、あんまり監督の特集ばかりでは曲もないので、単体の連載ではなく、軽~い読み物でお茶を濁す所存でございます。といって、またぞろ監督の人物誌なのですが、それはもうジャズ野郎が個別の作品をとうとうと語るよりも、無声~トーキー~黄金時代の監督達の動向を眺めるのが好きなので、致し方ありません。
 趣味を同じうする、ネットユーザーの紳士淑女の方々、またしばらくお付き合いください。

 まずは、またも島津繋がりで、その周辺の人間関係をば・・・。

                   *****

 東宝で島津作品のシナリオを書いた 山形雄策 は、助監督時代の 吉村公三郎 に社会主義思想教育を施し、プロレタリア運動の意義を教えた、美術監督・ 金須孝 の親戚である。
 山形は、この実の従兄であり、思想上(コミュニズム)の〝同志〟でもある金須孝によって島津を紹介されて、この世界(映画界)に入っていたことは、先の 【巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その45>(8月9日付)】 で述べました。

 この時期、コミュニスト映画人の動勢に少なからず影響を与えているのが、この金須孝 (<その57>8月28日付、参照) なのですが、この人の身近な知り合いに、やはりというべきか、あの 山本薩夫 がいた。
 
薩夫が初めて助監督として、入社した松竹で、金須と親しくなったのだが、おまけに、薩夫の兄さんが学んだ美術学校の建築科で、金須は二年先輩だった因縁も〔山本薩夫の自伝に〕書いてある。
(『われら青春時代の仲間たち』山形雄策、ふるさときゃらばん)※〔〕内、ジャズ野郎註。


 兄の友人が金須孝だったというのは、戦後、 〝赤いセシル・B・デミル〟 と呼ばれたアンチ体制派の大監督・山本薩夫らしい。というか、もう、そうなることが〝必然〟と思われるような人間関係ではある。
 そして、薩夫もやはり映画好きであり、長じて映画界を目指すのだが、これがまた 今井正 と全く同じで現役の監督に直接面会しに行って、「撮影所に入れて下さい」と剛胆にも直訴したもの。

 学生だった薩夫が会いに行った監督とは、なんとあの 伊藤大輔 であった!     〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その2>

 山本薩夫 が会いに行った時、伊藤大輔 は日活京都のステージで〝丹下左膳〔たんげ・さぜん〕〟を撮っていた。

 今もその名台詞--
            〝しぇいは丹下、名はしゃぜん! 〔姓は丹下、名は左膳〕〟
            〝おめでたいぞよ、丹下左膳〟

 が有名な、隻眼隻腕〔片眼片腕〕の怪剣士・丹下左膳が主人公の 『続大岡政断 魔像解決篇』(昭和6=1931年) の撮影たけなわであったが、この 林不忘 原作による〝丹下左膳〟シリーズは、林自身が他の新聞に連載していた自作(小説)とこんがらがって、筋書きがワヤな事になってしまっていて、最後まで活躍するはずの登場人物を殺してしまうなど、てんやわんやの状態であった(〝不忘(忘れない)〟ってペンネームの割に、自分の小説の筋をアレコレ間違えていたようで・・・。因みにこの作家の本名は長谷川海太郎で、林不忘の他に牧逸馬、谷譲治と3つの筆名を操った)。

 そんな修羅場に、〝Y〟少年は現れた。

 〔京都の〕多藪町で、高木永二君(故人)扮するところの村井長庵が、大河内伝次郎君の主人公に追われてその蛇塚へ逃げ込む場面。
 そこへ作者〔林不忘〕から前記の電話〔筋書きを間違えた、との一報〕が取りつがれ、善後策のため、いったん撮影を中止して引き揚げかかると、それまで熱心に見学していた豊頬の一少年が歩み寄って来て一通の手紙を差し出した。
「中学は出たのだが、大学卒業までの過程を、もどろかしがり、いきなり撮影の現場へ飛び込んで修行したいという監督志望なのです。よろしく御指導にあずかりたい」旨の、草刈少佐の由縁による紹介状だった。

 私は自分が正規の大学の過程を修めていない苦渋な経歴と、そうしてその結果の現状と、さらに、将来映画監督たらんと志す者の教養の基礎たるべき必須条件とを縷説して彼の翻意をうながした。

 Y〔少年〕は渋々ながら私の説得に服したが、なお最後にいわく、
「それでは、受験しますが、もしも進学できないようでしたら、中卒のままでも助手さんにしてやるって約束してくださいますネ?」。

 そのYが、大学を出たとたん、松竹が助監督の募集を発表し、応募資格として大学または専門学校卒業生に限るとした。時勢とともに成長した「映画」自体がそれを要請したのである。
 かくてYは首尾良く松竹大船撮影所へ入ることが出来た-“薩ッちゃん”山本薩夫君である。
  (『時代映画の詩と真実』伊藤大輔/著、加藤泰/編、キネマ旬報社) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 〝それでは、受験しますが、もしも進学できないようでしたら、中卒のままでも〟と山本薩夫が語っているのは、この時、山本は中学生(旧制中学、現在の高校)で、高校(旧制高校、現在の大学)に入学するよりも映画界に入りたい、として伊藤監督を訪ねたのであった。
 伊藤大輔は、上記にあるように、「大学を出てからにしなさい」と言って、思いつめた山本少年を諭したが、その5年後、再び、〝薩ッちゃん〟から映画界入りについて相談を受けることになる。    〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





The Food Court ♪

いっぱい食べるキミが好き~ ♪♪♪

SPORTS & CASUALS ♪

いっぱい遊ぶキミが好き~♪♪♪

お役立ちエリア ♪

ナイスな便利グッズ&サービスをご提供!

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

『 ラストシーンの余韻 』 発売中!
映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
電子書籍版はアマゾン Kindleストア 及び 楽天ブックスから、紙の書籍版は製本直送.comより発売。直近の各コラムの末尾にある発売告知から販売サイトに遷移、またはポップアップ画面が出ますので、そこで購入できます。 

< プロフィール >
血液型:A型
趣味:サイクリング&ウォーキング&クッキング、デジカメでの写真・動画撮影
好きな場所:札幌ドーム、中島公園、中央図書館、豊平川
好物:コーヒー、ジンギスカン、スープカレー、ラーメン、「ロイズ」のソフトクリーム、「シャトレーゼ」のアイスバー・ピュルテ(塩キャラメル味)、びっくりドンキー、はま寿司、セイコーマート

My Blog Visitors
CAT TIME !
Calendar

Le TAO ♪
春の光だ、マチに飛び出せ! ・・・ ルタオです ♪♪♪
FC2 ブログランキング
FC2 Blog Ranking
[ジャンルランキング]
映画
573位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
邦画
17位
アクセスランキングを見る>>
リンク
最新記事
松尾ジンギスカン ♪
北海道の郷土料理にしてベスト!
カテゴリ
月別アーカイブ
リーズナブルな旅をご案内 ♪
書を捨てよ、旅へ出よう~ ♪
Amazon DVD RANKING
イチバン人気の映画をチェック!
検索フォーム
最新コメント
MAIL BOX
名前はハンドル名でOK、文面は公開しないので、お気軽に!

名前:
メール:
件名:
本文:

最新トラックバック
QRコード
QR