市川崑の金田一耕助シリーズ    Trouble with Kindaichi

 ちょうど昨年(2012年)の今頃、CSの日本映画専門チャンネルで市川崑監督の特集放映があり、そこで同監督の十八番というべき、石坂浩二主演の金田一耕助シリーズが連続放映されていました。いわゆる1970年代の“横溝正史”ブームの発火点たる『犬神家の一族』から『病院坂の首縊りの家』までの昭和の第1期(1976~1979年)、その後の『八つ墓村』(平成8=1996年)とセルフリメイクの最終作『犬神家の一族』(平成18=2006年)はシリーズというより単発作品という感じですが、ここをまとめて第2期、または平成版としてもいいかと思います。

 このシリーズはもう何度も見ており、事件の展開も犯人も知り尽くしているのですが、何故か見てしまいます……面白いから。で、見れば見たで、また新たな発見があるのです。
 シリーズ中どれが一番かというと、作品の質的からいっても、まとまりの良さからいっても、また殺し場の見せ方においてもやはり第1作目の『犬神家の一族』(昭和51=1976年)にトドメを刺します。市川崑ならではのケレン味たっぷりの映像表現が観客を圧倒的し、しかもお洒落で繋がりも良い。最近でも、どこかの車のCMで大野雄二さん作曲のテーマ曲「愛のテーマ」が使われていましたね、音楽もそれくらい有名です。

 第2作『悪魔の手毬唄』 (昭和52=1977年)は、物語が複雑なのと登場人物が多いのでその処理に追われ(それはどの横溝作品にも言えますが)、各シーンがパッパッパッと余裕なく進行し、ちょっと舌っ足らずにすら思えるところがある。つまりシークエンスの前後の余韻が少々足りないのです。ゆえに全体的に浅く感じられ、時には紙芝居っぽい感じにすら思える。
 しかし、そうしたシーン展開のめまぐるしさがあっても前作を上回っているのは、謎の連続殺人の本筋に併走した、岸恵子と若山富三郎の悲恋にある。岸恵子は、田舎の温泉宿の女将・青池リカに扮し、地味なまかない姿や割烹着で出て来るのだが、もうこんなに色っぽい女はいない、と思うようなセクシーさである。普通、どんなにきれいな女優でも、モンペを履いた田舎のおばさん姿になると、かなり老けて見劣りしてしまうものだが、岸恵子はそうはならない。逆に不思議と尖った色香が漂ってくる。
 ちょっと手元にその文献(当時の「キネマ旬報」)がないから、不確かですが、後の『細雪』 (昭和58=1983年)で初めて市川作品に出た吉永小百合が、岸恵子みたいに和服を着てみたい、というような事を言ったとか。岸の着方は、和服を前でラフに合わせ、裾の後ろがザックリ開いた感じになっていて、それは女郎の着方なんだ、とかそういう内容だったように記憶しているのですが(そう解説していたのは市川監督か、もしくは質問者の淀川長治さんだったかも)、『悪魔~』で岸恵子はそういう着方をしてないのだけれど、襟元にはいい色気がありますね。

 一方、その青池リカを慕うベテラン警部・磯川役の若山富三郎がこれまた渋い演技でもって唸ってしまう。彼が当時、フィールドとしていた東映ではついぞ見られない、奥の深い慈愛にみちた表情を見せ、ちょっと名優の域である。
 殺人事件が連続するという異常な状況下で、リカと磯川、この二人の距離感が縮まっていくようで、そうはならない。というか、これは磯川警部の一方的な片思いであって、この愚直な中年男の思慕が事件の推移と共にリカとスレ違っていくところが切ないのである。この切ない一点だけは『犬神家の一族』も敵わない。どうしようもなく暗い音楽もいい。

 有名な総社駅のホームにおけるラストシーン--金田一耕助と磯川警部の別れ--にいたっては、何も言うことはありません。列車の戸口に立つ金田一と磯川警部が別れの会話を交わす。磯川警部の後ろ姿が何度か映りますが、この丸い背中にいい情感が出ています。“背中”について昭和の大女優・田中絹代はこう言ってます。

 …(略)…絶えず背中の演技ですよ。それが映画というものの基本だったのです。映画演技は背中にあるとよく言われますが、その演技はなかなかできるものじゃないんです。
  (田中絹代、聞き手・滝沢一『INTERVIEW 映画の青春』京都府京都博物館編、キネマ旬報社)


 若山富三郎は、この後、木下恵介監督の『衝動殺人 息子よ』 (昭和54=1979年)やNHKのドラマ『ドラマ人間模様 事件』 (昭和53~59年)の好演で、それまでのアクション・スター(正確に言うならヤクザ映画のゴロツキ親分役)を脱皮し、仰ぎ見るような本物の名優になっていくのですが、その萌芽はこのホームのシーンにあり。チビたタバコを指でつまんで、まるで煙管を持つような感じで口に持っていく仕草には、初老官吏のいじましさと滑稽味があって、なんとも味がありました。

 あと、事件の背景に、サイレントからトーキーに移り変わる映画界の激変があって、洋画にスーパーインポーズ(字幕) が採用されて、それまで映画スター並みに人気があって花形的な存在だった活動写真(映画)の弁士、いわゆる活弁(サイレント映画の解説者)が廃業に追い込まれるという映画史的情況を描くために、スーパーが初めてつけられた映画『モロッコ』 (昭和5=1930年)の一場面が出て来ます。この挿入の仕方がたまんない。どこかモダンでお洒落で……こういうのをやらせると市川崑は“巧い”。この点では、黒澤明も木下恵介も市川崑に一歩も二歩も譲るような、“旨さ”があります。


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ボヤケの謎--第3作『獄門島』    Trouble with “BOYAKE”

 第3作目の『獄門島』 (昭和53=1978年)は、市川“金田一”ミステリーの中では異色な位置にあります。まず南国風のムードが珍しい。孤島を舞台にしていて、陽気な開放感がある。横溝モノっていうと、大体、信州の奥深い山奥とか、岡山のあたりの鄙びた山地や盆地が出て来て、「家」とか「血筋」を重んじる因習深くて閉鎖的な村というのが舞台なのに、『獄門島』はちょっと観光旅行のような気分がある。
 もちろん、ここでも事件の核心にあるのは、血筋(手込め、近親相姦といったインモラルな色恋)や跡取りの問題なんですが……ただ、ジャズ野郎が言いたいのはストーリーの事じゃなくて撮影についてです。

 オープニング・タイトルが終わって、金田一が船着き場にくる。その一連のカットはおそらく長焦点の望遠レンズで撮られてるんです。ところがこの望遠ショット、どうも画面の真ん中に焦点のボヤケる部分が出来ている。
 何度も見ていて、今まではこれを市川崑ならではの「効果」(狙い)だと思っていましたが、本当にそうなんだろうか、どうもそうじゃないみたい。
 というのは、その望遠レンズで撮ったカットにだけその円形のボヤケが出てて、中・短焦点のレンズで撮った「寄り」のカットには、そんなボヤケは出ていない……つまり望遠レンズで撮った映像にも本当はその円形のボヤケは出るはずじゃなかったのでは? その長焦点と短焦点のカットが交互に出て来るときに、その円形のボヤケがやけに目立つので、気になってしまうわけです。

 そこで、「コレはきっと、キャメラマン(名手・長谷川清。ジャズ野郎はこの人の映像が好きでして、市川崑はこのキャメラマンがいたからこそ、ああいうビジュアル先行の金田一シリーズを撮れたんだ、とさえ思ってます)が使った望遠レンズがイカレてたんだ」と考えたわけです。

 さらに、そう思って見ていくとこの映画の設定は夏、だから空はピーカン(青天)で青く澄み渡り、海も青々としてる……と思いきや、意外に暗いんですよね。そんなに晴れてない。晴れてない日に無理して撮ってる。なぜ無理に撮ったのか、それはリテイクだからではないでしょうか。封切りに間に合わせるために、曇天だったが無理して撮ったと……。
 それとも、その年の夏は天候不順で晴れた日が少なかった、ということかもしれません。『獄門島』の公開は昭和53年8月末ですから、ロケはきっと6、7月といったところでしょう。この時、ジャズ野郎は中学3年ですが、その年の夏はどうだったかなぁ…?
 さらに本来ロケで撮るべき、真犯人に繋がる凶器を金田一が拾うなどといった重要なアウトドアのシーンが割りとセットで撮られている。

 市川崑はロケ嫌いなのか? 

 例えば、サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックはロケーションが嫌いな監督として有名で、ロケ先では外景だけを撮ってきて、それをセットで映写し、その前で俳優に演技させて自分の思い通りの画を撮る、といったスクリーン・プロセスをよく使います。俳優もロケ地に行っているのだから、後でセットでアップなんか撮らず、ロケ先で一括して撮ってしまえばいいものを、わざわざそういう事をする。
 ヒッチコックの場合は、コンテがすべてでそのコンテを(彼の頭の中で)ピチッと配置しないと“ヒッチコック・サスペンス(サスペンスの計算)”が成立しない。だから1点1点のカット(構図)が最重要になるわけで、それゆえ狙い通りの構図を確実にシュートするためにロケシーンの撮影をセットに持ち込むのだ、とジャズ野郎は考えるのですが、いくら市川崑がリテイク好きでも『獄門島』の場合は、どうも違う気がします。

 『獄門島』のリテイクは同じリテイクでも、“一度撮影してみたが何かの事情で使えなかった、だから再度撮り直した”という気がするのです。

 そんなふうに勘ぐって映画全体を見ていったら、照明が合ってなかったり、同じロケシーンでも「晴れ」「曇り」のカットが交互に出てきたりする。
 だから、「これは持参した望遠レンズであらかた撮ったんだけど、ラッシュ(編集前の撮ったまんまのフィルム)を見たら映像の真ん中にボヤケがあって、これじゃ使い物にならない、ってんでリテイクした」と読んだ次第。

 だからすごく苦労して撮ってるわけですよね。 


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謎のボヤケはハレーション?

 ただし先の【ボヤケの謎】で書いた「獄門島リテイク説」は、自分で提起しておいて何ですが、まったく当てにはなりません。というのは、この中央がボケやた望遠レンズでの映像は、この後の金田一シリーズにも出てくるからです(!)。もしも、このボヤケが入った望遠レンズの画がNGだったなら、二度と出てこないハズですが、これがちょいちょい顔を出してくる。

 特に、金田一シリーズ第1期の最終第5作『病院坂の首縊りの家』(昭和54=1979年)では、題名の“病院坂”という長い坂道(東宝砧撮影所がある成城のそばの岡本町で撮影)をテクテクと上り下りする金田一耕助やそこを下ってくる人力車を捉えた超ロング・ショット等において、そのボヤケが散見できます。だからこれはもう“わざと”このボヤケ・カットを使っている事が明白、ゆえにこれは“効果”なのでしょう。

 余談ですが、ジャズ野郎も学生時代に16㎜の自主映画を撮った経験がありまして、その時、セットの芝居を望遠レンズで撮るという黒澤作品の“故事”に倣って、わざわざ望遠レンズをもってきて外景シーンを撮った事がありますが、確かに“長い玉(長焦点レンズ)”を使うと中央あたりがややボヤけたような記憶もあります。だからボヤケは望遠レンズの特性なのかもしれませんけれど……ただ私めの場合は、撮ったキャメラマンの腕が悪かったからだろう、と今も思ってますが。いや、あれはもしかすると、ハレーションが入り込んだのかも……とすると『獄門島』や『病院坂の首縊りの家』のボヤケもハレーションか。

 いずれにしても、監督の市川さん、撮影した長谷川清さんも亡くなってますから、ここのところを確認できないのが残念です。市川崑関連の書物も漁って調べていますが、なかなかそこまでは書いてない。どうでもいいといえば、どうでもいい部分ではありますが…。

 誰かご存知ならば、教えて下さい。
              ↓
              ↓
※ とかつて書きましたが、最近読んだ 『映画撮影とは何だ』(平凡社) の 映画キャメラマン・五十畑幸勇 へのインタビューの中にこの答えと思しい記述がありました。以下に。

〔市川監督は〕 望遠が好きで、フル・ショットで撮ります。その時の人物の配置が絶妙なのですね。望遠レンズの被写界深度に入っていればパン・フォーカスに近くなり、黒澤さんはそのままカチッと撮り、ハイキーに近い映像が好きですが、市川さんの場合、絞らずに前後をボカす。開放にして柔らかく軟調で撮る。
  (『映画撮影とは何か キャメラマン四○人の証言』 山口猛・編、監修・佐々木原保志、平凡社)

〝市川さんの場合、絞らずに前後をボカす〟・・・というわけで、ジャズ野郎が気になっていたボヤケは、効果、つまりわざとああいう画面を好んで入れていた、という事のようです。永らく市川組付きで『おはん』で撮影監督としてデビューし、以後の市川作品を担当した五十畑キャメラマンの証言だから、間違いない、でしょう。


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『女王蜂』のスプリット・スクリーン

 第4作目の『女王蜂』 (昭和53=1978年)を初めて見た時--「凄い! 市川崑って天才だ」と感嘆した。何に感嘆したかというと、劇中に登場するスプリット・スクリーンにビックリしたのです。

 スプリット・スクリーンとは、一つの画面の中に複数の画面が現れる、または一つの画面が複数の画面に分かれていく“画面分割”の技法で、最近ではジャック・バウワー(キーファー・サザーランド)が活躍するアメリカのテレビドラマ『24-Twenty Four』(2001-2010年)の影響か、映画やテレビでよく見かけるようになりました。でも『24』のように、のべつまくなしに分割画面が登場し、しかもそれぞれの画面で主役、脇役、その他のドラマが進行するのを同時で見せられると疲れてしまう。見てて疲れるのは3D映画だけで沢山、目を大事にしたいジャズ野郎はだからゲームもひかえています。こうしてブログを打っててもパソコンでブルーライトにやられるくらいですからね。

 お互いに目は大事にしましょう、目は命です。

 それはともかく、このスプリット・スクリーン、今でこそ珍しくありませんが、当時、中学3年のジャズ野郎にとっては『女王蜂』でのこれが初体験で、フェードアウトもワイプも知らない、いたいけな映画ファン1年生でありましたから、これを見て大層たまげて、先の少々大げさな「市川崑は天才だ」になったわけです。劇中で、2ヵ所、画面が突然パアーッとスプリット・スクリーンになって、文字通り「アッ」と思わされる。1度目は殺人が起こった時に出演者が驚きあわてる、その一人一人の顔がパパパッとスクリーンの中にずらっと表れ、あともう1回は終盤の金田一耕助による謎解きの時に……。

 ただ、これがなくとも『女王蜂』は好きですね。先の3作で犯人役を演じた高峰三枝子、岸恵子、司葉子の3人が再度顔を合わせ、仲代達矢、沖雅也、萩尾みどりなど、美男美女の共演のおかげで画が華やか。化粧品会社とのタイアップで、主題歌(智子のテーマ「愛の女王蜂」)を流したCMが公開前にオン・エアされまくって耳慣れしていて観る前から親近感があったし、加藤武の等々力警部が劇中で言う「時計にミステリー」はCMの宣伝コピー“唇にミステリー”(商品は口紅)に引っかけたものだったりして、そういうお遊びも面白かった。
 例によってお話は復讐に遺産相続、隠し子などが絡むドロドロしたもので、また例によって原作を改変しているので事件展開がややっこしくて少々もたれるのですが、これまた例によって金田一と“よお~し、判った!”の等々力警部が言葉を交わすエンディングが爽やかで、後味がよい。

 この映画は後味だけでなく、市川崑お得意のオープニングもいいですよね。もしかしたら金田一シリーズ中、一番いいかもしれない。殺人事件とその発端を描いたかなり長いアヴァン・タイトルがあって、突然バーンとテーマ曲が流れて「女王蜂」と出るのですが、その白抜き文字の黒タイトルの後、昔懐かしいボンネット・バスに揺られて金田一がやってくる。バスが伊豆の山峡を走る点景の中に、黒バックのクレジットが出る、それも市川監督お気に入りのジグザグに配置された明朝体で! 全体的にのどかで、しかもこれからオッカナイ事が起こるぞという予感のある中を、金田一耕助がお気楽な顔でやってくるあたりの軽快感はちょっとない。田辺信一のテーマ曲も観客の見る気をそそるサスペンスフルな旋律で、前3作のテーマ曲に劣らない。

 玉に瑕なのはヒロイン・智子役の中居貴恵でしょうかね。多くの男が奪取しようと群がる、遺産継承者の絶世の美女には、どうも……美醜については様々なご意見もあろうかと思いますが、少なくとも“群がるタイプ”ではないように思えますが。


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トレードマークの“烙印”探しこそが愉しい!

 『女王蜂』でスプリット・スクリーンを初体験した、と書きましたが、このスプリット・スクリーンを最も巧く使ったのは、ロバート・アルドリッチ監督じゃないでしょうか。少なくともジャズ野郎が識る監督ではそうです。アルドリッチは『24』みたいにのべつまくなしにコレを使わない。彼は自分の映画の中の、どこかで必ずコレを仕掛けるのですが、それをコッチの思いもよらないところで出してくる。「オッ、ココで出すのか!」てな驚きと興奮と、そしてそれを共有する愉しみが、この画面分割が出た時に一瞬にして沸き上がる。コレですよね、こういう粋な使い方をしないとダメです。

 アルドリッチ監督の『ロンゲスト・ヤード』(1974年)ではアメリカン・フットボールの試合がクライマックスにあって、ここでは一度に拠らず何度もスプリット・スクリーンやワイプ(画面を右から左、左から右にぬぐい取るように変える技法)、アイリス(その画面をだんだん丸く消したり、出したりする技法。*1)などを使い廻してますが、これは試合を面白くみせるための大サービスの使い方です。通常は劇中に1回、もしくは2回ほどポンと出す。 『北国の帝王』(1973年)では汽車タダ乗りの“帝王”であるナンバーワン(役名)が、「他のタダ乗りのエースと対決する!」という特ダネがタダ乗りホーボー(不況下の放浪者)たちに知らされる電信をうつシーンで、『飛べ!フェニックス』(1965年)では砂漠で死にかけた男達が「助かったァーーッ!」と歓喜に狂うエンディングで出ます。このスプリットが出てくると、理屈抜きに嬉しい。

 コレ、アルドリッチ監督の場合はスプリット・スクリーンですが、サム・ペキンパー監督の場合だとスローモーションって事になる。『ワイルドバンチ』(1969年)では有名なラストの大銃撃戦のみならず、オープニングの銀行襲撃シーンその他でスローをやりまくってますが、これも本当は映画の中の何カ所かで使ってみせるのが定法で、このスローモーション(大体、銃をブッ放すようなアクション・シーンでよく見られますが)が出ると、「あー、ペキンパーの映画だな」ってな感じで心が踊る。だからこうしたお決まりな描写やテクニックというのは、会社の屋号やトレードマークと一緒で、その監督のトレードマーク、“オレの作品だぜぇ~”という“刻印”ってワケです。

 市川崑の場合、その“刻印”は何か? 金田一シリーズでは、
殺人シーンでよく用いられるガラスを滴り落ちる血をドギツい色彩でみせる画面や、
回想シーンなどで使う白黒のコントラストを強調したモノクロ映像、
加えて前述のスプリット画面、
明朝体の文字を配したクレジット・タイトル--
 などと数多くありますから、それらは「1社に1つ」が原則のトレードマークの定義からすれば、もはや刻印とは呼べないかもしれません。

 でも敢えて一つあげると“襖”でしょう。それは金田一シリーズに限らず、そのずっと前の大映時代の『鍵』(昭和34=1959年)や『ぼんち』(昭和35=1960年)あたりから出て来ます。
 着物を着た妻や女中が日本間やお座敷を下がる時、ピタンと閉めた襖に着物の裾が挟まって、チョコンと飛び出る。やや間があって、この裾がピュッと引っぱられて見えなくなる--この描写を市川監督は必ずやる。ココが愉しい!
 コレ、秀麗な映像美とテクニックで鳴らした名匠・吉村公三郎監督なら、同じ襖でも襖を手では閉めず、開いた襖を女が脚を伸ばして閉める、というはしたなくも艶めかしいシーンになる。
 また日本映画の大巨匠・溝口健二に言わせれば、襖を男が後ろ手で閉めたら、それはその座敷にいる女を押し倒す“手込め”の暗示だ、というのですが、“襖”ひとつでもいろいろあるものです。

 映画に出てくる監督のトレードマーク-刻印-に注目しましょう。


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“最期”の金田一耕助

 第5作の『病院坂の首縊りの家』 、この作品をノーカットで見るのは高校2年の初公開の時以来かもしれない。一度、「水曜ロードショー」(日本テレビ)で放映した時見てますが、その時はアヴァン・タイトル(金田一耕助が横溝正史宅を訪れて、今度アメリカに行く、という件など)がバッサリ切られ、進駐軍バンドがジャズを演奏するシーンにタイトルが被さるところから始まっていて(そんな感じに始まっていたと記録してますが)、
「アレ、こんな出だしだったっけ?」と思ったもんです。

 他の金田一作品はビデオやDVDで何度か観たのですが、この作品だけ長い間、積極的に見ようとしなかった。それはこの最終作があまり好きじゃなかったから。重要なヒロイン役である桜田淳子の演技が固くて見ていられなかったのと、ドラマの終盤の謎解きが「?」だったからです。今回、すっかり忘れていた、その謎解きの「?」の部分を確認しましたが、確かにココは何度見ても納得でき兼ねますね(当ブログのご来場者が未見だとネタバレになるので伏せますが…)。
 でも全体的には、市川崑らしい編集の妙味(ギミック)もそこそこ冴えているので、
「まだ腕は落ちてないのに、なんでシリーズ辞めちゃったのかなぁ」
とは思いました。

 あと金田一の助手役になる草刈正雄が、当時、気に入らなかったんだ。なにか、こう出過ぎな感じで違和感タップリ、トボケた三枚目の役柄なのにどっかキザでわざとらしくていけない。この人って、この当時(1970~80年代)はハンサム顔が鼻についた感じで、キザでヤな感じでしたよね。
 それに加えて、ココではどうも松田優作を意識しているかのような演技をしている。おなじオトボケでも優作なら笑えるんだけど、草刈さんのはちょっと……ここもイマイチです。

 当時、この『病院坂~』は“最後の金田一耕助”って宣伝文句だったから、最後は僕ら観客に背を向けて去っていく、または去る前に一礼して去っていく ・・・そんなラストシーンを期待して見に行ったのですが、ラストはまたぞろ横溝邸に戻って面白くも可笑しくもなく終わってしまう。

 ところが--セルフリメイクした第7作目の『犬神家の一族』(平成18=2006年)では、ジャズ野郎がかつて思い描いた、このエンディングをやっていて、作品中、そこだけが感動的だった(映画全体としては、リメイク作はまったく買えませんが)。
 くるりと振り返り、観客に向き直って、照れながら静かにお辞儀して去っていく、石坂=金田一の姿を見た時、「金田一耕助シリーズも終わりなんだなあ」という感慨とともに、
「市川崑の映画もこれで見納めなんだ。市川監督は金田一耕助に託して、別れの挨拶を僕らファンに送ってくれている」と思い、万感胸に迫りました。

 このリメイク版『犬神家の一族』に続き、オムニバス映画『ユメ十夜』(平成19=2007年)の中の一篇を演出した翌年、日本映画にスタイリッシュかつモダンな映像美を刻んだ異才は、冥界に旅立ってゆかれました。享年92才。

 市川崑の“金田一耕助”シリーズのオープニング・タイトル、そしてエンディング・シークエンスはいずれも洒落ていて妙味がある。ゆえにジャズ野郎は、各作品のオープニングとエンディングだけをピックアップして、“タイトル集”としてDVDに収録し、時々見て愉しんでいます。
 「犬神家の一族」というタイトルとテーマ曲が出てくる直前から収録してもいいのですが、やはりの東宝のマークが出てきてアヴァン・タイトルの場面をちょこっと残しておくと、映画の劇的なムードを持続したまま、“タイトルがポーンと出てくる”感じがして、見てて気持ちがイイのです。エンディングも同じく、 「完」 が出る前のドラマをちょこっと残して収録<適当に編集> しているのですが、この“始まり”と“終わり”だけを第1作の『犬神家~』からずっと見ていくと、結局、各作品の本編が見たくなってくるんですよね。

 そして、この市川崑という映像作家がいかに周到な計算の上に、映像を積み重ねていて、なおかつ遊び心に溢れているかが、分かってくる。

 この華麗でグラフィカルなイマージュの精髄を継承する者は、果たして出現するでしょうか?


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市川團十郎、節分の日に逝った事の意味

 去る2月3日、歌舞伎の大名跡である第十二代・市川團十郎が急逝した。そしてその日は節分であった。歌舞伎や梨園については何にも知らず、狂言(演目)を1本も見たこともないジャズ野郎が言うのも何ですが、「まさか、節分に逝くとは…」とちょっと絶句しました。
 なぜ絶句したかというと……いや、その理由を言う前に、歌舞伎役者・市川團十郎が持つ重い意味について、読みかじった各種の歌舞伎書籍をもとに説明してみましょう。

 初代の團十郎は万治3年(1660)江戸の和泉町生まれ(通説)。團十郎の父は名を堀越重蔵(または十蔵)といい、この初代は由緒ある役者の家に生まれたといいたい所ですが、先祖は武田・後北条の浪人だったというから武士の出です。初代の幼名は“海老蔵”といいますが、その由来は-

 父の重蔵の頃から江戸の劇場街にほど近い和泉町に住みついた。この人はなかなかの利け者で地主組合の組合長になり、町の顔役でもあった。一方またその当時有名な侠客であった唐犬十右衛門とも親交の間柄にあり、彼自身、菰の重蔵とも呼ばれる侠客仲間でもあった。それで、初代団十郎が万治三年(一六六○)に生まれた時、侠友唐犬十右衛門はみずからその名付け親になって、これに海老蔵と命名したと伝えられている。
                  (『人物叢書 市川団十郎』西川松之助、吉川弘文館)


 父の重蔵は侠客の唐犬十右衛門(とうけん・じゅうえもん)と関係があっただけではなく、自身も“菰の重蔵”と呼ばれる盗賊であったとの説もあり、顔役としても顔が利く、いや市川家のお家芸に倣って言えば“にらみ”が利く剛毅な男だった。 
 ということで海老蔵という幼名を付けたのが侠客、つまり“ヤクザ”で、父親もそれに類する“顔役”であったという、この2点をまずはご記憶願いたい。

 この14才の初代団十郎は中村座で、悪霊を成敗する坂田金時というスーパーヒーローを演じて大評判をとる。この狂言「四天王稚立(してんのう・おさなだち)」は要するに“大江山酒天童子”で知られている妖怪退治の物語で、長谷川一夫(酒天童子・役)・市川雷蔵・勝新太郎・本郷功次郎(坂田金時・役)共演で映画化もされています(昭和35=1960年・大映京都、田中徳三監督)。
 この時、団十郎は“荒事”という派手で豪放な、今でいうなら超ダイナミックなアクション演技を創始したと言われ、並みいる役者達を押しのけてドンドン出世し、芝居の台本作りも手掛けて一座を取り仕切る座頭に成り上がる。座頭は演出・脚本・主演と何役もこなし、芝居全般を一手に引き受けて指揮する大立て者(ワンマン)ですが、中でも團十郎はその神がかった人気ぶりから“お江戸の守り神”としてまさに神的な存在に祭り上げられる。そして、そこには成田山との関連があった。

 代々の団十郎は下総国(千葉県)成田山新勝寺の不動明王を信仰し、舞台でしばしば不動尊像の分身になって示現する「分身不動」を見せた。そして屋号を成田屋と定めた。このことも団十郎を指して「江戸の守護神」「役者の氏神」などと讃仰する傾向と深く繋がっている。
                       (『市川團十郎代々』服部幸雄、講談社)
 

 上記の服部先生の解説の中にある、分身は“ぶんしん”ではなく“ふんじん”と読み、それは--

“團十郎が不動明王に扮して登場するのではなく、不動明王の憑依を得て、不動明王そのものになって示現するという、宗教的な観念を表現する”                       (前掲書)

という意味で、團十郎が不動明王を“演じる”のではなく、憑依、つまり不動明王が天から下りてきて團十郎と一体化し、不動明王そのものとなって芝居小屋の舞台(ステージ)にまかり出て、江戸町人の前で悪霊や悪者を懲らしめた(懲らしめる芝居を見せた)。不動明王本人が目の前で悪党どもをやっつけてくれるのだから、これに憑依された團十郎が観衆からヤンヤ、ヤンヤの喝采を浴びたのは当然で、成田山とも強い結びつきが生まれた。屋号の“成田屋”もここからきている。

 だから成田山新勝寺では、邪や悪運を象徴する鬼を退散させる節分の日には、歴代の市川團十郎が豆をまくのが恒例になっている。新勝寺には重要な行事がいくらもあるでしょうが、年末年始の初詣に匹敵する最大のイベントはおそらく團十郎が参内するこの節分でありましょう。鬼退散の豆まきの日は、大相撲の横綱や俳優、アイドル、人気タレント達がまいてもいいが、とにかくそこに市川團十郎がいないとお話にならない。

 今年、十二代目が永眠したのは、よりによってその節分の日だった--こんな因縁、そうあるもんじゃない。
〔続く〕

※出典及び参考文献 :『人物叢書 市川団十郎』 西川松之助、吉川弘文館 /『市川團十郎代々』 服部幸雄、講談社 /『大江戸歌舞伎はこんなもの』 橋本治、筑摩書房



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市川宗家を貫くワイルドな血脈

 ただし、市川宗家としては十二代目が今にも息を引き取るという段であっても、成田山に詣でて、大勢の参集者に豆を投げねばならない。
 そこで今年は息子の海老蔵が代参した。己の増長萬から暴力事件を招来して大怪我を負い、「團十郎の後継者という威を借るドラ息子」という印象がぬぐえない中で、死に向かう父に代わって豆をまいていた海老蔵の胸中はいかばかりであったか--。

 ここで前コラム【市川団十郎、節分の日に逝った事の意味】で念押しした “ヤクザ”“顔役” を思い出して下さい。そしてあの暴力事件の時に報道された、顔を殴打され血だらけになって這々の体で逃げ出した、という海老蔵の状態をそこにダブらせてみる。
--ねッ、一つに繋がるでしょう。そうなんです、市川家とはもともとそうした因果に絡んだ、相当にワイルドな客血をはらんだ一族なのです。だからジャズ野郎は海老蔵事件の時、「あー、やっぱり血は争えないもんだなー」と思ったのです。

 市川宗家の、市川團十郎の、“何がヤクザか、どこが因果か”、といえば、そもそもその初代が人に殺された、という事実からしてそうなのです。この江戸の守護神、神のように崇められ、ギャラを800両もとった初代・團十郎は、元禄末に舞台の幕間(中休み)に楽屋で役者仲間の生島半六に刺し殺されている! その原因はいろいろ取りざたされていますが、高額なギャラをとり、“江戸歌舞伎において市川團十郎に並ぶ者なし(=随市川)”となった團十郎の高慢・怜悧が恨みを招いたとも言われており、天保期の8代目に至っては32才にして謎の自殺を遂げている……。

 人の注目(好事)や金銭が集中する芝居や芸事には、売れる売れないの運・不運、当たる当たらないの縁起の善し悪しがつきまとい、それを行う者は霊怪な出来事(災難)に見舞われる事がしばしばある。
 市川宗家は“随市川”と呼ばれて、江戸歌舞伎イコール市川家のような巨大な名跡であるが、巨大なだけに被る災難も多大なのです。

 やがて十三代目を襲名する今の海老蔵、彼が今年まいた豆が悪縁を追い払ってくれれば良いが、まだ自分の蒔いた暴力事件の“種”すら拾えていないように見えるんですが……。


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その1

 日本映画にはいろんなタイプの名監督、個性の強い大監督がいるが、大監督とて人間である。いつも衆目を唸らせるような名演出・名采配をするばかりではない。むしろ彼らは公私にわたって「エー、なんでこんなマヌケな事やっての?!」とか、「助監督をそんなに殴ったり蹴ったりして、それでもアンタ、人間か!」と思われるような事をしでかす、とんでもなくヒドい奴らである。これから当ブログでは数ヶ月間は、こうした日本映画史に残る、とんでもない大監督のトラブル誌を「巨匠のムチャブリ」 と題してお届けいたします。

 まず、その一番手はやはり、日本の映画監督でもっとも知名度の高い、世界のクロサワ、こと黒澤明監督(1910-1998)から--。

                    *****

 田草川弘氏が著した『黒澤明vs.ハリウッド』 (文藝春秋)は、黒澤明監督について書かれた書物の中で、最上のひとつである。この本と、黒澤作品『七人の侍』等で助監督を務めた堀川弘通の『評伝 黒澤明』(毎日新聞社)、そしてやはり黒澤監督と脚本を共作した黒澤シナリオチームのひとりで大脚本家・橋本忍の『複眼の映像』 (文春文庫)、この3冊を合わせて読めば黒澤映画と黒澤明のことはほぼ分かる。といっても、この3冊を読みこなすには、クランク・イン(アップ)、ラッシュ、「どんでん」などといった映画用語や業界言葉、映画製作全般に関する理解、そして何より黒澤映画についてのマニアックな教養がなければ無理ですが……。

 『黒澤明vs.ハリウッド』は世界で最も知名度の高い日本の映画監督に関して、ファンはもちろん誰もが知りたかったある事件の真相、つまり1968年末、真珠湾攻撃を描くアメリカ映画『トラ・トラ・トラ!』の撮影中に起こった、黒澤明監督解任事件の全容をついに白日に下に晒した点で非常な価値がある。今までも様々な黒澤研究本でその事件の概容や細部は伝えられてきたが、監督解任の前後、撮影現場の黒澤監督に何があったのか、といった核心部分は謎に包まれていて〝籔の中〟であり、黒澤監督が小道具に紛れ込んでいたヤクザの「果たし状」に激怒して助監督を一列に並ばせて殴った、とか、東映京都撮影所のセットの窓を壊して京都太秦署に逮捕された、というとんでもない事件の数々は、「果たし状」が「血判状」になったり、太秦警察に「逮捕」ではなく「自首」したのだ、という具合に細部が違って伝えられ、「いったい何が真実なんだ?」と多くの黒澤ファンを長く戸惑わせてきた。

 この度、田草川氏が膨大な調査の末に解明した真相の数々は、彼が『トラ・トラ・トラ!』の日本語版シナリオを英語台本に直す翻訳者として黒澤監督に雇われたため、映画を製作するアメリカの映画会社20世紀フォックスとの脚本改訂や打ち合わせなどの場面で監督と行動を共にし、実際に目撃・関与した事実を元に掘り起こされている。だからその信頼性は他の黒澤本の比ではない。
 とはいえ、田草川氏は東映京都撮影所で黒澤監督による珍事件が頻発した時、肝心の撮影現場にいて密着していたわけではない。しかし綿密な取材によって明らかにされた撮影前の情況や、撮影所で発生した12件ものトラブルの詳細は今まで伝えられてきた真相の中でもっとも確度が高く、しかも抜群に面白い!
 
 その12件のトラブルとは--

【 照明器具落下事件 】
【 夏服事件 】
【 果たし状事件 】
【 カーテンのしわ事件 】
【 ヘルメット、ガードマン事件 】
【 本棚事件 】
【 ガラス割り事件 】
【 鍵谷の控え室事件 】
【 壁塗り直し事件 】
【 神棚事件 】
【 壁壊し事件 】
【 屏風事件 】


 などで、これらを通じて、これぞ〝ムチャブリ〟 という巨匠の奇行と素顔を覗いてみることにしましょう。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その2

◆ すべては【照明器具落下事件】から始まった

 照明器具とは映画撮影用のライトのことである。5キロ、10キロなどとワット数が増えるに従って外観やレンズが大型化するムービー・ライトはセット撮影の必須のアイテム。この大振りな鉄の塊が演技者を照らすセットの上部から落ちて、俳優やスタッフにでも当たれば大けがはもちろん、当たり所が悪ければ死に至る。

 そんな取り扱い要注意な危険物がいきなり黒澤監督の目の前にドーンと落ちてきた。撮影に入って3日目の1968年12月4日のことである。咄嗟に監督は

「オレは京撮(東映京都太秦撮影所)の連中(スタッフ)に命を狙われている

と思い込んでしまい、妄想が膨らんで後にさまざまな異常行動を起こすようになり、スタッフに過剰な無理難題をふっかけるようになっていく。

 もともと黒澤監督というのは、完全主義の指針のもと、撮影中にムチャな要求をする事が多い。
 侍武将役の三船敏郎に向かって夥しい弓矢を本当に射らせて、三船に死ぬほどの恐怖を味あわせたり(蜘蛛巣城)、キャメラのフレームに入る一軒の民家を「あの家が邪魔だ」と取り壊させて、撮影後に同じように復元したり(天国と地獄)、といった話はあまりにも有名である。これらのムチャブリは黒澤明の偉大さを示すもので、「なッ、だから黒澤映画は凄いんだよ」といった感じで黒澤伝説を過剰に喧伝してきた。

 しかし、殊、『トラ・トラ・トラ!』で彼が引き起こした事件の数々は巨匠の名を貶める、常軌を逸した、みっともない、情けない失態の数々で、その12件もの事件は自身の偉大なキャリアに泥を塗るようなラインナップである。
 そのすべてが、撮影現場レベルで見る限り、このライト落下に始まっている。もっともライトが落下したといっても、それで黒澤監督が怪我をしたわけでも、他のスタッフが怪我をしたというわけでもない。みな無事で、普通なら「あー、ビックリした。気をつけろ、コノヤロー!」ですむことだが、黒澤監督は「命を狙われている」と過剰反応して、疑心暗鬼を深めてゆく……。   〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その3

◆ 東映京都撮影所に漂う、侠気な気風(ムード)  <前編>

 “命を狙われている”と思い込んだのは、当時、東映はヤクザ映画全盛で、撮影所内には着流し&雪駄姿の扮装をした役者や賭場の監修などをしにきた本物のヤクザがうろちょろしており、ヤクザ嫌い(ヤクザ映画も当然忌避)で知られる黒澤監督は、彼らから襲撃されるのではないかと身の危険を感じていた。

 また黒澤監督と東宝助監督時代から親しい佐伯清監督によると、黒澤監督はセットに向かう時、仁侠映画を撮影しているステージを嫌い、その前を避けてわざと遠回りしていたという。ヤクザ映画を撮っていて、そこに本物のヤクザがいたとしても、別に黒澤監督を襲ういわれはないのだから、ドーンと構えていればよいものを、この時の黒澤監督はナーバスな状態であったから、そうした野卑な雰囲気(この時の京撮には“黒澤明がなんぼのもんじゃい”とか“世界のクロサワのお手並み拝見といきましょうか”といった、小馬鹿にしたような雰囲気が多分にあったと、深作欣二監督が語っている)に過剰に反応してしまう。

 黒澤監督の初期の代表作である『酔いどれ天使』 (昭和23=1948年)は、三船敏郎のヤクザを主人公にしたヤクザ哀詩ともいうべき作品だったのに、当の監督は大が付くほどのヤクザ嫌いなのである(ヤクザが好きだ、という人はそういないと思うが・・・)。

 しかし・・・黒澤監督は知っておくべきだった。いや、同じカツドウヤなんだから、その意味することは分かっていたハズである。東映京都撮影所でライトが落っこちてきた、その真の意味を。これは(偶然の)事故ではない、故意である。

 ただし、それは黒澤監督が察したような、命を狙うといった殺伐としたものではなく、
「京撮へようこそ」といった名刺代わりの挨拶なのである。

 東映京都で、セットでライトが落ちてくる、ライトを落とされる、というのは外部からやってきた映画人に対して、「わてらをなめたらあかんデー」というスタッフからの“威嚇(警告)”なのであり、実は多くのスターや監督がこれをやられている。

 一例を挙げれば、宍戸錠。彼が『三池監獄・凶悪犯』 (1973年、小沢茂弘監督)に出演するため京撮に赴いた時、多くの取り巻きを連れていき撮影所内を練り歩いていた、という。するとセットで足もと30㎝のところにライトが落ちてきた。震え上がった彼は、京撮スタッフの反感を察してそれまで連れ歩いていた大勢の取り巻き連を東京に帰し、心を入れ替えて撮影に臨んだという(『嗚呼!活動屋群像』土橋亨、開発社)

 余談だが、この時期の東映京都の作品で、三下(さんした)役やチンピラ役などでちょくちょく顔を出していたのが川谷拓三(彼の父は元・映画キャメラマンで、彼の義父、つまり奥さんのお父さんはサイレント期の監督・仁科熊彦である)である。彼は、他愛ない殴られ役や殺され役で3000回死んだ と豪語するバイ・プレーヤーで、大概の過酷な扱いには慣れて平気だったが、中でも「これは死ぬ」と思うくらい酷かったのが、この『三池監獄・凶悪犯』だった。川谷は自著でこんなふうに書いている。

 映画界は狂気がなければ生きていけないと先ほど申し上げたが、狂気になることの好き嫌いは別にして、人間であることを忘れ本当に狂わなければ、本当に死んでしまうことだってある。

 その典型例が『三池監獄』という映画である。

 この映画のロケは、今までの僕の役者人生の中で、最も苛酷なロケとして脳裏に焼きついて離れない。もっとくだけた話をすれば、できうることなら二度とこんなロケはご免だ、とまで思う映画である。
 この映画で僕がいただいた役というのは、名もない囚人。当然のように台詞もない。鉄製の重い手かせ、足かせをつけて、一面に降りしきる雪の中を、ただひたすら歩くという役である。しかもいでたちは、素足の上にワラジ1足。当然時間が経つにつれ手足がまっ赤に腫れ上がってくる。やがて、手足の指先の感覚がなくなって……。凍傷にならないのが不思議なくらいのコンディションであった。…(略)…
 それにしても、これは本当に寒かった。いや寒さをとおり越して、それが痛みにとかわっていく。やがて手足がしびれ、その感覚さえなくなってしまうのだ。
「やばい、ホンマに死んでしまうで……」 
  (『3000回殺された男 拓ボンの体当たり映画人生』 川谷拓三、サンマーク出版)


 川谷はあまりの寒さにどうしても暖をとりたくなって、自分の小便を手足にかけて温めた、というが、コレではまるで本当の“囚人”ではないか。おまけにこの映画では、俳優イジメや裏方イビリでは“定評”のある小沢茂弘監督と主演の鶴田浩二が衝突して仲違いするなどロクな事がなかった。

 黒澤監督の話とは関係ないが、東映京都撮影所の気風がいかに苛烈だったか、がこれで分かっていただけると思う。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その4

◆ 東映京都撮影所に漂う、侠気な気風(ムード)  <後編>

 京撮のスタッフにライトを落とされた、宍戸錠はそれほどまでに高慢な態度だったのか、というと確かに態度は横柄だったようだ。
 しかし、役者や監督がそうした態度に出る裏には、映画界における“京都”という街の特殊性が作用している。京都以外の監督やスターたちにとって京都の撮影所というのは特別な場所である。なぜなら京都は日本における映画製作の発祥の地、老舗であり、腕っこきの、職人気質まる出しの玄人スタッフが揃っている、との認識があって、それに飲まれまいと神経質になるあまり、「舐められてたまるか」といった感じで過剰に構えてしまう、というのだ。

 『陽暉楼』 (昭和58=1983年) 『極道の妻たち』(昭和61=1986年)で知られる武闘派監督・五社英雄は、 『鬼龍院花子の生涯』 (昭和57=1982年)を撮るために初めて東映京都にやってきた時、京都勢にナメられまいとして気張りに気張った恰好で門をくぐった。撮影所前に黒塗りのタクシーで乗り付け、白い麻の上下のスーツ(!)に真っ白なエナメルの靴、パナマ帽を被って目にはサングラス、その帽子を脱ぐとイガグリ頭という、ヤクザ映画からそのまま飛び出してきた恰好で現れたという(『映画美術とは何か 美術監督・西岡善信と巨匠たちとの仕事』山口猛・編、平凡社)

 あの強面な五社監督にしてこのビビリようだ。もっとも五社監督はすぐに気っ風の良さをスタッフにさらけ出し、首に手拭いを巻いたカツドウ屋スタイルになったため、京都のスタッフは彼に親しみを感じ、〝仲間〟に迎えた。よって五社監督はライトを落されてはいない。

 宍戸錠の一件は黒澤監督の事件(1968年)よりも後の出来事だが、虚勢を張る東京のスターや監督・スタッフに対して京都の映画人は手厳しい鉄槌を喰らわせる。怪我をさせない程度にライトを落として脅しをかけるのは「アンタ、生意気だぜ」という反感を持っている印で、これは東映京都、いや東映以外の映画会社でもよく見られた昔からの慣例らしい。

 これに類する話としては、歌手の北島三郎が東映のヤクザ映画に出た時、殺陣の最中に小道具のドスでケツをブスッと刺されたとか、売り出し中の若手俳優が殺陣で斬られる際に刀(竹光)で思い切り体を叩かれて骨折させられたとか、落石をよける演技の最中に発泡スチロールではなく本物の巨岩を落とされた、などの逸話があって枚挙にいとまがない。

 それゆえに「東映京撮は怖い」と囁かれる。

 だからライトが落ちてきた時、黒澤監督が、自分は京撮の連中に嫌われているようだ、と察したならば、この後に続く、泣きっ面にハチ、といった観のある異常事件の連鎖は抑止できたかもしれない。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その5

◆ “自作自演”の【夏服事件】

 では黒澤監督も “エースのジョー” (宍戸錠のニックネーム。錠さん、自宅全焼にもめげずガンバレ!)ばりに、配下の黒澤組スタッフ、または黒澤プロダクションのお付きの者をぞろぞろ引き連れて、京撮内をふんぞり返って闊歩していたか、というと、決してそうではない。

 黒澤監督とともに京都入りして常時そばにいたのは、
○キャメラマンの斎藤孝雄、
○照明の度会伸(わたらい・のぶる)、
○助監督の松江陽一(セット撮影の途中から参加)、
そしてこの『トラ・トラ・トラ!』事件で黒澤監督を籠絡した張本人といわれる製作アシスタントの青柳哲郎の4人だけ。

 実はこの、監督のことを理解する身内(黒澤組)の人間が4人だけと少数だったことが『トラ・トラ・トラ!』監督解任劇の遠因ともいわれるのだが、では東映京都のスタッフは黒澤監督の何が気に入らなかったのか。

 クロサワという巨匠の威光に対する本能的な反発がまずあったと思われる。ハリウッド大作を製作するとして京都に乗り込んできた黒澤監督に対して、
“巨匠のお手並みとやらをひとつ拝見してやろじゃないか”、
 とか
“黒澤天皇ってどれだけ凄い事をやるんだろう”、
といった好奇心ややっかみがスタッフの心中にはあった。
 
 黒澤監督は山下五十六他の主要な軍人役に一般人(ズブの素人)を配して、彼等を役になりきらせるために、それぞれ軍服を着せて、控え室からセットのあるステージまでの道筋に赤絨毯を敷かせて、豪壮な「軍艦マーチ」を鳴り響かせた中を行進させる、という〝儀式〟を撮影前に毎日励行させた。
 はなから巨匠を斜に構えて見ていた感のあるスタッフたちは、好餌とばかりにこれに飛びつき、陰で嘲笑い、呆れかって巨匠を愚弄した。
 スタッフの雰囲気に人一倍敏感な黒澤監督だけに、撮影所全体のムードを察知すると、巨匠の威光を示さんものとますます力みかえり、ムチャブリにも一層、拍車がかかっていく。

 やがて起こったのが【夏服事件】である。
「山本五十六長官の夏用の白い軍服の替えをもってこい」と助監督の後藤俊夫に命じた黒澤監督がスペアの軍服にも満足せず、
「撮影に際して、衣裳は同じ物を3着作っておくのがあたりまえだ!
との説教を垂れるが、実は撮影前の準備の段階で、黒澤自ら
「軍服は1着だけでよい、スペアの2着は取り消しだ」
と言っていたという。
 軍服のスペアを自分でいらないと言っておいて、撮影で入用になると「何で3着用意してないんだ!」と激昂した。これが【夏服事件】であり、助監督始めスタッフにしてみれば〝一体、何のこっちゃ?!〟であった。
 監督から事前に「1着で良い」と命じられても2着目を用意していたのは後藤助監督のお手柄だったと思うが、それを認めようせず、黒澤監督は
「変えろ、新しい物を今から2着作れ。全ての軍服は3着作れ
と怒鳴ったという(!?)。
 これからシーンを撮り始めるというのに、全部の軍服を3着作る、なんてことをやっていたらスケジュール内にクランクアップできるわけがない。勢いで言ったにしてもムチャすぎる指示であった。 〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その6

◆ 「果たし状」にキレまくる!

 黒澤監督が助監督を殴った、といわれる【果たし状事件】は撮影開始からちょうど1週間目のことである。撮影の合間に、黒澤監督が小道具で置いてあった山本五十六長官の日誌をめくっていたら、その中にヤクザ映画で使用される「果たし状」(ヤクザ間のケンカの宣戦布告状)が紛れ込んでいた。ヤクザ映画が死ぬほど嫌いな黒澤監督だけに、その表情はみるみるうちに蒼白になり、怒髪天を衝くほどに怒り出した。すぐさま助監督達をステージに集めて、事の次第を問いただし、怒りにまかせて彼らを殴りつけた

 これには、黒澤監督自身が殴ったという説もあるが、実際はチーフ助監督の大澤豊に小道具担当の助監督を殴らせようとしたらしく、大澤助監督は、それはできませんと拒否し、クビにされる(それ以後も大澤は裏方として準備作業は担当するも、撮影現場には出入り禁止となる)。殴った後、黒澤監督は、自分や自分の仕事を粗雑に扱われた悔しさから、控え室でうずくまって泣いていた、とも言われる。

 前述の『嗚呼!活動屋群像』の土橋監督によると、その時、山本長官の日誌に挟まっていたのはヤクザの「果たし状」ではなく、
 
 時代劇で使う盗人、盗人人別帳を綴じてあった。今で言う手配書、なかには似顔絵のあるものまで綴じてあった。…(略)…。              (『嗚呼!活動屋群像』土橋了、開発社)

というが、もし混ざっていたのがその似顔絵だったとしたら、それを見た時の黒澤監督の表情はいかようなものであったか。鬼か!般若か!

 土橋監督は続けて、

 天下の黒澤組でもこのような初歩的なミスをするんだなあと、へんな感心をした。
                                   (前掲書)


と書いているが、この時の助監督たちは勝手知ったる東宝時代の〝黒澤組〟ではない。
 現場を仕切っていたチーフの大澤豊は山本薩夫監督や勅使河原宏監督についていたフリーの助監督で、B班監督で本隊のA班(=黒澤組)より先に撮影を始めていた佐藤純弥監督も東映の監督で、東宝とは縁もゆかりもない。
 この助監督殴打の話を聞いた佐藤が、ロケ先の北海道から急遽、京都に戻り、黒澤監督から事の次第を聞き、お怒りはごもっともですが、殴るのはいかがなものでしょう、と意義を申し述べたら、

「佐藤君、映画はヒューマニズムじゃ撮れないよ」
           (『キネ旬ムック 黒澤明 天才の苦悩と創造』キネマ旬報社)

と言った話は有名である。

 伝統的に、日本の映画の製作現場では監督と助監督、また監督とスタッフにおける主従関係は、江戸時代以来の封建制の名残といってもいいような、厳しい徒弟制であって、この1960年代当時にはそんな気風が根強くあったし、戦前などは監督が助監督を殴るなんてことは当たり前だった(後に紹介する松竹蒲田の大監督 【島津保次郎】【清水宏】 で解説する)。

 また黒澤自身も常々「監督は戦時における司令長官、スタッフは兵隊」と軍隊の階級制で譬えていたりもしている。
 黒澤は自分が描く映画の主人公に必要以上に没入していく人だから、おそらく『トラ・トラ・トラ!』でも主人公の山本五十六にのめり込んでいたはずである。あたかも自分が山本五十六になったつもりでスタッフを指揮していた形跡がなきにしもあらず。いや、指揮するもなにも、助監督を並ばせて殴るなんて行為は日本帝国軍の仕置き(精神注入!)そのものだから、すでにこの時、黒澤はもうすでに山本五十六そのものであった。

 後に黒澤監督は勝新太郎『影武者』 (昭和55=1980年)を撮り始め、勝と対立して彼を降板させた。後年、勝は降板の際の理由を尋ねられて

「俺は武田信玄なんだから、(黒澤)監督ごときの言うことは聞けない」
という旨の抗辯を述べたが、なんとなく軍神・山本が乗り移った黒澤監督の言い分と似通っている気がする。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』j事件の真相 その7

◆ 東映の撮影所を買い取れ!

 【ヘルメット、ガードマン事件】は、物騒で安心できない東映京都撮影所の備えに、自分はもちろん俳優・スタッフ全員にヘルメットを配布しろ と監督が指示した事件。
 加えて自分に護衛用のボディガードを付けろ、と要請もしており、ほとんど被害妄想の極地だが、もっと凄いのは所内をうろつく着流し姿のヤクザ(役者)を自分の映画の出演者に見せたくない、と言って黒澤監督は製作元の20世紀フォックスに対して

「東映京都太秦スタジオの半分を買い取るようにせよ」

と要求したことだ。世界のクロサワともなれば、言うこともデカくなる。

 ヤクザを見せたくない、といったって同じ撮影所で撮影してるんだから、どうでも目に入るに決まっている。要するに、黒澤監督本人(だけ)がさらしを巻いた着流し姿の男達に我慢ならない、というわけである。
 しかも、このスケールの大きい“買い取れ”話には後日談があり、黒澤監督はこの『トラ・トラ・トラ!』の解任直後に、御殿場に持っていた別荘を5000万円で売って、その金で九州・芦屋に作った軍艦(赤城・長門)のセットを買い取り、映画(『トラ・トラ・トラ!』)の演出を続行しようと考えていた(前述、佐藤監督談)というから、こちらも驚きである。それも、監督解任後に、である……世界のクロサワ、もはや尋常ではない。
 買い取るといったって、軍艦赤城・長門を実物大に復元した大オープン・セットなのだ、5000万やそこらじゃ買えっこない。このオープンだけで、映画が優に5本撮れるだけの金がかかったといわれたセットである。
 撮影所といい、軍艦のオープンセットといい、映画に必須なインフラ、セット建造にどれほど莫大な金がかかるのかを、黒澤監督は熟知していなかったのか?

 左様……“熟知”はしていなかったようである。というのは、後に 『乱』 (昭和60=1985年)製作のため、横浜に「黒澤フィルムスタジオ」を建造することになり、それに関わっていた川村蘭太(黒澤の娘夫妻の住んでいたアパートの隣人で、黒澤監督と知己を得た人。当時はCM制作会社を辞めて、黒澤の息子・久雄と組んで黒澤プロの事業に参加していた)はスタジオの広さはどれくらいがいいか、を黒澤に訊ねた。

取材に応じた監督はこういった。
「撮影スタジオは、広ければ広いほどいい」
 そのひとことである。一瞬唖然とした私は、
「で、お父さん〔 川村氏は黒澤監督をこう呼んだ 〕、そのスタジオは東宝でいえば、第八ステージだと思うのですが、何坪ぐらいあるのでしょうか」と質問すると、監督からは
「知らない」のひとこと。きわめて素っ気ない返事が戻ってきた。…(略)…。
 東宝育ちの巨星は、第八ステージの坪数も知らず、『椿三十郎』や『赤ひげ』などの名作を発表し続けてきたのである。私には監督の「知らない」の一言はカルチャーショック以外の何ものでもなかった。
 スタジオの坪数は、そこで撮影するときの電気許容量や照明機材に直接反映する。スタジオ建設には、欠かすことができない必要データなのである。
        (『黒澤明から聞いたこと』川村蘭太、新潮新書) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 黒澤は、監督というものは、特殊効果といった細々したとした合成処理などについても知らなくて良い、知ってしまうと演出が小さくなる、とこの本の中で川村氏に言っている。

 そんな巨匠だから、当然、衆生の金銭感覚にも疎い。疎いからこそ、モノのはずみで口から出たこととはいえ、「撮影所を買い取れ」などというムチャな要求も出てくるわけである。 〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その8

◆ なぜ東宝ではなく東映で撮ったのか?

 【黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その1】から『トラ・トラ・トラ!』製作の過程で起った5件の事件について紹介してきた。ここらあたりで、すでに“黒澤監督、一体どうしたんだ?”とか“黒澤天皇はどこへ行っちゃうンだろう……”といった、暗然とした感じを持たれた向きもあるかと思う。

 『羅生門』 (昭和25=1950年)で国際的な映画賞を獲得し、この日本映画界初の快挙でもって戦後の日本に勇気と自信を与え、 『七人の侍』 (昭和29=1954年)のような超大作を仕上げ、昭和30年代後半には 『用心棒』 (昭和36=1961年)から始まるエンターテインメント巨編ラッシュを実現させた、当時の日本映画界で唯一世界に通用すると思われていた大監督が、この昏迷ぶり、大迷走である。確かに映画製作につきものの細かい行き違いや計算外のアクシデント等もあっただろうが、それにしてもトラブルが多すぎる。それも黒澤監督発信のトラブルがやけに多い。
 それは 何故 か?

 と、ここでまた誰もが疑問に思うこと--つまり元々、東宝育ちの黒澤監督が大嫌いなヤクザ映画で隆盛を誇っていた東映京都のスタジオで、何故 撮ることにしたのか、について解説しておきましょう。スタジオを東映京都にするに当たっては、まず黒澤監督と古巣・東宝の抜きさしがたい対立があったのです。

 よく東映京都で撮ることになった理由として、スタジオのレンタル料が東宝の東京砧撮影所より東映の京都太秦撮影所の方が安かったから、と言われているが、実際は黒澤監督自身が「東映京都で撮れ」と執拗に厳命したことに始まっている。正確には「東宝以外のスタジオにしろ」と命じたのだが、これは東宝が黒澤監督が社長を務める製作会社・黒澤プロダクションと結んでいた製作契約において、黒澤プロ側に非常な不利がある、ということを監督が知ったからだ、と『黒澤明VSハリウッド』では指摘している。

 東宝が黒澤プロ側と結んでいた契約は、黒澤プロ(黒澤監督)が製作費や撮影日数を超過するとその分、黒澤側の負担が増し、その後の配収分配にもマイナスに影響してくる、といった伶俐な契約であった。なのに、 堀川弘通の『評伝 黒澤明』(毎日新聞社) によれば、黒澤映画のシンボルともいえる東宝の大スター・三船敏郎の三船プロの方には製作費を無利子で貸して優遇していた。それに引き換え、東宝は黒澤プロには利子付きで貸していた、という事実もあった、という。

 こうした事から黒澤監督はこの時期、かなり強健に東宝を忌避していた。確かにこうした経緯を知ると黒澤監督の東宝嫌悪も分からなくはない。だが黒澤監督による完全主義を貫く映画製作に対しては、そうしたキツい条件をつけないと収まらないだろう、といった懸念が東宝側にはあった。それも充分理解できる。
 つまり『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』 (昭和33=1958年)を頂点として黒澤作品は、常に製作費やスケジュールを大幅にオーバーしてきた。黒澤明は金の掛かる巨匠で、世界に出しても恥じない名作を作るけれど、そのすべてが大ヒットするわけではない。不入りとなれば、製作費で大赤字を出しているのだから、大・大赤字になる。肩代わりするのは東宝だ。
 ゆえに東宝が黒澤プロに示した作り手が不利になるような契約は「せめて製作予算・スケジュールをそこそこ守るように撮ってくださいよ」という事前のやんわりした釘刺し、足カセだったハズである。

 だがこの契約内容の細部(カラクリ)を知った黒澤監督はキレた。以後、極度の東宝嫌悪となって、旧知の黒澤組の人々をも退けて、東宝以外の撮影所で『トラ・トラ・トラ!』を強引にクランクインさせるに至る。その場所が彼が最も嫌っていたヤクザ映画を作ってアテていた東映京都だった、というのは、もうドラマチック・アイロニーというしかない。

 このドラマチック・アイロニーという言葉、〝はまりこみたくない境遇を拒否すればするほど、その境遇にはまりこんでいく〟というシェイクスピア悲劇の特徴を表現した用語で、『黒澤明vsハリウッド』の中で紹介されている。黒澤監督がシェイクピアを愛好しているのは知っていたが、具体的にシェイクスピア作品のどういう要素に惚れ込んでいたのかは『黒澤明vsハリウッド』を読むまで知らなかった。田草川氏が『トラ・トラ・トラ!』の日本語版シナリオを英訳する際、監督と雑談した中でその事実が出て来たのであろうが、これは貴重な発見だと思う。

 さてドラマチック・アイロニー、言い換えれば〝ミイラ取りがミイラ〟だが、この譬えの通りに、黒澤監督の映画製作は、陥るまい陥るまいとあがきながらも、ますます暗愚な泥沼にハマリ込んでいく。
 そしてその積もり積もった過重なストレスは、やがて外側に向かって大爆発することになる。〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その9

◆ 巨匠が爆発する!

 【夏服事件】【果たし状事件】での助監督殴打など、黒澤監督の“異常”を聞きつけたB班監督・ 佐藤純彌 が、北海道ロケを切り上げて東映京都撮影所に駆け付けたのが、1968年12月12日

 黒澤監督が助監督らを伴って深夜の東映京都撮影所に〝討ち入り〟した【ガラス割り事件】は、その5日後の12月17日に発生している。

 この5日間、佐藤監督やフォックス側の製作担当者エルモ・ウィリアムズらは、撮影が捗らない鬱憤を晴らすために痛飲し、一睡もしないで現場にやってきては無理難題を言い、怒鳴りちらしてスタッフを振り回す黒澤監督をなんとかなだめて、撮影を継続させていた。

 しかしスタッフの不満は頂点に達し、17日、ついに撮影をボイコットしてストライキに突入してしまう。

 そしてスト中のスタッフの一部から黒澤監督に謝罪を迫るような雲行きになってくる。
 スタッフが怒るのも無理はない。何故なら、撮影当初からスムーズに行った日というのがほとんどなく、前記した【夏服事件】のような監督自身が混乱してしでかす騒動が毎日起こり、しかも「アウト!」と言っては助監督らを次々クビにするという暴君ぶりを発揮していれば、誰だって付いていくのは嫌になる。

 気に入らない事があると、黒澤監督が“クビだ”という意味で「アウト!」と叫ぶのは東宝の現場でもそうだったとのことで、それは本当のクビ宣告ではなく、激怒のあまり口走る監督の口癖であった(黒澤監督がドジったスタッフを怒る時に放つ、“このデコ助!”というアレと同じである)。
 東宝の黒澤組助監督はそれを知っているから誰も現場を立ち去らず、最後まで黒澤監督に付き従う。監督はおそらく東映京都でもそれを期待したんだろうが、前にも書いたように付いている助監督やスタッフは正規の黒澤組ではない。チーフ助監督の 大澤豊 でもさえも外様であり、準備段階から黒澤邸に入り浸ってプロジェクトを勧めてきた大澤を黒澤は【果たし状事件】で出入り禁止(排除)にしているわけだから、監督旧知の助監督としては京都の撮影に途中参加した 松江陽一(東宝出身) しかいない。
 同じく黒澤が自ら招聘した 青柳哲郎 は、現場に疎いから、セット撮影の場にいて、黒澤監督の“呼吸(いき)”を心得、精神的にサポートし励ます人材がいないわけである。

 また『評伝 黒澤明』では触れていないが、佐藤監督が担当したB班監督は当初、堀川弘通氏にオファーされたそうで、ギャランティーで折り合いが付かず、最終的に佐藤純彌に落ち着いた(黒澤は、佐藤監督の監督第1作で強烈な軍隊批判映画『陸軍残酷物語』の演出手腕に感心して、佐藤を起用したという)。
 もしこのB班の監督が、監督として手腕も高く、なにより黒澤監督を一番知っている堀川氏になっていたら、黒澤監督は側面もしくは後方から存分に支援を受けられただろう。

 まさに、ドラマチック・アイロニーである--運命は常に悪い方へと転がっていく。






 セット撮影での不安や不満が日々蓄積して、ストレス過多となった黒澤明は、ついに爆発する。それは黒澤監督が後年、撮った『夢』 (平成2=1990年)の中の興ざめな挿話「赤富士」の爆発の比ではない。器物破損の犯罪行為である。

 スタッフのストで撮影が中止になったこの1968年12月17日、黒澤監督は夕刻に予定されていた精神科医の診断をドタキャンし、その日の深夜、東映京都撮影所に侵入してステージのガラスを割った のである。正確には、自分では割らず、同行した松江陽一に窓ガラスを割らせた(!)。
 これは、以前、自分がフォックスに配備を要請した(撮影所付きの)警備員が異変に気づいて実際に現場に急行するか、どうか、を試すために行った、という(!)。
 自分で事件を起こして警備員を呼ぶなど正気の沙汰とは思えない。

 だがこの時の監督がまだしも正気だったと思えるのは、このあと松江らと「私がステージの窓を割りました」と殊勝にも自ら京都太秦署に出頭している点である。
 だから黒澤監督は〝逮捕〟ではなく〝自首〟したわけだ。

 しかし警察沙汰となれば監督続行は、もはや不可能となるのが普通だが…。 〔続く〕


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緊急コラム「デ・ニーロは“これから”なのか?」

 今年のアカデミー賞、正確にいえば2012年の授賞作品がこの前発表されましたが、今回は見事にバラケましたね。ジャズ野郎イチオシだった『世界でひとつのプレイブック』は、結局、助演女優賞のジェニファー・ローレンスだけで、後は作品はもちろん、監督、助演女優以外の演技賞、脚色もなし、という残念な結果でしたが、他の候補作品もそんな感じで、こういう全バラケな年も珍しい。

 そのローレンス、受賞の時にステージに上がろうとしてコケたそうですが、WOWOW未契約のジャズ野郎はネット情報で知るのみで、その現場を見ていないからなんともコメントしようがないのです。それにしてもローレンス、まだ22歳でしたっけ、こんなに若くしてオスカーを貰ってしまってこれから大変だろうなぁ、とは思います。
 彼女の世代には、去年、『マリリン、七日間の恋』で候補になってたミシェル・ウィリアムスとか『ドラゴン・タトゥーの女』のルーニー・マーラ、『ジュノ』のエレン・ペイジ、ちょっと年はいってるが『17歳の肖像』のキャリー・マリガンなどなどキレ者さんがいっぱいいる。今回の受賞でローレンスが頭ひとつ抜け出した感じ。

 でもオスカー受賞はある意味、役者キャリアのピークだから、今後どうなるか。メリル・ストリープみたいに、助演賞をまずゲットして、次は主演女優賞に照準を合わせる、とか。ま、きっとそんなところだろうけど、とにかく今後が楽しみです。
 それに比べて主演男優賞3度目のダニエル・デイ・ルイスとか、助演男優賞2度目のクリストフ・ヴァルツなんかは新味がなくて、どーしたもんだろう。出れば受賞する、ってんじゃ、なんだかデキレースみたいな感じもするが……。どちらも作品(『リンカーン』『ジャンゴ』)は未見だからなんとも言えないのだが、ジャズ野郎としては久々にいい味を出してたロバート・デ・ニーロにあげたかった。

 1月29日付けの【俳優達も光り輝く】でちょっと触れましたが、今回のデ・ニーロにはなんかいい所がある。押しつけがましくない、って所かなぁ。自分のコワモテなキャラを自分でパロッて笑いにしていた最近のデ・ニーロの中では、その三枚目ぶりがようやく板に付いてきた、というような感じでコセコセとせず、落ちついた雰囲気でドジな親父というキャラクターを演じていたように思うのだが……。

 と、思ったら、松田龍平とCM出てるでしょ。あのCMいいですよね。最初見た時、メチャメチャ笑いました。「……岩下志麻をどうにかならないか」ってヤツ。この“どうにかならないか”って台詞がいいなぁ、思わず笑っちゃう(岩下志麻どころか、アンタが本当に好きなのはロイク〔黒人女〕だろ! とツッコミましたが……)。そしてずっとボソっと話してて、最後の方で二人が噴き出すような感じで終わる。「ガキと動物をいじくるだけで、気の利いた演出がひとっつもない」と思える昨今のCMの中では出色です。
 コレなんか見ていると、ロバート・デ・ニーロもまだまだこれからヤル気かな、なんて期待を抱かせてくれます。

 ジェニファー・ローレンスともども、デ・ニーロの今後に注目です。


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巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その10

◆ 東映京都撮影所侵入事件、真相の真相

 その日の深夜、撮影現場がフォックス側に要求した通り、きちんと警備されているかどうかを試すべく、黒澤と監督補佐の松江の両名はステージを見回る。ガードマンがいないと見てとった黒澤は、松江に撮影所の窓ガラスを割らせる。しかし何の反応もないことに腹を立てた二人は、太秦署に〝自首〟する。

  と『黒澤明VSハリウッド』では、太秦署に自首する、と書いてあるのだが、この場に監督と松江陽一の他にも斎藤孝雄(東宝出身の黒澤組キャメラマン)がいたようである。そしてこの窓ガラス破壊の直後、黒澤はどこかへ行ってしまって、一時、行方不明になっている。ちょっと重複になるが、堀川弘通の『評伝・黒澤明』【窓ガラス壊し事件】(東映京撮侵入事件、とした方が分かりいいが)の同じ箇所を抜き出してみよう。

 …クロさんはある夜、午前二時ごろであったが、起き出して来て、
「これから撮影所へ行く。控え室やセットに何か起きたら大変だ」と言う。
渡会たちは、ここでクロさんに反対しても止められそうにない、と判断して、クロさん、松江、渡会、斎藤の四人は徒歩で撮影所に向かった。途中、渡会、松江の二人は「全員行くことはない。宿舎に誰か残って連絡係になろう」と言うことになり、渡会が宿舎に戻った。クロさん以下三人は撮影所に到着した。クロさんは、
「控室のガラスを割る」という。
「何でそんなことをするんですか?」
「警備不安心。ガラスを割って守衛、警察に知らせて、注意を喚起しよう」と言う。そこで松江が、
「あなたがやって怪我でもしてはいけない。やるなら私がやりましょう」と一ヵ所の窓ガラスを割った。
「一つでは駄目だ。もう一ヵ所やれ」というので、松江はもう一ヵ所も割ったという。

 この騒ぎの最中、二人はクロさんを見失ってしまった。八方探したが、見つからないので明け方、松江と斎藤はしょんぼり戻って来た。
 渡会、松江、斎藤の三人は…(略)…警察に通報してマスコミに知られたのではまずい。そこで密かに三人で京都駅、空港などを探し回ったが、それらしい人物はいない。
                      (『評伝・黒澤明』堀川弘通、毎日新聞社)


 つまり、太秦署に自首したのは、黒澤ではなく、松江陽一と度会伸(か斎藤孝雄)の2人ではなかったか。どうも警察に出頭したのは松江と度会のようだ。何故なら、斎藤は黒澤が隠れているかも知れないある男の家を、この後、訪ねているからである。

 斎藤が「もしかしたら、星野さんのところではないか」という。
 星野とは「星野武雄」。元東宝映画のプロデューサーで、現在は古美術商で京都・先斗町のお茶屋の二階に居候している一風変わった男である。その人物がクロさんと妙に仲がいい。「そこかも知れぬ」と、斎藤が探ったら、クロさんはやっぱり星野のところに居た。
 星野は「クロさんは今、映画など撮れる状態ではない」と言う。  (前掲書)
 

 星野武雄は、マキノ正博監督が戦時中に当時の細君で女優の轟夕起子主演で撮った東宝映画『ハナ子さん』 (昭和18=1943)の企画者として名前が出ているが、あとどういう映画に関わっていたのはサダカでない。一風変わった男、という事だから、そこですっぱり映画とは手を切って、古美術の方へ行ってしまったのかも。確か、黒澤監督が、日本特有の美(美術品)に目覚め、絵画ばかりではなく、壺や茶道具などの陶磁器などを見て回って勉強し出したのがこの頃だと思うから、星野の古美術商入りが終戦の前後だと時期的にも合う。

 それはともかく、黒澤は星野武雄の家から出て、またぞろ撮影所に向かうのである。松江たちは、もうすぐ年末の撮影休みがあるからそこでひと息入れて、年が改まってから撮影遅れを巻き返えそうと考えていた。

 だが黒澤に残されていた『トラ・トラ・トラ!』製作の持ち時間は、東映京都撮影所に侵入した日の翌日12月18日から23日までの6日間だけであった。 〔続く〕


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『 ラストシーンの余韻 』 発売中!
映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
電子書籍版はアマゾン Kindleストア 及び 楽天ブックスから、紙の書籍版は製本直送.comより発売。直近の各コラムの末尾にある発売告知から販売サイトに遷移、またはポップアップ画面が出ますので、そこで購入できます。 

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