松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その1>

◆ 組付きになれなかった野村芳太郎  

★お詫び、そして今後の展開★
〔前日4月30日の【野村芳亭、知られざる巨人 その34】で、芳亭さんの話は最終回ということにしましたが、実は一子・芳太郎が松竹の監督になってからの後日談がまだ続きます。で、これはそのまま芳亭さん括り、つまり【知られざる巨人】の<その35~43>としてアップしようと思いましたが、松竹の監督系譜に関する記事であり、今後紹介していく島津保次郎、清水宏、原研吉といった松竹の監督達に関連するデータでもあるので、 【松竹の監督系譜】 としてカテゴリーを独立することにしました。昨日、<その34>を読まれた方は、その夕方には芳亭さんの記事がいきなり<最終回>を迎えているので、驚かれたかと思います。申し訳ありません。内容的には 【野村芳亭】 と繋がっている部分が多々ありますので、もうしばらくご愛読下さい〕

                 **********

 芳亭さんの息子、野村芳太郎は長じて父と同じ松竹の映画監督になる。彼が映画監督になろうと決意したのは、【野村芳亭、知られざる巨人】の最終章(その34)で書いたように父・芳亭の死に際であった。
 かつて蒲田撮影所時代、所長宅、つまり撮影所長だった芳亭さんの自宅は撮影所内にあったから、そこで生まれた長男の芳太郎は〝フィルムで産湯をつかった〟と言われた。すでにして人生の最初から映画が彼の前には映画があり、カツドウヤが周りにいたわけだから、映画監督になりたいと思うのは自然である。

 芳太郎は暁星中学~暁星高校を経て慶応大学に進み、戦時の繰り上げ卒業とともに松竹に入る(昭和16=1941年)。彼が助監督として入った松竹の撮影所は、父が威勢を張った蒲田ではなく、移転した大船であった。
 芳亭の作風を批判し、一時は彼を京都に追いやった城戸四郎は、野村芳亭の死後、将軍さんの多大な松竹映画への貢献を重く見て、大船撮影所の庭に芳亭の 銅像 を建ててこれを顕彰した(この銅像は、戦争中、貴金属供出のために軍部に差し出され、ずっと後までその台座だけが残っていたという。銅像の方は戦後になっても再建されなかった)。

 しかし大船撮影所に入った芳太郎は、所内に銅像として〝祀られている〟大監督の息子だということで、どの監督にも敬遠され、どこの組の組付き(所属)にもしてもらえなかった。
 兵隊に取られ、ビルマ(現ミャンマー)・インパールで連合国軍との凄惨な戦闘(死闘)をくぐり抜けて、やっとの思いで生還して日本に帰ってきた。このインパール作戦(昭和19年3月から3ヶ月間)で戦死した日本兵は16万人、撤退する道々でどんどん兵士が死んでいったので、その道路は「白骨街道」と呼ばれたほどの地獄の作戦だったが、芳太郎はこれを生き抜いた〝生き残り〟である。いかに芳太郎がタフであったか、強運だったか、ということになる。身体が頑健だったのは、父・芳亭とともに小さい頃から美食を食らっていたせいであろうが、強運の方も将軍さんから授かった、もって生まれた〝星〟であろう。
 戦後、大船撮影所に復帰した芳太郎の前に、彼を配下に迎えてさんざん意気投合する監督が現れる。それは〝鬼才〟と呼ばれて、芳太郎同様、大船撮影所内で敬遠されていた川島雄三監督であった。 〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その2>

◆ 川島組に入って優秀さを発揮  

 野村芳太郎と川島雄三の縁を取り持ったのは、当時、チーフ助監督だった 西河克巳 である(下記で引用した自著の中で、西河さん本人がそう言っているのだから「間違い」はない・・・ホントを言うと、こういう本人発言には結構「間違い」もあるのだが・・・)。
 当時、川島監督は 『シミキンのスポーツ王』 (昭和24=1949年)の後、約1年干され、次に撮った 『夢を召しませ』 (昭和25=1950年)でまた干される、という状態であり、松竹上層部から“問題児”扱いされていた。川島は、例えば会社から渡されたシナリオを全く違うストーリー(プロット、あるいは原作まで変えて!)に改変したり、当時コメディに傾倒していたから、話の合う助監督の 柳沢類寿 と組んでは映画に下らないギャグや身内(川島組スタッフ)しか分からない楽屋ウケのジョークを盛り込み、おふざけタップリの、ほとんど支離滅裂なナンセンス映画を撮っていたからだ。

西河 ほされていた川島雄三が復帰第一回の『天使も夢を見る』という作品に取りかかろうとしていたんです。ところが、復帰の条件に
「助監督の柳沢類寿と野口博志をはずして撮れ」というのがあった。
川島の失敗を会社のほうでは柳沢と野口のせいにしたわけですね。
「あの二人がついているから、いけないんだ」と。
西河 …(略)…それで川島に、〔助監督に〕野村芳太郎はどうだとすすめたんです。川島はイヤだというんですね。野村芳太郎君は特別な助監督で、なにせ撮影所の真ん中に銅像が立っている人の子供でしょ。
 父親の芳亭さんが所長でしたから、いろんな意味で敬遠されていたんです。でもぼくとは、ぼくが観光映画を撮ったとき助監督だったんで、親しかったんです。
 それで、スタートはぼくがヘッドにつくから、と言って川島を説得し、野村君がひきつぐというかたちで始めたんですが、ところがこれが意外に、ウマがあったんですね。それから川島雄三が日活にかわるまでは、ズーッと野村君でやりました。


 川島は、この後、昭和29年(1954)に映画製作を再開した(後に裕次郎ブームで隆盛する)日活に移籍して松竹を去るのだが、芳太郎は川島作品 『天使も夢を見る』 (昭和26=1951年)から川島組に加わって川島に付き、映画作りのノウハウや映画監督としての〝身過ぎ世過ぎ〟を会得したと思われる。

 野村芳太郎君という人は、大変な能吏なんです。川島雄三みたいなダラダラした人には、非常によかったんですね。それ以後川島雄三は〔松竹大船で〕年に何本も撮るという。プログラムピクチャーの代表選手みたいになるわけですが、それは、野村君にとっても大変よかったわけですね。川島のデタラメといいますか、才気横溢といいますか、それが彼にとって良かったようですね。川島が松竹をやめた後、野村君が川島路線を受けついでいます。触発されたんでしょうね。川島の影響は強かったんでしょうから……。
    (以上『西河克巳映画修業』西河克巳・権田晋、ワイズ出版) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 西河監督のコメントから察するに、撮影所内での野村芳太郎はルーズさがなく、頭脳明晰で、臨機応変に現場処理をする助監督だったという事になる。しかも芳太郎は、松竹キネマ創業からの大監督でかつては所長も務めた人の息子でありながら、偉ぶったところがなく慎ましかった という。これはつまり「金持ちのお坊ちゃんで性格が良かった」というわけだから、世間にはなかなかいないタイプの逸材であったということである。

 また、昔から撮影所に住んでいてカツドウヤ気質なるものに通じていた芳太郎だから、
「将軍さんの息子を鼻に掛けるようなことをすれば、徹底的に苛められる」
と撮影所人種の心理が読めていて、自重する事を心掛けていたのかも知れない。

 ともかくその逸材の、本来本流にいるべき野村芳太郎は、皮肉なことに当時の大船では本流からアブレた、いわば傍流にあった川島組につくのである。
 では、その松竹の本流とは何か・・・それは次号(明日)を待て。 〔続く〕


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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その3>

◆松竹の監督人脈を形成する2つの流れ  

 松竹映画における監督の系譜には、2つの大きな流れがある。
 大まかに分類すると、小山内薫派野村芳亭派の2派ということになる。
 この【野村芳亭 知られざる巨人】の初めの<その1~3>で触れた、演劇興行会社の松竹が映画を始めた頃の話を思い出していただきたい。
 松竹の総帥・大谷竹次郎は映画製作を始めるにあたり、当時、新劇運動の旗手だった小山内薫にまず声を掛けた。小山内は彼と繋がりのある村田実や、牛原虚彦や島津保次郎といった人材(3人とも後に監督)を集めて映画製作をスタートさせるのですが、この時の小山内組一党が小山内派であって、これが松竹キネマの発足時からあった、正統な流れ=本流なのである。

 この本流が〝芸術的な映画〟を目指すあまり、観念的かつ高踏的な大衆的でない作品を作って、興行的に惨敗し、解散に追いやられた事は先に述べたが(村田実などはすぐに松竹を辞め、もともとやっていた演劇に戻り、日活に入って社会派リアリズムの大監督になる)、その小山内の替わりに蒲田撮影所の差配を任されたのが芳亭さんである。

 よって、小山内薫から映画製作を委譲された芳亭さんが集めた人材、育てた人脈こそが芳亭派ということになる。芳亭派には、将軍さんが京都から呼んだ賀古残夢や池田義信、大久保忠素、重宗務、その助監督である清水宏、小津安二郎、斎藤寅二郎、成瀬巳喜男らの監督達が連なるのだが、それは付いた監督(師匠)が芳亭派であったからそうなっただけであり、師匠の作風を継承したというわけではない。それはアンチ芳亭だった小津や清水が芳亭派にいることを見ても、判ると思う( 明日の<その4>では松竹の監督系図を掲載します! )。

 芳亭派は新派悲劇から時代劇まで何でもこなす娯楽系統であったから、小山内派と比べられ、後々までも 一段低く見られていた という。また2派につくスタッフ達にもそうした差別化はあったようで、例えば小山内派のキャメラマンはA組と呼ばれ、芳亭派の撮影者達はB組と呼ばれた。映画事業のスタート時(大正9=1920年)、松竹では白井信太郎らが渡米し、ハリウッドの大巨匠セシル・B・デミル監督の許でキャメラを担当していた ヘンリー小谷 を招聘しており、この小谷が小山内派のキャメラマン、すなわちA組になる。そしてその小谷の弟子たち(前に名前を出した碧川道夫ら)もA組キャメラマンということになる。B組にも、日本で初めて移動撮影やカットバックという映像技法(編集技法)を使った 長井信一(*1) などの凄腕がいたから、テクニカルな面での遜色はなかった。
 ただ、芳亭派は娯楽的な、当たる映画を撮っていたため、〝芸術的でない〟という一点をもって格下に見られていた、という事のようだ(庶民的な作風がウリの松竹なのに、何故か興行的に当たる映画を作ると撮影所内部で低く見られる、というのは、西河克巳も語っている事だが、お高い、というか、なんというか。エリートぶった自己撞着ではある)。

 格下に見られた芳亭派だが、その実、本流に比肩した流派(第2の本流)として厳然と存在感を持ってはいたのである。  〔続く〕
                             *****
*1 長井信一 長井は芳亭監督の第1作『夕刊売り』を担当しており、芳亭作品も手がけたが、芳亭さんが京都から連れてきた賀古残夢監督や池田義信監督のキャメラマンとして有名。A組(小山内派)の島津保次郎作品も担当した。彼が黎明期の日本映画をいかに刷新したか、については以下の一文がある。

 日本でキャメラマンの技術を初めて認めさせたのは、大正六年『大尉の娘』を撮影した長井信一である。彼は連鎖劇俳優井上正夫と組み、上映時に声色やセリフを必要としない、つまり画像だけに頼った活動写真を作りあげた。舞台の芝居をロングで回していた当時の活動写真の撮り方をやめ、欧米の活動写真を研究し、カット・バック、父と娘の道行きの移動、嫁入りの荷物が行くのを川に写し、移動パンで見ている人たちのカットになるというテクニックなどを、初めて見せてくれた作品である。
       (『映像を掘る 宮川一夫の世界』渡辺浩(ゆたか)、発行パンドラ、発売・現代書館)


 因みに、芳亭監督にも 『大尉の娘』(大正13=1924年) という同じ原作を映画化した作品があるが、上記の『大尉の娘』(大正6=1917年)は役者の井上正夫が監督主演、撮影・長井信一による小林商会作品。芳亭の『大尉の娘』の撮影は芳亭さんと名コンビと言われた小田浜太郎 (4月10日付【 日本の映画監督-〝チョコ平〟五所平之助の有為転変 】 参照)。 昭和10年に日活に移籍し、日活が戦時中の映画会社統合で大映となって長井はそのまま大映所属となり、戦後も昭和32年(1957)まで仕事を続けた。

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その4>

◆2つの本流と“第3の系統”という傍流  

 元松竹プロデューサー・升本喜年の 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』(平凡社) にはこれらの事と、小山内、芳亭の2派の系譜が人脈図として載っており、それを見ると良く分かる。ジャズ野郎も及ばすながら、その図を基にさらに多くの松竹監督を網羅した系図を作っている。これをブログにそのままアップしたいのですが、なにせ手書きゆえ、おいそれとは出せません(スキャナーも手許にないので・・・相すいません)。
 だから以下に大雑把に示しますと--


         牛原虚彦--野村浩将
         |
●小山内薫 -佐々木啓祐-小林桂三郎
         |
         |        五所平之助-(成瀬巳喜男)-渋谷実-中平康-前田陽一
         |       |
         島津保次郎-豊田四郎 
                 |       木下恵介-------小林正樹
                 |       |                川頭義郎
                 |        |                松山善三
                  吉村公三郎-                吉田喜重 
                          | 
                          中村登-(西河克巳)        
  
                      

                清水宏
                |
        池田義信-
        |     |
        |      成瀬巳喜男-山本薩夫
         |
●野村芳亭-重宗務
         |        斎藤寅二郎-(佐々木康)-堀内真直-高橋治
        |        |
        大久保田忠素-        佐々木康-大庭秀雄-大島渚
                  |        |
                 小津安二郎-
                          |
                          原研吉-西河克巳
                                | 
                                -岩間鶴夫-鈴木清順
                                        -篠田正浩


               ※この監督系譜に関する註(文末に)


 と大体こういう流れになっていて、見ていただければ判るように、この中に 野村芳太郎 は入っていないのです。
 芳太郎どころか、彼が付いた 川島雄三 も、その弟子の 今村昌平 も、いやいや待ってくれ、今日の松竹映画を一人しょって立っている 山田洋次監督 すらいないじゃないか! とお叱りを受けそうだが、そう、いないのです。これら戦後(昭和)の日本映画を支えた名監督達は、松竹ではなんと傍系なのです。本流の小山内派にも第2の本流たる芳亭派にも属さない、 〝第3系統〟 の男たちなのです。
 しかしその本流の蒲田調・大船調から外れ(外され)、傍流にいた彼らこそ、昭和の大船調を維持し、または大船調を超越した独自な作家性を有する秀作を放って、松竹を、日本映画を牽引した優秀かつ重要な人達なのです。
 野村芳太郎はその優秀かつ重要な人達の一人なのです。   〔続く〕

※上記の監督系図について
 升本喜年氏の『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』に載っていた系譜図を基に作成した、大正9年(1920)から昭和40年(1965)あたりまでの大まかな人脈図(松竹の監督全部を網羅してはいません、主要な監督のみです)。例えば成瀬巳喜男は、芳亭派の池田義信の後、小山内派の島津門下・五所平之助に付いていますし(「五所平之助」に続く成瀬の名をパーレンで囲っているのはそのため)、五所の流れにある渋谷門下の中平康は、芳亭派の原研吉の助監督だったり、5月7日更新予定の<その7>で説明する“第3の系統”の川島組につく、という具合に、アチコチの派を横断する人物もいますから、必ずしもこれが「絶対」というわけではありません。あくまでも目安として、ご記憶いただければ幸いです。

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その5>

◆松竹で一番格下に見られた京都勢 <前篇>  

 その小山内派にも芳亭派にも属さない傍流(傍系)にはどういう人達がいるかというと、ここもやはり2派に分かれます。

 一つはいわゆる京都勢。時代劇を撮っていた京都の撮影所<下加茂撮影所松竹京都撮影所>で働いていた面々です。
 下加茂撮影所は【野村芳亭、知られざる巨人 <その12>】(3月30日付)で触れた、蒲田撮影所の松竹の映画スタッフが関東大震災で西下した時、下加茂の地に急遽スタジオを設えて急ごしらえの撮影所としたものだが、ここは昭和になってから林長二郎(長谷川一夫)がビッグスターとなって黄金時代を迎える。林を磨いてスターにしたのは衣笠貞之助だが、このブログでも何度か引用した『映画は陽炎の如く』(草思社)の著者で監督兼脚本家の犬塚稔も林長二郎の売り出しには貢献しており、林の映画第1作『稚児の剣法』(昭和2=1927年)を手がけている。

 この下加茂の他に撮影所が太秦にあった。この撮影所は元々、トーキー技術を会得した マキノ雅弘 が“マキノ映画の夢よ、もう一度”とばかりに設立した映画会社 「マキノトーキー」 の撮影所であった(昭和10年12月~昭和12年4月)。その後ここは、松竹にいた林長二郎を東宝が引き抜く際、躊躇する林を口説き落とした“ネゴシエーター”役で、当時の東宝京都撮影所の所長・今井理輔がその後起こした映画会社 「今井映画製作所」 となるが1年余りで解散(昭和13=1938年春)し、それを松竹が買い取って京都(の第二)撮影所としたものである。
 時代劇製作をメインにした、これら2つの京都の撮影所には前記の衣笠や犬塚の他、冬島泰三、大曽根辰夫(後、辰保と改名)、内出好吉らがいて、溝口健二監督が京都(の松竹)で撮る時、その助監督になった酒井辰雄らがいた。
 戦後は『二等兵物語』シリーズ(昭和30~35年)の福田晴一、市村泰一、その下の助監督に(のち、にっかつロマンポルノの名監督となる)神代辰巳蔵原惟繕松尾昭典、長谷和夫、そして貞永方久に森崎東らがこの京都の撮影所にいた。御存知のように、神代、蔵原、松尾は戦後再開した日活に移籍し、神代以外の二人は、当時、隆盛の日活アクションや裕次郎映画のメガホンを執る。

 さて、ここでも野村芳太郎や山田洋次は出て来ない。そうなのです、彼らは第4の集団なのです。 〔続く〕

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映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
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