大島渚もまた死す・・・

 いやはや、大変な年の始まりです。あの 大島渚 監督が亡くなるとは!


大島渚監督
▲ 在りし日の大島渚監督 〔1932 - 2013 〕
出典:「アメーバニュース」http://news.ameba.jp/image/20130115-547/
(C)THE KOBAL COLLECTION / Zeta Image


 それも1月15日といったら(昔で言う)成人の日じゃないですか。時の権力や古い体制に刃向かい、噛みつき、年がら年中怒って怒鳴っていた「万年青年」の大島さんには似つかわしい気がします。

 大島渚が京都大学を卒業して松竹大船撮影所に入社したのは 昭和29年(1954) 。昨年物故した 若松孝二 は大島監督とは4つ年下ながら、映画界入りはだいたい同じ頃です。
 その年の松竹大船の助監督採用試験は物凄い数の受験志願者だったが、大島さんはその中から一番で通った。その同じ年に松竹に入社したのがあの 山田洋次 です。

 でも山田さんは落とされた。落とされて、日活がちょうど製作再開するというのでそっちを受けたらそちらは合格。
 そうしたら日活が監督や助監督の人材がいないものだから、松竹の助監督を大量に引き抜いた。その引き抜かれた人達ってのはもう逸材揃いです。今村昌平中平康蔵原惟繕 斎藤武市西河克巳 、 小林桂三郎 (実は大学時代、ジャズ野郎はこの方に映画演出を教わりましたが、この方は逸材ではないです)、そして 鈴木清順神代辰巳 、すでに監督だった 川島雄三 ・・・こういう人達が抜けたので、松竹の人材、特に助監督が手薄になり、そこで一旦落とした山田監督に採用通知が来る……。
 そこで山田監督は、松竹か、日活か、どっちに入ったらいいかで悩むのですが、それを 山本薩夫 監督に相談した。

 何で山本監督なのか?
 山本薩夫は 日本共産党員 だったからです。山田洋次も共産党員、だから映画界入りしている先輩に、知恵を授けてもらいに行った。
 でも山本薩夫はどっちへ行けとは言わなかったらしい。

 思案の末に山田さんは松竹を選び、大島渚や 吉田喜重 といった派手なインテリ新人助監督たちとは対照的に、地味~な助監督としてセッセと仕事をこなしていった。

 大島渚は政治的で革新的で、それは『日本の夜と霧』(昭和35=1960年)なんか見ると解りますが、大学時代に演劇をやっていたから左翼的で、一時期、日本共産党に入ろうかどうか迷ったらしい。
 でも入らなかった。一方、山田さんは入った。

 大島渚と山田洋次・・・この二人は、まったく松竹の同期でありながら、それも京大、東大という名門を出ていながら、日本共産党の入党の有無のせいばかりではないけれども、あまり交流しなかったようです、同じ大船撮影所なのに。そこが面白いというか何というか。おそらくライバルなんでしょう(それとも思想信条の相違か)。

 助監督時代の二人は、陽性、陰性の違いはあれ、撮影所の古参のスタッフ達からこぞろって嫌われます。
 何故なら、大島や吉田、高橋治(後の直木賞作家、もともと松竹の助監督がふりだし)って人達は理屈っぽくてお洒落で、あまり熱心に働かなかった。しかも、およそ機能的ではない背広を着て助監督仕事をやっていたりする。
 だから「キザだ」って呆れられた。「そんな格好で助監督が出来るか」と現場で眉をひそめられた。実際あまり仕事が出来なかったという話もありますが、それでも大島さんなどは、ロケ費の会計から撮影のセッティングまで万事にそつなくやってのける「デキる助監督」と言われ、
その時すでに松竹から日活に移っていた今村昌平以来の逸材だと目されていた(その今平さんの前のデキる助監督は西河克巳で、さらにその前は 木下恵介中村登 、さらにその前は 吉村公三郎 といった具合に、松竹という会社は助監督=新しい才能の宝庫でした。そういうデキる助監督が払底した時、松竹大船は事実上、終わってしまった。松竹大船の終焉は、日本映画の主流の終焉です)。

 また大島さん達、松竹ヌーベルバーグの面々は、出たくない現場には来ないで(ほとんど助監督修業をさぼってたって話も)、毎日カンカンカクガク議論を戦わせたり、監督に昇進するための脚本を書いていた。

 一方、山田監督も嫌われた。山田監督が自分で言ってます、先輩監督によく苛められたって。
 でもそれはそうなんです、山田さんは一本芯が通った人で、助監督につくように命じられた井上和男監督の
戦争映画 『予科練物語 紺碧の空遠く』 (昭和35=1960年)を

     “戦争を賛美する映画の製作には手を貸したくない”

と拒否して付かなかった! 


山田洋次監督
▲ 演出中の山田洋次監督 
出典j:松竹映画「男はつらいよ」公式ホームページ https://www.tora-san.jp/supported/yamada.html
(c)松竹株式会社


 上下関係の厳しい映画会社で、入ったばかりのペーペーの助監督が作品のテーマに反対して現場を拒否するなんて・・・山田さんってすごい信念の人ですね。従来から大船の助監督部は独自性があって、助監督がどの監督に付くかを助監督部が決められたし、また助監督もある程度、付きたい組(監督)を選択できたと言われますが、それでも作品のテーマが気に入らないから付きたくない、といって拒否したのは前代未聞だったらしい。
 だから、先輩助監督などに生意気だと疎まれる・・・。そんな行き場のなかった山田さんを助監督に付けて育てたのが、 『張込み』(昭和33=1958年)『砂の器』(昭和49=1974年)野村芳太郎 です。

 野村芳太郎は、自分がチーフ助監督の時には、デキる助監督として一目置かれていたが、かけ麻雀ばかりやってるとか女癖が悪い等と、とかく悪評の高かった今村昌平をセカンド助監督に迎えて育て、自身が監督になってからも初めての時代劇 『慶安水滸伝』 (昭和29=1954年)に今平さんを付かせたりしている。大島渚が助監督として最初についたのも、この野村組です。

 鬼の今平を映画で叩いて鍛えたのは、今平が最初についた 小津安二郎 と川島雄三、そして野村芳太郎なんです。

 怒りの大島に映画のイロハを教えたのも、野村芳太郎なんです。
 (大島さんは 小林正樹堀内真直 などの監督についたが、特に 大庭秀雄 組をよく担当した)
 
 喜劇の山田洋次に、やはり映画のテニヲハを教えたのは野村芳太郎なんです。

      野村芳太郎は偉大ですね。


野村芳太郎監督
▲ 野村芳太郎監督
出典:シネマサイト「シネマトゥデイ」 http://www.cinematoday.jp/page/N0072904
(c)松竹株式会社


 それはともかく・・・松竹ヌーベルバーグの旗手として華々しくマスコミに登場し、やがて『日本の夜と霧』上映中止問題で松竹上層部と喧嘩して辞め、社会派な問題作を連作し、日本初の ハードコア『愛のコリーダ』昭和51=1976年)を撮り、常にスキャンダラスな硬派なムードの中にいた大島渚と、
撮った喜劇映画がヒットしなかったので日蔭の身が長く、『男はつらいよ』シリーズでようやく大当たりをとり、 渥美清 が亡くなるまでこのシリーズ1本で映画会社の松竹を支えた山田洋次。

 偉大な二人ではあったが、松竹大船という同じフィールドでは並び立たなかった。

 こういう二人のような話を、2013年の現在進行形の話として書きたいですが、

 そういう映画人は今いないから。・・・合掌


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松竹“昭和29年組”の栄光

 先のコラムの「大島渚もまた死す…」というタイトルは フリッツ・ラング 監督の反ナチ映画 『死刑執行人もまた死す』 (1943年・アメリカ)からのイタダキですが、まさに大島渚は日本映画界における 死刑執行人 だったと思います。

 彼が『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』でもって日本映画の既成概念をブチ破った事もそうだし、そのトンガッた勢いのまま、
松竹大船では 渋谷実と野村芳太郎、小林正樹以外の監督はいらない、 と発言して物議を醸した事、
『日本の夜と霧』上映中止に抗議して松竹を退社し、自社プロ 「創造社」 で自分の主張&理想に沿った映画作りを展開した事などはすべて、
旧弊なる日本映画界に鉄槌を下すが如きの所行であって、まさに“死刑執行”といえましょう。
 大胆な大島さんはちょっと日本人の枠に収まらないような傍若無人さと先見性で、当初から意図的に世界進出を見据えていたと思われます。

 昭和30年代後半あたりから、松竹ヌーベルバーグに限らず、羽仁進勅使河原宏 など先進的な映画作家がぞろぞろ出てくるけれども、おそらく真の意味でインターナショナルな映画作家だったといえるのは大島渚だけだったのではないでしょうか。

 もっともベテラン監督批判の時には、他の大船の監督達から傲然たる非難を浴びて謝罪しています。元松竹プロデューサー・升本喜年の著書 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』(平凡社) に当時の様子が書いてあります。

 大島の大胆な発言が目立った。大島は松竹の幹部の無能ぶりを、徹底的にこきおろしただけでなく、若い世代から遊離してしまった「巨匠」と呼ばれる松竹の監督たちを、ボロクソに言った。それらの監督たちを追放することが、松竹の急務だとし、「百歩ゆずっても」と前置きし、渋谷實、野村芳太郎、小林正樹ぐらいを残し、あとの名監督たちはいらないと言いきった。記者の筆が少し滑りすぎたせいもあり、誤り伝えられたとして、大島が、会社に謝罪文をとられたということもあったが、その後、「百歩ゆずって」という言葉が、撮影所のなかで流行した。

 『日本の夜と霧』 問題で大島さんが松竹を退社するのが昭和35年(1960)、“松竹の良心”と言われた小津安二郎監督が亡くなるのはその3年後の、ジャズ野郎が生まれたのと同じ 昭和38年(1963) 。ということは、大島さんは松竹在籍時にベテラン批判をした事になる。退社した後だったら謝罪文をとらされることもないでしょう。
 つまり何を言いたいかというと、あの小津安二郎が元気であった頃にそれを言った事が、凄い、ってわけです。見上げた度胸です。

 先のコラムで大島さんと同期入社の山田洋次監督の事にふれましたが、その昭和29年(1954)春に大船撮影所に入社したのは次の10名。

 山田洋次(東大)、大島渚(京大)、川辺和人(一橋大)、稲垣公一(東大)、不破三雄(京大)、佐藤慶松(東大)、宮川昭司(早大)、小出龍夫(早大)、及川満(立教大)、田中淳剛(慶大)。
 入社の成績は、大島が一番、川辺が二番であったが、山田は、三名の補欠の一人であった。山田が補欠になったのは、成績というより、身体検査の結果だったといわれる。
 補欠のなかの他の一名は、浦山桐郎であった。…(略)…補欠三名のうち、あぶれた一名が、浦山桐郎だった。浦山は、大船から日活へ移った西河克巳に相談に行き、その紹介で、日活へ入っ た。  (前掲書)


 というわけで、この時、山田洋次とともに後に 『キューポラのある街』 (1962年) 『わたしが棄てた女』(1969年)を撮る 浦山桐郎 も入社試験に落ちていた! しかも山田さんは再度採用されて松竹に入ったが、浦さん(浦山監督の渾名)は日活へ行き、今村昌平の助監督について薫陶を受ける・・・いやはや、『ゴジラ』と『七人の侍』の年、昭和29年の松竹大船は物凄い人材を集めていたものです。

 升本本では、松竹を落ちた浦さんは西河監督を通じて日活に入った、と書かれていますが、大船撮影所に助監督試験の合否発表を見に行った浦さんは、自分の名前が掲示板にないのを知るとガックリし泣き崩れていた。するとそこを通りかかった今村監督の奥さん(昭子さん)と 鈴木清太郎 助監督(のちの鈴木清順)に慰められ、
「日活でも採用試験があるようだから受けてみれば」と勧められ、
それで日活入りしたという話もあります(『映画は狂気の旅である』今村昌平、日本経済新聞)

 日活入りした浦さんは西河監督の組につきますが、そこで“天敵”のチーフ助監督・中平康(この人も異才ですよね)の壮絶な苛めに遭う……と、この話の続きはまたいつか。

 この昭和29年入社組の大島渚、田中淳剛に、吉田喜重、後に作家になる高橋治、大島映画の脚本家で大島組以外でも健筆を振るった田村孟、上村力、斎藤正夫といった当時助監督だった面々が加わって『七人』というシナリオ集が出され、いわば大船の若き“七人の侍”による<アンチ大船調>的活動が精力的に行われていった。

 この中の 上村力(かみむら・つとむ) は、後に監督からプロデューサーに転向するのですが、山田洋次監督がシナリオを担当したテレビ・ドラマ『男はつらいよ』(フジテレビ)を映画化する際に最も尽力したのがこの人。
 この映画化が立ち上がった時、松竹のドン、いや日本映画のドンでもある松竹社長の 城戸四郎 が、
「テレビでやったものを何も映画でやることはない」
と言って反対した。
 『男はつらいよ』までに山田監督が作った数本の喜劇映画は興行的に振るわないものが多く、何かの折に山田さんがそのことを城戸社長に詫びたら、

「それは君が悪いんじゃない。宣伝が悪いんだ。だからもっと頑張れ!」

と言って励ましたという。城戸は、世間が山田喜劇を迎え入れる前から一貫して山田監督を支持してきたのだ。なのに『男はつらいよ』はダメだという。
 城戸が映画化を拒んだのは、映画業界を斜陽においやったテレビへの嫌悪感か、もしくはテレビを「電気紙芝居」と呼んでバカにしてきたカツドウヤ気質ゆえなのか。その両方ではないかと思うけれども、危うく映画化がお流れになりかけた時、
「この企画は当たるから、山田に撮らせてくれ」と身体を張って言い続けたのが上村プロデューサーであった。
 結果、松竹はこの『男はつらいよ』で30年以上も食い繋いでいく。

上村力は山田洋次と同期であり、よって大島渚とも同期であり、松竹大船を落ちて日活に行った浦山桐郎とも同期である。この 昭和29年組 はなんという人材の宝庫であったことか。

 こうした有能なカツドウヤ(映画人)の予備軍たる人々はどこに行ってしまったんですかね? みんなIT企業かネット(ゲーム)会社、お笑い芸人になっちゃってるんですかね。


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虹を掴みそこねた勝新

 とにかく大島渚は映画にとどまらず、国内外の政治から社会問題、またそれらを討論するテレビ番組、サブ・カルチュアと何にでも首をつっこみ、イイ所だけ取り入れて、最終的には自分の表現手段である映画に昇華するという人であったけれども、それだけにトラブルも絶えなかった。先のコラムに書いた松竹大船撮影所のベテラン監督批判もそうだし、そのずっと後、結婚30年を記念するパーティでの 野坂昭如との大喧嘩 (ワイドショーの追悼コーナーではこの映像と『戦メリ』と『愛のコリーダ』と同作で助監督を務めた 崔洋一 監督ばっかし、でしたな)もそう。

 で、ジャズ野郎は知らなかったが、1月17日付けの東京スポーツには勝新太郎と揉めた話が紹介されていた。『戦場のメリークリスマス』(日英合作、1983年)映画化の際、 ビートたけし が演じた、捕虜収容所で敵兵をシゴキ倒す原軍曹役(自作・他作を通じて、たけし生涯の当り役)はもともと 勝新太郎 が予定されていたという。それが-

 …(略)…脚本を入手した勝新が書き換えを要求してお流れになったという逸話がある。後に「原軍曹=たけし以外にこの映画はなかった」と振り返った大島監督。結果として、たけしは勝新の「代役」ではなく「必然」。これが後の巨匠・北野武誕生のきっかけともなった。 (「東京スポーツ」2013年1月17日)

これを読んで「ああなるほど、それでか」とピンときた。確か、この頃、勝新は大島さんがテレビに和服姿で出演すると、
「着流しでくるな、ちゃんと袴を履け」
と怒っていたっけ。あれはこれが遠因だったのか。東スポにこうある。

 また、大島監督はその後も勝新との“確執”があった。ワイドショーでコカイン事件を起こした勝新を批判。対する勝新は大島監督の着流し姿を雑誌インタビューでバッサリ斬った。(前掲紙) 

東スポによれば、大島監督は勝新との確執を問いただす記者を「うるさい!」と例の調子で恫喝したが、その後、勝新が亡くなった時には
「本当の、本物の大役者だった」(前掲紙)
と語ったというから、勝新の役者としての力量は認めていたのだ。

 ことほどさように、勝新太郎は因果な役者である。彼の演技者としての凄さは、大島監督ならずとも衆目が認めるところだ。あの黒澤監督もそれを認めていたからこそ 『影武者』(黒澤プロ=東宝映画、1980年) にオファーした。なのに撮影現場でビデオカメラを回す、回さないで対立し、映画を降板することになる。これは当時、ドエライ大事件として連日報道されたものだった。
 ところがその『影武者』がカンヌ映画祭でグランプリを受賞する。主役で出るはずだった勝新の代わりに、現地カンヌでは代役を務めた 仲代達矢 が黒澤監督とともにニコヤカに手を振った。

 一方、勝はといえば、その翌年(1981年)、自身のプロダクション「勝プロ」が倒産の憂き目にあう。

 勝の出演がなしになった『戦場のメリークリスマス』もその年(1983年)のカンヌ映画祭には出品され、受賞こそならなかったが(グランプリはあの今村昌平の 『楢山節考』 )、大ヒットして、当時やや人気が下降気味だったといわれるデビッド・ボウイを復活させ、「たけし」(戦メリ出演時のビートたけしのクレジット)を世界に紹介し、 坂本龍一 のテーマ曲にいたっては当時、大大ヒットして、最近でも若手のミュージシャンがカバーするほどである。つまり最高にエポック・メーキングな映画となった。そんな美味しい作品を脚本に口を出して降ろされるとは……。

 ツキがない、のではない。自分でツキを手放しているのだ。映像やストーリーのイメージが絶えずわき上がってきて、それに夢中になると自分を抑えられなくなって、他人の映画をも「俺のシャシン」にしてしまう。

 勝新は、おそらく「監督」をしてはいけない俳優だったのだろう。なまじメガホンを執って演出する面白さを知ってしまったがゆえに、一役者としてスクリーンに出るだけでは我慢できなくなった。

 それが彼の悲劇でなくて、なんであるか。

 なぜなら、勝新は『影武者』や『戦メリ』以外にも自分のエゴでもって映画化が潰れたり、出演できなくなった企画がゴマンとある。大島渚とも『戦メリ』以前、勝がまだ大映のスター時代に 『ゴキブリ 』という題名の映画を撮る企画があった。
 この『ゴキブリ』は W・S・バンダイク 監督による 『マンハッタン・メロドラマ』 (昭和9=1934年、アメリカ)にヒントを得て大島渚がシノプシスを書いたものだが(後に公開された石原プロ製作・東宝配給による渡哲也主演作 『ゴキブリ刑事』『ザ・ゴキブリ』とは違うようだ)、実は大島は『ゴキブリ』より先に自身の大映第1作として 山本富士子 主演で 『尼と野武士』 という時代劇を撮るのが本決まりになっていた。
 ところが、この時、大島が直前に東映で撮った 『天草四郎時貞』 (昭和37=1962年)が大コケして、『尼と野武士』はもちろん、彼が大映で撮る話自体が消滅してしまう。大島さんもこの頃は案外ツイてない……。
 だから『ゴキブリ』の頓挫は、勝の責任ではないが、『戦メリ』の後、オーストラリアの全面協力で 『日本人捕虜大脱走』 という大規模な戦争アクションの企画が実現化しそうだったのに、勝新の“独断専行”のおかげでオジャンになったという。

 このことは昨年亡くなった 堀川弘通 監督の名著 『評伝・黒澤明』 にも紹介されている。これは太平洋戦争中、オーストラリア奥地のカウラ捕虜収容所で日本人捕虜が大量脱走した事件を題材にしたもので、堀川監督も勝と同じ事件を扱った企画を温めており、映画化に動いたが、オーストラリアの製作者と折り合わずに断念した。
 一方、勝新は-

 勝側はこの事件を中心にした話で『日本人捕虜大脱走』(仮題)という、シナリオ(尾中一脚本)も作った。そしてオーストラリア側と協議したが、勝はオーストラリアでも羽目を外しすぎて先方の信用を失い、ついに実現を見なかった。     (『評伝・黒澤明』堀川弘通、毎日新聞社)

 この頃、1986、87年(昭和61、62年)だったと思うが、テレビの制作会社にいたジャズ野郎の知り合いが、ロケ取材のためにオーストリアに行った時、日本の俳優で勝新太郎というのが現地(の業界内)で物凄く嫌われている、という話を伝え聞いた。
「何で嫌われてんの?」と問うと、知り合いが言うには、
「なんでもオーストラリアで映画を撮るからと、政府を始め協賛してくれる企業から製作費を出させたのに、何も撮らずに日本へ帰ったんだって」
 どうも引き出した製作費でドンチャカやりまくって、製作費を蕩尽してしまったらしい……これを普通、世間では“詐欺”と呼ぶが、映画界にはよくある話だ。
 この話は『日本人捕虜大脱走』の事だろう、とジャズ野郎は信じているのだが、自分を大スターだと思って自惚れている勝新にとっては映画の頓挫などよくある話だし、
「俺が映画を撮ろうと思って、その準備でかかった金なんだから無駄遣いじゃない」
などと嘯いたのかもしれない。だがそこは日本ではなくオーストラリアだ、そんな言い訳は通用しない。

 結局、『影武者』『戦メリ』降板、勝プロ倒産、『日本人捕虜大脱走』中止以降の勝新の人生に善いことはひとつもない。勝新自身が監督を務めていた『座頭市』(三倶=勝プロ、1989年)撮影中に、息子の俳優が真剣で殺陣師を斬り死亡させる事故を起こし、その翌年、今度は自分が 麻薬所持容疑で逮捕 され(マリファナとコカインが、なぜか俺のバンツに入ってた、と苦しい言い訳!)、ハワイから強制送還される(1990年1月)。幸いにも『座頭市』はヒットし、その続篇を作るに当たって、勝側は脚本を『座頭市』の第1作(1962年・大映)を手掛けシリーズの全体像を作った 犬塚稔 に頼むが、ココでまた揉め、 「勝が脚本料を支払わない」 と犬塚に訴えられる。
 そうこうしているうちにガンに罹ってしまうのだが、「スター勝新」のイメージを壊したくなかったのか、医者から禁じられているタバコをその病状発表の記者会見で吸ったりする始末。
 その居直った態度は「勝新」という虚像を演じていることが見え見えだっただけに、何やら哀しかった。

 言っても詮ないことだけど、あの時--黒澤監督に刃向かわず、大島監督に文句を言わず、一俳優に徹して両作品に出ていれば、勝新はそれこそ国際的な映画スターになっていただろう。今で云えばシュワルツェネッガーとブルース・ウィルスを足し、さらに繊細な内面演技も出来る、類稀な演技派のアクション・スターに……。亡くなる時には、ハリウッドに買った豪邸の、虹が架かったプールサイドのビーチチェアかなんかに寝そべって、優雅に息を引き取る、なんて姿もあったはず。そう、虹を掴めたに違いない。

 勝の命はガンよりも、その心に巣くった勘気の虫が奪ってしまったのだ。

 ジャズ野郎はいつも思う--結局、勝新太郎は同じ大映で活躍し、 『悪名』シリーズ でコンビを組んだ 田宮二郎 と同じスター人生を生きたんだと。

 日本のハワード・ヒューズになる、 と息巻いて、ヤバい詐欺団に騙され、莫大な借金を負って自らの命を絶った田宮二郎。田宮は大映時代、出演映画 『不信のとき』 (今井正監督・大映、1968年)のポスターに刷られた自分の名前の順番(序列)を上位にしてほしいと上層部に申し入れて、永田雅一社長の逆鱗に触れ、大映退社を余儀なくされて、一時期、芸能界から干された。約1年半ほどでスクリーンにカムバックできたが、起業熱にとらわれ、そこを詐欺師に突かれて、猟銃自殺する末期に追いやられた。

 勝新は自殺こそしなかったが、黒澤・大島との衝突以後、田宮同様の低空飛行を余儀なくされ、ディナーショウで歌ったり、チョイ役で映画やテレビに出た(テレビドラマに出た際も、脚本を大幅に直して制作サイドを慌てさせる事しばし、であった)。そんな状態でも映画を撮ることに燃え、頭の中で“空中楼閣”を描いていた。そこには、いつかデッカい映画を撮って黒澤や大島、世間を見返してやるんだ、という想いがあったに違いない。

 勝新太郎と田宮二郎--デッカイを夢を描き、挫折した、本当は小心な気のいい男二人が初共演したのが『悪名』(大映、1961年)である。勝新と田宮は兄貴とその子分に扮し、このコンビでのシリーズは1968年(『悪名十八番』)まで続くが、劇中、互いに相手より目立とうとする“オレが、オレが”の芝居もあらばこそ、なんとも無邪気な表情でスクリーンをヤンチャに暴れまわる・・・その後の二人の人生を思うと、なんというか、笑えるシーンでも泣けてきちゃうのです。


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“ミスティ”が光輝く夜--Preview『世界にひとつのプレイブック』

 当ブログでは、黄金時代の日本映画に関するディープな話題ばかりでなく、新作映画の情報も随時、放り込みます。その第1弾は最近お気に入りのこの作品から……。

                         *******

 世の中、健康な人々ばかりじゃない、心(精神)を病んでそれを引きずって生きてる人もいっぱいいる。躁鬱病のパットもその一人。彼は時々、感情が抑えきれなくなると大声を上げたり、暴れ出して手が付けられなくなり、それが“暴力を振う”として警官に厳重注意されたりもする。パットは一見普通だが、その焦点のあってない目、延々と早口でまくし立てる喋り方、痩せるためと称してスウェットスーツ替わりにゴム袋を被ってランニングする姿などは、傍目から見るとやはりアブナイ人である。
 一方、パットに「私と付き合って」とつきまとうティファニーも、夫を事故で亡くし、一時はSEX中毒みたいになった女性で、スタイル良しのグラマーちゃんだが、どこか怖い。
 そんなアブナイ“自分”を引きずる二人が、二人を見守る家族達の腫れ物に触るような視線やある種の偏見を乗り越えて、めでたくラブ・ハッピーな関係になるまでの物語。とはいえ、クセのあるデヴィッド・O・ラッセル監督だけに、例によってひと筋縄にはいかない。だからなのかもしれないが、パットとティファニーの将来に一条の光が射すかのようなエンディングがやけにまぶしくて、心が和む……。

 終盤、二人が夜の舗道を往くシーンで、エロール・ガーナーの「ミスティ」がなにげに流れる。「ミスティ」といえば、クリント・イーストウッドの(劇場)初監督作『恐怖のメロディ』(1971年・アメリカ、原題は“Play Misty for Me” )で主人公のDJにストーカー女が「私のためにかけて」とねだる曲として有名で、それゆえにこの“酔っぱらいのバラード”然とした哀調漂うジャズ・ピアノの名曲にはおぞましきイメージがついてしまった。その我が愛する「ミスティ」がここではセンチメントでメロウな情感を湛えた、曲本来のイメージで使われている事が嬉しい。
 “Misty”は元々「モヤのかかった」とか、「モヤに煙った」という意味だが、曲名の「ミスティ」は、夢見心地の気分、といった意味らしい。
 これはガーナーのアルバム『ミスティ/エロール・ガーナー』(*1)のライナーノーツ(吉村浩二)に書かれているのだが、ここには後にこの曲に付けられた歌詞の一節が紹介されている。

“あなたが私のそばにくるだけで、私の心の中に、ヴァイオリンの響きが鳴りわたる。ハローというあなたの声が、音楽になり、私は夢見心地になってしまう”
 そして-
“私を、リードして行ってほしい。それが、私の心からの願い。この心細い気持ちをわかってほしい。私はあなたについて行く”

 映画の作り手が「ミスティ」を、そのメロウな曲調のみならず、この詞の意をパットとティファニーに当てはめようとして使ったとしたら、それは隠れたクリーンヒットだ。アブナイ二人の心境と行く末をこれほどピタリと表現したものはない。

 「ミスティ」は心がフィットしたパットとティファニーを祝福するかのように鳴り響いていた。それは二人の間にわだかまっていた、心のモヤがまさに晴れた瞬間だった。     
                                     〔2月22日ロードショウ/配給:ギャガ〕

*1 『ミスティ/エロール・ガーナー〔Eroll Garner Plays Misty〕』はマーキュリー・ミュージックエンタテインメント発売、ポリグラム販売のCD。上記の歌詞はこのCDで吉村浩二さんが書かれた解説(ライナーノーツ)の中から引用させていただきました。              

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俳優達も光り輝く--Preview『世界にひとつのプレイブック』その2

 『世界にひとつのプレイブック』の話を、もちょっとさせて下さいね。

                  *******

 心を病んだパットとティファニー、この二人のちょっとヘンテコな行動が、その演技が、描写(描く視点)が、おそらくこの手の障害者を扱った映画では最上のモノではないか、と思われるほど“自然”なのが気に入っている。

 特にパットの奇行にはいちいち“納得”してしまった。躁鬱病、統合失調症、てんかんなどとひと口に言うが、その症状は同じ病気でも人によってまったく違う。違うのだけど、特定の行動パターンに同じような傾向が見られることもある(と、こんな事をのたまうのはジャズ野郎の身近にこういう人がいるからなのですが)。パットの、時に応じて突発的に泣き出したり、叫んだり、動揺したりする状態は、今までの同種の作品だと決まり切った感じで描かれがちだが、ここでは見事に“個性的に表現”されている。パットを演じるブラッドリー・クーパーが今回のアカデミー賞で主演男優賞にノミネートされたのも肯けた。

 また一見、肉食系女子に見えながら、実は誰よりもパットの身を案じているティファニーも素晴らしくイイ。コチラの良さは、精神病者を演じる巧さの良さではなく、時にヤケっぱちになりながら自分を堅持する芯の強さと切ない女心(乙女心といいたいが、乙女というにはスレている。ま、そこがイイのだが)を持ち併せている“良さ”である。彼女に扮したジェニファー・ローレンスも当然、主演女優賞にノミネートされたが、なんとパットの父親役のロバート・デ・ニーロ、母親役のジャッキー・ウィーヴァーの二人も仲良く助演男・女優賞にノミネートされている。

 ジャッキー・ウィーヴァー演じる母親は、暴れる息子をどうすることも出来ず、こわごわと見守ることしか出来ない……そうなんですよね、肉親って総じてこうなってしまうんですよね。
 片やロバート・デ・ニーロの父親は暴れる息子を抑えようと挑みかかる……そう、男親は往々にして息子の理解できない挙動を力で押さえ込もうとしてしまう。トレードマークの深刻な渋面を、近年はコメディで活用してきたデ・ニーロだが、この我が子を思うトンマなオヤジ役でようやくその苦労が報われた感じだ。

 といった具合に脇の二人も良いから、今回のアカデミー賞で主演男・女優賞、助演男・女優賞に1人ずつ、計4人全員がノミネートされた、という次第である。
 同一作品に出演した男・女優が主演・助演賞の各部門に4人ともノミネートされたケースというのは、『欲望という名の電車』(第24回1951年)や『地上より永遠に』(第26回1953年)、『俺たちに明日はない』(第40回1967年)、『ネットワーク』(第49回1976年)、『帰郷』(第51回1978年)、『レッズ』(第54回1981年)などとあって珍しくはないが、割りとノミネーションがバラける最近の傾向のなかにあっては、久々の壮挙といえるだろう。

 監督はデヴィッド・O・ラッセル。この人の作品はいつもヒネってる、というか、どこかひと癖あってすんなり感動させてくれた試しがない。『スリー・キングス』(1999年)も『ハッカビーズ』(2004年)も『ザ・ファイター』(2010年)も、なんというか、ヤリたい事は判るのだけれど、それを公式通り(ルーティン)には描かず、癖のある人物やエピソードを組み合わせて、なんとなく意味ありげにムニャムニャと終わってしまう。ラッセル監督は『ザ・ファイター』でアカデミー監督賞や脚本賞にノミネートされたから、そのムニャムニャな所が向こうの人たちには受けているのかもしれないが、例えばその『ザ・ファイター』は、弟のボクサーがチャンピオンになって彼を鍛えたヤク中の兄貴と歓喜にむせぶ、なんて図で締めくくられており、本来ならボロ泣きものなのだけど、この兄弟とその自堕落な家族の状態があまりにも猥雑で、醜悪で、シリアスすぎるもんだから(リアルと言えばリアルなのだが)、感動がいまいち突き抜けない。
 だからどの作品も消化不良に思えたのだが、ついに突き抜けた1作を放ってくれました。

 そうなんだ、世の中にフツウな人なんかいないんだよ、みんなどっかこっか病んでいる。にもかかわらず、心が病んだ人を見ると顔を背けたり、無視したり、果てには差別して、イジメたりして無闇に苦しめてしまう。それは自分自身を壊してしまう行為だと、どこかで感じているのに、そういう自分をとめられない……。

 『世界にひとつのプレイブック』には、そうしたフツウの人と心の病を負った社会的弱者との距離をグッと縮めてくれる一瞬がある。それは、映画を見終わって放っておけば、たちまち消えてしまうよな泡沫(うたかた)の共感かもしれないけれど、先に書いた「ミスティ」が流れる瞬間にそれは昂然と沸き上がって、心がちょっと軽くなる……。

 「人間って何だっけ?」と今更ながら思わせてくれる、優しい訴求力をこの映画は持っている。
                         〔2月22日ロードショウ/配給:ギャガ〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
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映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
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