巨匠のムチャブリ-黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相 その11

◆ 自分が起用した素人俳優にキレる! 

 ジャズ野郎は以前から、撮影所侵入の【窓ガラス割り事件】が発生した時点(12月17日)で、フォックスは黒澤監督を直ちに解任したもの、と思っていたが、黒澤監督を高く買っていた同作の製作者エルモ・ウィリアムズによってこの騒動は伏せられ、なんと撮影は続行されるのである。
 自分の映画を撮っているスタジオに侵入してその窓ガラスを壊す、という、酒乱で知られた溝口健二もしなかったような狼藉を黒澤がはたらいたというのに、エルモはこの期に及んでもまだ黒澤を信じ、“彼は必ずやり遂げる”という一縷の望みに賭けていたのだ。

 ところが黒澤の狂乱は収まるどころか、そのムチャブリはますますエスカレートしてゆく。そのいくつかの事件を書いておこう。

 まず【カーテンのしわ事件】 はその名の通り、長官公室に吊ったカーテンが新品で、いかにも買ってきたばかりといったシワがあるのを見った黒澤監督が怒って、
「これでは撮影はできない。こんなことは、かつての黒澤組ではなかったこと。直しておけ」
と怒鳴った事件。これは美術助手の女性が霧吹きでカーテンを濡らして、徹夜で直した。備品のカーテンなど、およそ重要とは思えぬ細かいところばかりに目が行く巨匠……もはや尋常ではない。

 【鍵谷の控え室事件】 、これは主役の山本五十六を演じていた素人俳優・鍵谷武雄の控え室に時代劇隆盛期の東映の大スター、片岡千恵蔵の部屋をあてがえ、と無理強いした事から始まる。スタジオのセットに入る前の、たかが“控え室”を、である。その部屋を、山本長官役の鍵谷に与え、しかも部屋の内装を聯合艦隊司令長官に相応しい感じに改装させ、さらにその部屋からスタジオに続く廊下~通路には絨毯を敷き詰め、階段の手すりは金ぴかの真鍮で設えろ、との無茶苦茶な要求を連発する。この黒澤のムチャブリに、スタッフ一同はまたもウンザリする。

 黒澤はセットでも荒れ狂う。
 自分が採用した素人俳優(元・海軍将校)が、台詞も演技も覚束なく、つっかえつっかえやっていると、黒澤監督はついにキレて、その素人を怒鳴りつけた。

「貴様、それでも海兵か!」

とまるで軍隊もどきの怒声を発してしまった。“プロの俳優はダメだ、素人の方がいい芝居をする”として素人を起用したのは黒澤自身であった。その素人俳優が実は一番黒澤を追いつめ、悩ませ、混乱させたのではないか--とはエルモ・ウィリアムズの見識である。
 そのエルモや周囲の黒澤プロ関係者は、素人俳優は危険だから主要キャストだけはプロの俳優で固めて欲しい、と要求した。しかし黒澤は頑として首を縦に振らなかった。そのツケが今、廻ってきたのである。だからこれは黒澤監督の自業自得でしかない。
 当初、エルモやフォックス側は、主役の山本五十六役には黒澤映画のイコンとも言える三船敏郎を期待した。しかし黒澤は素人俳優一辺倒で聞く耳をもたない。
 この『トラ・トラ・トラ!』製作準備の間隙を縫って、商売が巧い東宝は、『トラ~』の製作が決まると、丸山誠治監督で『連合艦隊司令長官 山本五十六』 (昭和43=1968年)をささっと作り、『トラ~』より先にこれまたさっさと公開して、ヒットさせている。 この時期の邦画界の生き馬の目を抜くような映画戦争はすさまじい。

 それはさておき、現場で黒澤からヒドい叱声を浴びた、数多くの海軍出身の素人俳優は、これに不快感を示して出演をボイコットすると言いだした。これをエルモや佐藤助監督らは宥めるのにひと苦労することになる(ボイコットはなんとか回避)。

 そして4件の事件が集中しておこる、黒澤ムチャブリのクライマックス、12月23日がやってくる……。 〔続く〕


★☆★ お楽しみいただきました 「黒澤明 『トラ・トラ・トラ!』事件の真相」 は、今後、『ラストシーンの余韻』 と同じく電子書籍化、または紙の書籍化の予定がありますので、<その12> 以降のコラムを非公開とさせていただきます。ご了承ください ★☆★


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その1

◆序文 映画黎明・松竹蒲田の頃<前篇>

 昨日、めでたく「完」を迎えた黒澤明監督の活躍した時代から、ぐっと遡ること数十年。十数年ではありません、数十年です。つまり映画が日本に伝来し、活動写真、もしくはカツドウと呼ばれていた黎明期の事をこれから語ろうと思います。
 「エー、そんな古臭い話なんか御免こうむるわ」などと言わないで、しばしお付き合い下さい。

                      *****

 昭和33年(1958)に年間の映画人口が11億人を突破した黄金期<昭和20年代後半から30年代中期>が日本映画の最盛期、とはよく言われるが、戦前の明治末期から大正、昭和の初め頃はもっとすさまじかった。映画が1本当たれば、その上がり(給料、ギャラ)で監督や脚本家あたりは「家が買えた」なんてのは当たり前で、東西の高額な名画や骨董品がいくらも買えた、というほど儲かったというから、羨ましい限り。

 日本初の映画興行は、明治30年(1897年)に染物屋の店主だった稲畑勝太郎が渡欧先のフランスからリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフを輸入し、大阪難波(ミナミ)で公開した事に始まるが、この時、観客に見せたのは景色やスケッチ程度の映像で、しかもほんの数分だった。

 もちろん、フィルムは1本しかないから、これを何度も映写機に掛けて廻しまくる。すると、映画フィルムの縁についている、フィルムを掻き落とすための穴(パーフォレーション)が、映写機の爪でもって映写の度にひっかかれるからボロボロになる。やがて破れ、穴が繋がって縦長の溝になったりすると、もう映写機にかけられない。それを補修してまた無理矢理、映写機にかけて客に見せる・・・といった強引な映写方法でもって廻しに廻した。だがそんな具合に劣化おびただしい映像でも、当時の大衆はこのニューメディアを見ようと殺到した。
 とはいえ、同じ映像を見せられれば、客の方も飽きてくる。だから客が減ってくると、映写機ごと違う土地へ移って上映し、客が飽きて減ってくるまで興行する、そしてまた別の土地へ・・・こうしてこの巡回上映は各地に映画の常設館(当時、劇場や芝居小屋は芝居上演がメイン)が出来てくるまで続くのである。





 あまりにも映画に客が来て、儲かるもんだから、商社は外国からフィルムを買いつけたり、映写機を自社で製造したりする。そして興行する小屋(劇場)にはヤクザが所場代や上がりの分け前をよこせ、と押しかける。
 芝居小屋などの人が集まる場所にヤクザ屋さんが集まってきて、その上前をはねようとするのは、江戸時代からの習わしみたいなものだから、映画もその初期にはさんざん彼らに翻弄される。芸能界が、今もってそうした方々と縁が切れないのは、こうした由来によるわけです。

 そうした映画を手がける中小の商社が集まって日活(日本活動写真株式会社)という日本映画最初のメジャーな映画会社が明治43年(1910)に出来、やがて大正9年(1920)に演劇興行会社だった松竹が映画製作に参入してくる。

 今回の話はここから始まるわけですが、前回の黒澤明の時代や、デジタルシネマでクリアな映像が見られ、またDVDでも3D映像が当たり前のように見られる現代とはまったく違いますから、頭を180度切り替えてついてきて下さい。〔続く〕



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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その2

◆序文 映画黎明・松竹蒲田<後篇>

 当然ですが、この時代(明治~大正~昭和6年)の映画はモノクロサイレントです。

 サイレントとはいっても、劇場には映画を解説する弁士(カツベン)がいて、これが、画面に女が映る時は女の声で、子供の時は子供の声で話しをする<声色>で台詞を喋り、解説も付けていた。加えてそのカツベンがバイオリンを弾いて劇伴を付けたり、中にはちょっと楽隊が演奏した小屋(大劇場ですが)もあります。

 当時の日本映画の題材はそのほとんどが--

歌舞伎の狂言(演目)や歌舞伎や講談から抜き出してきた話=時代劇、と、
歌舞伎をより分かりやすくして庶民的にしようとする新派、もしくは新生新派の演目=現代劇

 --が主流というか、こればっかしであった。探偵モノとか活劇モノもあるにはあったが、主流はチャンバラと悲劇&悲恋モノで、もちろんSFとかポルノなんてのはないのです(当たり前か)。
時代劇には、尾上松之助という大スターが出て、これを後年“日本映画の父”と呼ばれるマキノ省三が巧いこと使って、京都の日活、もしくはマキノ映画は大繁盛!
 一方、現代劇の方は新派もどきの、とにかく悲しく辛い庶民の悲劇・哀話、男女の悲恋物、継子イジメみたいな暗~い話ばかりで、まったくやりきれない題材ばかりだったが、こちらも当時はこうしたジメジメした悲話、情話が大衆に受け、小屋には客が殺到した。

 時代劇、現代劇どちらの場合も、女優は女形、つまり男の役者が女役を演じていて、女性が女役を当たり前に演じてスクリーンに出始めるのは、松竹や映画芸術協会といった当時の新興勢力の作品から。日活は女性を演じる女形がすでにスターになっていて、撮影所内でもそこそこの発言権(権力)を持っていて、後に監督になる衣笠貞之助などはそうした人気女形の一人だった。この女役に女形を使っていた、という事ひとつをとってみても、映画がその初期に歌舞伎の趣向をそのまま導入していた事が判るわけです。

 というような映画史の本に出て来る映画伝来&草創のことを、ジャス野郎は長々と語りたいわけではないのです。語りたくはないのですが、これから紹介する松竹草創期の大監督・野村芳亭については、これらの事を押さえておかないと野村監督の生きた当時の状況が掴めないので書いた次第です。

ともかく、この時の映画をめぐる状況は、荒野にペンペン草が生えたばかりの状態。やけに客が殺到して、何を作っても儲かるような中で、様々な人達が映画独自の話法や表現を模索し、開発し、その中に現代性や芸術性を彫り込もうとしていく。カツドウを“ただの見世物”ではなく、文学や音楽、美術と同じ、れっきとした芸術にしたい、または芸術である事を証明したい、との志をもった映画人--小山内薫帰山教正村田実などなど--が立ち上がる。
 しかし彼らの映画はハイブロウすぎて一般客には受けず、当然、当たらない。
 
 そこで、登場するのが、芝居畑から松竹キネマに引っぱられてきた無類の芝居通、野村芳亭であったのです。  〔続く〕


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Coffee Break-淀川さんの『ラジオ名画劇場』!

◆ 素晴らしき映画の話と話芸の玉手箱

 ちょっとした映画ファンならこの野村芳亭なる人物が、同じ松竹の監督で推理サスペンスを得意とした野村芳太郎監督( 『ゼロの焦点』『砂の器』『鬼畜』『事件』 など名篇多し)の父上であることを知っている。ジャズ野郎が、野村芳亭(ほうてい)という(変な)名前を初めて耳にしたのは、淀川長治さんのラジオです。

淀川さんといえば、 “サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ” でお馴染みのテレ朝の『日曜洋画劇場』の名解説を条件反射的に思い出すわけですが、ラジオでも実にいいお仕事をされていて、昭和50年代に 『淀川長治ラジオ名画劇場』 (正確には昭和48年から昭和56年まで放送)という番組を週1回やられていました。関東地方ではいつ放送だったか知りませんが、北海道(札幌)では月曜の夜8時から流れていて、当時、映画を本格的に見初めたばかりのジャス野郎は、晩飯を食べるとすぐさま自室に籠もり、淀チョーさんの放送が始まるのをワクワクしながら待ってたものです。

 オープニングは、確か--
『鉄道員』 (ピエトロ・ジェルミ監督)の悲しげなギターの旋律に子供の声が被さったシーンの音声や、
『第三の男』 (キャロル・リード監督)のハリー・ライム(いわずと知れたオーソン・ウェルズ)が地下水道を逃げるシーンの音(靴音が カン!カン!カン! と地下溝内に反響して・・・今でもこの映画を観てて、このシーンが出てくると、その靴音で淀川さんのラジオを思い出します)やら、他の映画の音声がコラージュされて、
その途中から淀川さんの番組開始の弁--
「今日は○○について語りますよ、楽しみですねぇ~、恐いですねぇ・・・」
 といったお題発表のご挨拶があって、そのバックに、『ラジオ名画劇場』のテーマ曲というべき(映画)音楽はビリー・ワイルダー監督の名作『あなただけ今晩は』 (昭和38=1963年)のタイトル曲が景気良く流れる・・・と、実はこの曲が『あなた~』のテーマ曲だって事はずっと後、この作品を観た時に知った事ですが、この
 ♪ タタ、タンタタンタタン、タタ、タンタタンタン……タン、タタン、タンタン! ♪ という曲(コレじゃ、判らないですよね)の陽気なリズムが、番組の感じにピッタンコでよく口ずさみました。

きっと、いや、絶対、ジャズ野郎に映画の面白さ、深さを、面白おかしく教えてくれたその嚆矢こそ、この淀川さんの『ラジオ名画劇場』です。とにかく夢中で聴きました。
 その証拠に、最近、『サイコ』 (昭和35=1960年)製作時の舞台裏が 『ヒッチコック』 (平成24=2012年)として映画になったアルフレッド・ヒッチコック
『影武者』 (昭和55=1980年)を発表した時の黒澤明
そしてコレは確か1980年の12月まるまる1カ月を使って(つまり4週全部)語り尽くしたチャールズ・チャップリン
 の番組はエアチェックしておりまして、そのテープを未だに持ってます。チャップリンの回なんて、すごぅございますよ。淀川さんといえば、チャップリンを愛して愛して愛し抜いた人ですからね。そらァ、もう、語る口調にも力が入って、ホント、メチャメチャ熱ぅございました!






 ヒッチコックって監督がどういう映画を撮る人か、黒澤明のタッチとはどういうものか、を識ったのみならず、他の回で特集してくれた--
フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フレッド・ジンネマン、ジャン・ルノワール、フランソワ・トリュフォー、サタジット・レイ、ウィリアム・ワイラー、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、デビッド・ワーク・グリフィス ・・・アレレ、段々古い人になってしまいましたが、今村昌平木下恵介大島渚も(大島渚については、“私、この人嫌いなんです。なんでもやったらいい、見せたらいい、いうような映画嫌いなんです”と言ってた言葉が忘られない!)--

 これら名監督・大監督のことはすべて淀川さんのこのラジオで識りました。監督の紹介だけでなく、淀川さんが試写会で観た新作の話題もあって、それを参考に映画を見に行ってましたから、本当にお世話になりました。時には、記憶違いや、新作映画のネタバレもあったけど、それすらも今思い出すと懐かしいし、楽しい想い出です。

 今、淀川さんみたいに判りやすく映画の面白さを伝えてくれる人って、いないですね。 実際に映画を撮ったこともなく、フィルムを触った事もない、脚本すら書いた事がないにもかかわらず、知識だけは妙に持ってる、耳年増な“知ったかぶりの識者や評論家”ばっかりで。そんな人達に高踏的な話をされても誰も理解できない。だから、映画を見た“感想”程度の事をフランクに喋るタレントまがいの自称“映画ナビゲーター”や“コメンテーター”が重宝されるんでしょうか。でも何事においてもそうだと思いますが、(モノを語る)“基本”をしっかり持っていない、っていうのは、どうも・・・。

 前置きが果てしなく長くなりましたけど、この『ラジオ名画劇場』で小津安二郎や五所平之助といった松竹の往年の名監督を説いた回か、もしくは野村芳太郎の新作の紹介の時か、で初めて野村芳亭という大監督がいた、という事を識ったわけです。もちろん、その時は、芳亭さんには何の興味も持ちませんでしたけれど。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その3

◆ 芝居と興行と劇作に精通

 何度も言いますが、野村芳太郎『拝啓天皇陛下様』 (1963)や 『砂の器』 (1974)といった名作を放った監督で、特に松本清張原作モノでは他の追随を許さなかった。助監督の時には黒澤明が松竹(大船)に来て撮った『白痴』 (昭和26=1951年)につき、あの黒澤監督に怒鳴られなかっただけでなく、「日本一の助監督」と褒められた優等生であった。
 野村芳亭は優秀な芳太郎の父親である。ゆえに当然の事ながら、彼もものすごい人物なのである。

 誕生は明治13年=1880年だから19世紀末で本名は野村粂蔵。京都生まれの京都育ちで、父は〝上方浮世絵の最後の輝き〟といわれた二代目・歌川芳圀(本名・野村与七)で、野村家は江戸浮世絵の大家・歌川国芳の流れを汲む由緒ある画系である。
 芳圀は芝居小屋の看板や背景画を描く劇場画家を生業としており、芳亭(芳亭は画号)もそれを継いだため、芝居小屋などへの出入りが多く、芝居好きとなり、演劇関係者との知己も広がった。父が絵師であり、自身も絵を描くから自然と画に対するセンスが磨かれ、歌舞伎や新派など数多くの芝居を見ることによって劇=ドラマに精通していった。つまり監督になるための素養を、芳亭は知らず知らずのうちに培っていったことになる。

 やがて明治の終わりに映画(映写機)が持ち込まれ、カツドウ(活動写真、映画を当時こう呼んだ)に興味を示す。 【野村芳亭、知られざる巨人 その1】で紹介した、稲畑勝太郎がフランスから持ちこんだシネマトグラフを大阪ミナミで本邦初上映した際、その上映を芳亭は手伝っているのです。この時、芳亭17歳。だから芝居好きの上に新しいモノ好きでもあった。好奇心旺盛な人だったってわけです。

 当時の映写機は、上映だけでなく撮影もできる兼用機だったから、芝居好きな旦那衆やひと山当てたいと願う好事家がこれに飛びつき、映画製作や上映会=興行が始動していく。
 やがて日活などの映画会社が出来、日活の経営に参加した実業家の横田永之助から映画製作を依頼されたマキノ省三(京都で千本座という劇場を経営)は猛然と映画製作を始めていくのですが、野村芳亭はこの時よりももっと前から省三とは仲が良かった。芝居の看板や背景画を制作していたから、同じ京都で千本座という芝居小屋を持ち、演出と興業を取り仕切っていた省三とは、仕事を通じての馴染みであり、省三の息子・ マキノ雅弘監督に言わせると、二人は親友だった、という。 
 ある文献によれば、芳亭は日本初の映画上映に参加するほどの大のカツドウ好きだった、とあるのだが、興味は大いにあり夢中で撮影に興じたりもしたが、当初はマキノ省三ほど映画にのめり込まなかったようです。可愛がったマキノ雅弘にこう言ってます。

「わしゃカツドウ嫌いでおとっつあんと別れたが、千本座の舞台の書割絵かきやったんや…(略)…」
                  (『マキノ雅広 映画渡世・天の巻』マキノ雅広、ちくま文庫)


 芳亭が、おとっつあん(省三)と〝別れた〟とは何を指すかというと、それは連鎖劇という、いわゆるショートフィルム製作のことでありました。     〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その4

◆大正期の映画界を席捲した連鎖劇

 連鎖劇とは芝居と芝居の合間に、短い映画を上映する新種の上演スタイル。「絵が動く」「写真が動く」として当時、大衆の関心の的であった映画を、芝居の途中に挟み込んで芝居を盛り上げたもので、例えばロケで撮った追っかけとか風景といったアウトドアのシーンやシークエンスが上映され、これがヤンヤの喝采を浴びた。連鎖劇をやり出したのは大阪の映画会社(天活)だと言われるが、大正期にこれは一時、爆発的に流行した。
 この上演スタイルは最近でも度々行われ、1970年代には寺山修司が実験的に連鎖劇風な芝居をやっていたし、現在では劇団☆新感線などがこの趣向を実践している。

 芳亭はマキノ省三と一緒に、芝居の幕間にかける短編映画の製作に励んだ。そしてこの時、ムービー・キャメラにフィルムを装填し、クランクを手で回して、レンズを通して芝居を見、これを撮る、といった映画撮影の基本的な手順やメカニックな知識を知ったものと覚しい。これが後々生きてくる。
 若き日、映画に夢中になった芳亭だったが、まだ芝居に未練があったので映画には行かず劇場経営に向かう。芝居といえば当時は松竹の全盛であり、松竹の2大巨頭・白井松次郎大谷竹次郎とも知己を深めていく。マキノ省三、白井、大谷と芳亭とは芝居が取り持つ縁である。

 やがて、興行に鼻が利く、という才覚を買われて松竹から新京極歌舞伎座など劇場を任され、やがて芳亭は勇躍、東京に進出する。浅草の公園劇場や常盤座で芝居を打つ傍ら、南千住で料理屋などを手がけるうち、大谷竹次郎から本郷座の経営を任された。
 芳亭はそこで自分の小屋にかける芝居〝連鎖劇〟に使うため、再び映画製作に手を染め、芝居の興行全般を指揮して手腕を発揮していくことになる。   〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その5

◆伝説的な監督デビューとその真相

 大正9年(1920)になって松竹が映画製作に乗り出す。だが、急遽、かき集めた演劇関係のスタッフで作った作品は一般に公開できるようなレベルには達せず、凡作というよりも「映画」以前といった代物ばかり。しかも製作は遅延に次ぐ遅延で、金が湯水のように浪費された。これではまったく採算が採れず、商売にはならない。
 そこで短期間・低金額で手際よく映画を作れる人材がいないものか、と思案した大谷は、蒲田撮影所設立の際、理事の一人に加えていた野村芳亭を呼んで、映画を監督してほしいと依頼する。
 芳亭はこの監督依頼を受けて初作品を撮るのだが、この芳亭の監督デビューは松竹社内では〝伝説〟になっている。戦中・戦後の一時期、松竹に籍を置いていた新藤兼人監督が自著『小説・田中絹代』(読売新聞社)でその〝伝説に〟に触れており、そこで引用している『松竹七十年史』によると、

野村は…(略)…当時は本郷座の新派頭取兼松竹キネマ理事、営業部顧問の地位にあったのを、所長の白井信太郎が〝商売になるものを一本作ってほしい〟と依頼したことから、この実現となったものである。
 

と記されており、新藤監督はこれに続けて、

 助監督もしないでいきなり一本撮ったのだから恐るべき才能である。
                        (『小説・田中絹代』)


 と書いているが、すでに述べたように芳亭は連鎖劇で映画製作に携わり、現場を指揮していたから、〝助監督もしないで…〟という指摘は当たらない。
 最初に大谷竹次郎から監督オファーを受けた時、芳亭は受諾の返事を保留した。なのに「まずは1本撮ってみる」と言って、すぐに初監督にあたったという。だから初めから監督業をやり通す自信と余裕は十二分にあったと思われる。

 芳亭は題材を当時の新聞ネタに求め、それを元にしたストーリー(粗筋)を助監督(後の監督・池田義信)に口立てて書かせて、翌日、撮影して全巻を撮り上げた。
 この作品『夕刊売』 (大正10=1921年)は上映時間約40分(全4巻)と短かいものだったが、「構想」1日、「撮影」1日のたった2日間で仕上っており(ポスト・プロダクションを含めた総製作日数は3日らしい)、製作費も安く上がった。
 この正味2日で仕上げたこの映画が大ヒットする--この事実はすごい、まさに〝伝説的〟なサクセス・ストーリーと呼べる壮挙である。これで芳亭の株はグンと上がった。
 当時、映画はまさにニューメディアの花形で、物珍しいエンターテイメントだったから、何を封切っても客は来たが、映像が粗雑な作品や芝居や筋が不出来な映画に客は来ない。ゆえに、見よう見まねで撮った処女作が大ヒットした、という事実は凄いことであり、この強運が野村芳亭の身上であろう。そしてこの運の強さは後々まで芳亭監督について回る。




 『夕刊売』は新聞記事から採った、新聞少年の日常をスケッチした物語。つまりどこにでも転がっている市井の実話が元ネタであり、原作料のかかる大作家や文豪の名作ではない。よって著作権料のような余分な金がかからない。この省コスト志向も、会社側に気に入られた。
 ただこの新聞ダネを題材にしたという話には諸説あって、『人物・松竹映画史 蒲田の時代』(升本喜年、平凡社)によれば、この『夕刊売』は『二人夕刊売』というアメリカ映画が元ネタにあったようである。その内容紹介を新聞で読んだ芳亭監督が自己流に改変したものらしい。だとすれば、まさにパクリだが、その辺は厳しく詮索せずともよかろう。

 なぜなら、新聞に載った記事(事件)を映画にする、なんてことは今も昔も日常茶飯事なのだから。
 ロバート・アルトマン監督に『ザ・プレイヤー』 (1992=平成4年)というハリウッド映画界を皮肉った辛辣な業界ミステリーがあるが、この中でピーター・ギャラガー扮する若手の新進プロデューサーは、企画会議の席上、

「題材はどこにでも転がっている、この新聞の中にもゴロゴロ転がっているゾ」

てな事をのたまってテーブル上の新聞を指し示すワン・シーンがある。映画の題材、ネタのとり方というのは、いつの時代も、そしてどこの国でも同じって事なのである。

 そして、市井の人々の生き様を描く、という芳亭監督の着眼は、いわばハリウッド映画の定番メニュー。黎明期の日本映画において、最初にそこに目をつけた芳亭監督は、やはりさすがと言うべきでしょう。〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その6

◆ 頭は高く、手は低く

 つづいて撮った第二作は「法の涙」で、これもハンカチ用意の新派大悲劇。以来メロドラマの大衆映画で大いに気をはき、松竹の筆頭監督として所長も兼ねていた。     (『小説・田中絹代』) 

 というわけで、芳亭監督は彼は続々と作品を撮ることになるが、そこには強運だけでなく、彼独自の映画術といったものが存在した。それは、客の紅涙をしぼる、という徹底的にドラマチックな泣かせ演出であった。
 芳亭監督が撮った作品は、新派悲劇の焼き直しばかりだったとはよく指摘される事だが、それは明治生まれの芝居好きだから当たり前といえば当たり前である。明治より派生した、歌舞伎劇を大衆化させた新派劇、つまり端的に言ってしまうと〝女が悲運や男に裏切られて泣かされ、着物の袂を噛んでオヨヨと泣き崩れる〟式の情緒タップリな涙腺を刺激する悲劇を、芳亭監督は臆面もなくスクリーンに移し替えた。
 しかもクライマックスでは観客をぐっと感情移入させ、常に客を泣かせた。芝居の勘所を押さえた演出が水際だっていた。それは子供の頃から芝居を見てきたおかげで、ドラマ展開の流れやツボが血肉化しており、芝居の通人ならではの腕、話芸がそこにあった。それが、たくまざる“泣かせの演出”として毎作品に結実した。

 また商売柄、劇場の看板や書割の画を描いていたため、構図の掴み方やフレーム感覚に優れていた、と思われる。思われる、としか書けないのは、芳亭作品の大半が消失していて、おいそれと見て確認する、ということが出来ないからである。フィルムセンターには10本ほどの野村作品が所蔵されているようだが (※1) 、「野村芳亭監督特集」とか「松竹映画の歴史・黎明篇」のような特集上映が企画されない限り、見ることができないし、また東京圏に居住していないとなかなか出向けない(ジャズ野郎は札幌、北の果ての住人ですから)。
 だから、〝構図の掴み方やフレーム感覚に優れていた〟というのは、往年の映画人の述懐や当時の映画評などを読んでの、これは類推である。

 そして芳亭監督は「頭は高く、手は低く」を自身の映画作りの指針とした。これは芳亭監督の前に、蒲田撮影所に呼ばれて映画を作っていた(というより、試行錯誤して映画を作っていた)アート志向の松竹キネマ研究所派(小山内薫、村田実の一党)や、渡米した松竹の白井信太郎が招聘したハリウッド派(キャメラマンのヘンリー小谷ら)に対するアンチテーゼなのである。彼らは言うことは高尚で高級、金も時間もたっぷりかけて大作を作るが、まったく客受けせず、そっぽを向かれて松竹はちっとも儲からなかった。
 このお高い2派に対して芳亭監督が打ち出したのが「頭は高く、手は低く」であった。
 これはどういうことかというと、
「頭は高く」とは芸術的な映画を志向する意欲を持って(作る)、ということであり、
「手は低く」、は実際に映画を撮る場合は観客の目線まで下げる、といった意味で、
 つまりは大衆を惹きつけるドラマを描くということであって、要するにほどほどの高級感と庶民性を持った映画を作っていきましょう、という ややヌルいが、手堅い(松竹)カラーの提唱であった。






 加えて劇場経営に通じている芳亭は〝安く作って、多く儲ける〟という功利性を重視し、当たる映画作りを実践した。映画内容の高尚さも結構だが、映画はお客が入ってナンボ、という点を肝に銘じていた。よって彼は客受けするお涙ちょうだい映画を率先して作っていく。
 やがてその画一化した作風は、松竹の若き重役・城戸四郎によって否定されるのだが、芳亭監督の言う「頭は高く、手は低く」や「大衆を惹きつけるドラマ」などは、後に城戸が提唱した〝蒲田調〟とそう変わらないイズムでもあった。なぜならば城戸は「一歩前進、二歩前進せず」と唱えたのだから……。
 両者のイズムはどちらも抽象的で、その内容もある面で共通していたが、城戸の方はドラマチックなドラマ(臭い芝居)よりも、より実生活に近い「日常性」を重く見ていた。14歳も年が違う芳亭と城戸は協調することができず、やがて蒲田撮影所内で密かに覇権を争うことになる。 〔続く〕

※1「現存する野村芳亭作品」 この記事を初アップした時(2013年3月24日)には、現存する野村作品はない、と書きましたが、NFC(国立フィルムセンター)に以下の10品が保存されている、とのこと。
● 『天國の人』(昭和3=1928年)
● 『民族の叫び』(昭和3)
● 『金色夜叉』(昭和7=1932年)
● 『乳姉妹』(昭和7)
● 『琵琶歌』(昭和8=1933年)
● 『島の娘』(昭和8)
● 『晴曇』(昭和8)
● 『天龍下れば』(昭和8)
● 『東京音頭』(昭和8)
『婦系図』 (昭和9=1934年)・・・芳亭監督が、大借金を背負ってトーキーの録音技術を勉強しに東京にやって来たマキノ正博に、「この台本を読んでみぃ」と渡したら、マキノが一晩でシナリオを自分流に「改稿」。それを読んだ芳亭さんは大いに喜び、傷心の正博を力強く激励した、とは『マキノ雅広自伝 映画渡世・天の巻』(ちくま文庫)にある。


 これは当ブログに投稿していただいた「nikisch」さんからの指摘で知ることが出来ました。いつも、ありがとうございます。


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巨匠のムチャブリ-野村芳亭、知られざる巨人 その7

◆ オレは将軍だ!

 監督した作品がヒットし、手腕が認められた野村芳亭はその年(大正10)の10月には監督兼務のまま蒲田撮影所の所長に就任し、撮影所のイニシアチブを取るボスとなって作品を発表していく。
 そんな彼の代表作は、悲劇的な運命に翻弄される母親を描いた、俗に〝母モノ〟と呼ばれる作品で、実際に『母』という題名の映画を2本-大正12年(1923)と昭和4年(1929)-撮っている。大正の『母』と昭和の『母』はタイトルは同じでも内容はまったく違うもので、昭和の『母』は大女優・高峰秀子のデビュー作でもある。当時、5歳だった彼女はこの映画の子役オーディションで初めて芳亭監督と接するのだが、その時の芳亭監督の印象をこんな具合に描写している。

 ハンチングにニッカボッカというスタイルの、でっぷりと太った野村芳亭監督を先頭に、十人ほどのスタッフがゾロゾロとついて歩き、女の子の一人一人のアゴに手をかけて顔 を見たり、しゃがみこんで話しかけている。
                    (『私の映画渡世・上巻』高峰秀子、文春文庫)


〝ハンチングにニッカボッカというスタイル〟は当時の映画監督が好んでした〝伊達姿〟で、これは当時のハリウッドの監督の服装を真似たものだった。そして〝十人ほどのスタッフがゾロゾロ〟と監督について歩いていた、というのは芳亭監督の有名な〝大名行列〟というヤツである。これは、芳亭監督がお殿様然として先頭に立ち、部下の助監督らを従わせて所内を我が物顔に闊歩する大仰な様子を、江戸時代の大名行列に譬えたもの。野村組にはキャメラや照明などのスタッフがほかの監督の人員の倍はついていたというから、移動ともなればその後を大勢の人間が金魚のウンコみたいにゾロゾロとくっついていくことになる。当時、島津保次郎の助監督として蒲田で働いていた吉村公三郎監督が回想する。

 何事によらず派手なことが好きで、仕事になると各組から手伝いの助監督を集め、ディレクター・チェアーに腰掛けた自分の後ろにたくさんの助監督をずらりと並ばせた。
             (『キネマの時代 監督修業時代』吉村公三郎、時事通信社)


 また昭和になってから蒲田撮影所に俳優として入社した結城一朗(一時、田中絹代の恋人と噂された)は、野村監督に抜擢されてスター街道を歩むことになるのだが、その結城曰く

 日本にも、今日までに、大監督、名監督、巨匠といわれた人の数は少なくないが、その茫洋たる風格とスケールの点において、野村芳亭監督は、遙かに群を抜いた存在であった。
                      (『実録蒲田行進曲』結城一朗、KKベストブック)
 

という。野村芳亭は、同じ大監督であっても、桁違いの傑物であった、という事になる。






 そんな絶頂期の芳亭監督の〝自惚れ〟を示す有名な逸話が〝将軍〟発言である。芳亭監督の全盛期は1920年代から1930年代初め(大正後期から昭和初頭)にかけてだが、当時、彼の他に進境著しい、ヒット作を放っていた後輩監督が蒲田撮影所に3人いた。池田義信島津保次郎牛原虚彦がその3人で、撮影所では彼らを江戸時代の徳川御三家に擬えて〝御三家〟と呼んだ。
 するとそれを小耳に挟んだ芳亭監督が、

「池田、島津、牛原が御三家ならワイはなんや。さしずめ将軍やな」

と言ったことから将軍、または将軍さんという綽名がついた。将軍は徳川幕府の将軍、征夷大将軍の意であり、つまり御三家(池田・島津・牛原)よりオレの方が上だ、偉いんだ、という増長満である。コレを自意識過剰と見ない者はいない。
 因みに、映画界には前にも書いた(巨匠のムチャブリ余話 【Coffee Break 映画界にいた天皇】3月4日付)ように、〝将軍〟と綽名された人物がもう一人いて、こちらの将軍は兵隊の方の将軍の意で、それは昭和30年代末から50年代にかけて時代劇や仁侠モノで名作を放った東映京都撮影所の山下耕作監督である。第二次大戦中、〝マレーの虎〟と呼ばれた同じ山下姓の猛将・山下泰文将軍に擬えてそう呼ばれたのだが、山下は頑固一徹の厳格さでスタッフを震え上がらせ、お喋りな芳亭さんとは違って口数が少ない超寡黙な監督であった。 〔続く〕


★☆★ お楽しみいただきました 「野村芳亭、知られざる巨人」 は、今後、『ラストシーンの余韻』 と同じく電子書籍化、または紙の書籍化を予定していますので、<その8> 以降のコラムを非公開とさせていただきます。また同時期に掲載していた「Coffee Break 震災と映画監督」「~ 監督と助監督」も合わせて非公開とします。ご了承ください ★☆★



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