松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その1>

◆ 組付きになれなかった野村芳太郎  

★お詫び、そして今後の展開★
〔前日4月30日の【野村芳亭、知られざる巨人 その34】で、芳亭さんの話は最終回ということにしましたが、実は一子・芳太郎が松竹の監督になってからの後日談がまだ続きます。で、これはそのまま芳亭さん括り、つまり【知られざる巨人】の<その35~43>としてアップしようと思いましたが、松竹の監督系譜に関する記事であり、今後紹介していく島津保次郎、清水宏、原研吉といった松竹の監督達に関連するデータでもあるので、 【松竹の監督系譜】 としてカテゴリーを独立することにしました。昨日、<その34>を読まれた方は、その夕方には芳亭さんの記事がいきなり<最終回>を迎えているので、驚かれたかと思います。申し訳ありません。内容的には 【野村芳亭】 と繋がっている部分が多々ありますので、もうしばらくご愛読下さい〕

                 **********

 芳亭さんの息子、野村芳太郎は長じて父と同じ松竹の映画監督になる。彼が映画監督になろうと決意したのは、【野村芳亭、知られざる巨人】の最終章(その34)で書いたように父・芳亭の死に際であった。
 かつて蒲田撮影所時代、所長宅、つまり撮影所長だった芳亭さんの自宅は撮影所内にあったから、そこで生まれた長男の芳太郎は〝フィルムで産湯をつかった〟と言われた。すでにして人生の最初から映画が彼の前には映画があり、カツドウヤが周りにいたわけだから、映画監督になりたいと思うのは自然である。

 芳太郎は暁星中学~暁星高校を経て慶応大学に進み、戦時の繰り上げ卒業とともに松竹に入る(昭和16=1941年)。彼が助監督として入った松竹の撮影所は、父が威勢を張った蒲田ではなく、移転した大船であった。
 芳亭の作風を批判し、一時は彼を京都に追いやった城戸四郎は、野村芳亭の死後、将軍さんの多大な松竹映画への貢献を重く見て、大船撮影所の庭に芳亭の 銅像 を建ててこれを顕彰した(この銅像は、戦争中、貴金属供出のために軍部に差し出され、ずっと後までその台座だけが残っていたという。銅像の方は戦後になっても再建されなかった)。

 しかし大船撮影所に入った芳太郎は、所内に銅像として〝祀られている〟大監督の息子だということで、どの監督にも敬遠され、どこの組の組付き(所属)にもしてもらえなかった。
 兵隊に取られ、ビルマ(現ミャンマー)・インパールで連合国軍との凄惨な戦闘(死闘)をくぐり抜けて、やっとの思いで生還して日本に帰ってきた。このインパール作戦(昭和19年3月から3ヶ月間)で戦死した日本兵は16万人、撤退する道々でどんどん兵士が死んでいったので、その道路は「白骨街道」と呼ばれたほどの地獄の作戦だったが、芳太郎はこれを生き抜いた〝生き残り〟である。いかに芳太郎がタフであったか、強運だったか、ということになる。身体が頑健だったのは、父・芳亭とともに小さい頃から美食を食らっていたせいであろうが、強運の方も将軍さんから授かった、もって生まれた〝星〟であろう。
 戦後、大船撮影所に復帰した芳太郎の前に、彼を配下に迎えてさんざん意気投合する監督が現れる。それは〝鬼才〟と呼ばれて、芳太郎同様、大船撮影所内で敬遠されていた川島雄三監督であった。 〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その2>

◆ 川島組に入って優秀さを発揮  

 野村芳太郎と川島雄三の縁を取り持ったのは、当時、チーフ助監督だった 西河克巳 である(下記で引用した自著の中で、西河さん本人がそう言っているのだから「間違い」はない・・・ホントを言うと、こういう本人発言には結構「間違い」もあるのだが・・・)。
 当時、川島監督は 『シミキンのスポーツ王』 (昭和24=1949年)の後、約1年干され、次に撮った 『夢を召しませ』 (昭和25=1950年)でまた干される、という状態であり、松竹上層部から“問題児”扱いされていた。川島は、例えば会社から渡されたシナリオを全く違うストーリー(プロット、あるいは原作まで変えて!)に改変したり、当時コメディに傾倒していたから、話の合う助監督の 柳沢類寿 と組んでは映画に下らないギャグや身内(川島組スタッフ)しか分からない楽屋ウケのジョークを盛り込み、おふざけタップリの、ほとんど支離滅裂なナンセンス映画を撮っていたからだ。

西河 ほされていた川島雄三が復帰第一回の『天使も夢を見る』という作品に取りかかろうとしていたんです。ところが、復帰の条件に
「助監督の柳沢類寿と野口博志をはずして撮れ」というのがあった。
川島の失敗を会社のほうでは柳沢と野口のせいにしたわけですね。
「あの二人がついているから、いけないんだ」と。
西河 …(略)…それで川島に、〔助監督に〕野村芳太郎はどうだとすすめたんです。川島はイヤだというんですね。野村芳太郎君は特別な助監督で、なにせ撮影所の真ん中に銅像が立っている人の子供でしょ。
 父親の芳亭さんが所長でしたから、いろんな意味で敬遠されていたんです。でもぼくとは、ぼくが観光映画を撮ったとき助監督だったんで、親しかったんです。
 それで、スタートはぼくがヘッドにつくから、と言って川島を説得し、野村君がひきつぐというかたちで始めたんですが、ところがこれが意外に、ウマがあったんですね。それから川島雄三が日活にかわるまでは、ズーッと野村君でやりました。


 川島は、この後、昭和29年(1954)に映画製作を再開した(後に裕次郎ブームで隆盛する)日活に移籍して松竹を去るのだが、芳太郎は川島作品 『天使も夢を見る』 (昭和26=1951年)から川島組に加わって川島に付き、映画作りのノウハウや映画監督としての〝身過ぎ世過ぎ〟を会得したと思われる。

 野村芳太郎君という人は、大変な能吏なんです。川島雄三みたいなダラダラした人には、非常によかったんですね。それ以後川島雄三は〔松竹大船で〕年に何本も撮るという。プログラムピクチャーの代表選手みたいになるわけですが、それは、野村君にとっても大変よかったわけですね。川島のデタラメといいますか、才気横溢といいますか、それが彼にとって良かったようですね。川島が松竹をやめた後、野村君が川島路線を受けついでいます。触発されたんでしょうね。川島の影響は強かったんでしょうから……。
    (以上『西河克巳映画修業』西河克巳・権田晋、ワイズ出版) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 西河監督のコメントから察するに、撮影所内での野村芳太郎はルーズさがなく、頭脳明晰で、臨機応変に現場処理をする助監督だったという事になる。しかも芳太郎は、松竹キネマ創業からの大監督でかつては所長も務めた人の息子でありながら、偉ぶったところがなく慎ましかった という。これはつまり「金持ちのお坊ちゃんで性格が良かった」というわけだから、世間にはなかなかいないタイプの逸材であったということである。

 また、昔から撮影所に住んでいてカツドウヤ気質なるものに通じていた芳太郎だから、
「将軍さんの息子を鼻に掛けるようなことをすれば、徹底的に苛められる」
と撮影所人種の心理が読めていて、自重する事を心掛けていたのかも知れない。

 ともかくその逸材の、本来本流にいるべき野村芳太郎は、皮肉なことに当時の大船では本流からアブレた、いわば傍流にあった川島組につくのである。
 では、その松竹の本流とは何か・・・それは次号(明日)を待て。 〔続く〕


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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その3>

◆松竹の監督人脈を形成する2つの流れ  

 松竹映画における監督の系譜には、2つの大きな流れがある。
 大まかに分類すると、小山内薫派野村芳亭派の2派ということになる。
 この【野村芳亭 知られざる巨人】の初めの<その1~3>で触れた、演劇興行会社の松竹が映画を始めた頃の話を思い出していただきたい。
 松竹の総帥・大谷竹次郎は映画製作を始めるにあたり、当時、新劇運動の旗手だった小山内薫にまず声を掛けた。小山内は彼と繋がりのある村田実や、牛原虚彦や島津保次郎といった人材(3人とも後に監督)を集めて映画製作をスタートさせるのですが、この時の小山内組一党が小山内派であって、これが松竹キネマの発足時からあった、正統な流れ=本流なのである。

 この本流が〝芸術的な映画〟を目指すあまり、観念的かつ高踏的な大衆的でない作品を作って、興行的に惨敗し、解散に追いやられた事は先に述べたが(村田実などはすぐに松竹を辞め、もともとやっていた演劇に戻り、日活に入って社会派リアリズムの大監督になる)、その小山内の替わりに蒲田撮影所の差配を任されたのが芳亭さんである。

 よって、小山内薫から映画製作を委譲された芳亭さんが集めた人材、育てた人脈こそが芳亭派ということになる。芳亭派には、将軍さんが京都から呼んだ賀古残夢や池田義信、大久保忠素、重宗務、その助監督である清水宏、小津安二郎、斎藤寅二郎、成瀬巳喜男らの監督達が連なるのだが、それは付いた監督(師匠)が芳亭派であったからそうなっただけであり、師匠の作風を継承したというわけではない。それはアンチ芳亭だった小津や清水が芳亭派にいることを見ても、判ると思う( 明日の<その4>では松竹の監督系図を掲載します! )。

 芳亭派は新派悲劇から時代劇まで何でもこなす娯楽系統であったから、小山内派と比べられ、後々までも 一段低く見られていた という。また2派につくスタッフ達にもそうした差別化はあったようで、例えば小山内派のキャメラマンはA組と呼ばれ、芳亭派の撮影者達はB組と呼ばれた。映画事業のスタート時(大正9=1920年)、松竹では白井信太郎らが渡米し、ハリウッドの大巨匠セシル・B・デミル監督の許でキャメラを担当していた ヘンリー小谷 を招聘しており、この小谷が小山内派のキャメラマン、すなわちA組になる。そしてその小谷の弟子たち(前に名前を出した碧川道夫ら)もA組キャメラマンということになる。B組にも、日本で初めて移動撮影やカットバックという映像技法(編集技法)を使った 長井信一(*1) などの凄腕がいたから、テクニカルな面での遜色はなかった。
 ただ、芳亭派は娯楽的な、当たる映画を撮っていたため、〝芸術的でない〟という一点をもって格下に見られていた、という事のようだ(庶民的な作風がウリの松竹なのに、何故か興行的に当たる映画を作ると撮影所内部で低く見られる、というのは、西河克巳も語っている事だが、お高い、というか、なんというか。エリートぶった自己撞着ではある)。

 格下に見られた芳亭派だが、その実、本流に比肩した流派(第2の本流)として厳然と存在感を持ってはいたのである。  〔続く〕
                             *****
*1 長井信一 長井は芳亭監督の第1作『夕刊売り』を担当しており、芳亭作品も手がけたが、芳亭さんが京都から連れてきた賀古残夢監督や池田義信監督のキャメラマンとして有名。A組(小山内派)の島津保次郎作品も担当した。彼が黎明期の日本映画をいかに刷新したか、については以下の一文がある。

 日本でキャメラマンの技術を初めて認めさせたのは、大正六年『大尉の娘』を撮影した長井信一である。彼は連鎖劇俳優井上正夫と組み、上映時に声色やセリフを必要としない、つまり画像だけに頼った活動写真を作りあげた。舞台の芝居をロングで回していた当時の活動写真の撮り方をやめ、欧米の活動写真を研究し、カット・バック、父と娘の道行きの移動、嫁入りの荷物が行くのを川に写し、移動パンで見ている人たちのカットになるというテクニックなどを、初めて見せてくれた作品である。
       (『映像を掘る 宮川一夫の世界』渡辺浩(ゆたか)、発行パンドラ、発売・現代書館)


 因みに、芳亭監督にも 『大尉の娘』(大正13=1924年) という同じ原作を映画化した作品があるが、上記の『大尉の娘』(大正6=1917年)は役者の井上正夫が監督主演、撮影・長井信一による小林商会作品。芳亭の『大尉の娘』の撮影は芳亭さんと名コンビと言われた小田浜太郎 (4月10日付【 日本の映画監督-〝チョコ平〟五所平之助の有為転変 】 参照)。 昭和10年に日活に移籍し、日活が戦時中の映画会社統合で大映となって長井はそのまま大映所属となり、戦後も昭和32年(1957)まで仕事を続けた。

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その4>

◆2つの本流と“第3の系統”という傍流  

 元松竹プロデューサー・升本喜年の 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』(平凡社) にはこれらの事と、小山内、芳亭の2派の系譜が人脈図として載っており、それを見ると良く分かる。ジャズ野郎も及ばすながら、その図を基にさらに多くの松竹監督を網羅した系図を作っている。これをブログにそのままアップしたいのですが、なにせ手書きゆえ、おいそれとは出せません(スキャナーも手許にないので・・・相すいません)。
 だから以下に大雑把に示しますと--


         牛原虚彦--野村浩将
         |
●小山内薫 -佐々木啓祐-小林桂三郎
         |
         |        五所平之助-(成瀬巳喜男)-渋谷実-中平康-前田陽一
         |       |
         島津保次郎-豊田四郎 
                 |       木下恵介-------小林正樹
                 |       |                川頭義郎
                 |        |                松山善三
                  吉村公三郎-                吉田喜重 
                          | 
                          中村登-(西河克巳)        
  
                      

                清水宏
                |
        池田義信-
        |     |
        |      成瀬巳喜男-山本薩夫
         |
●野村芳亭-重宗務
         |        斎藤寅二郎-(佐々木康)-堀内真直-高橋治
        |        |
        大久保田忠素-        佐々木康-大庭秀雄-大島渚
                  |        |
                 小津安二郎-
                          |
                          原研吉-西河克巳
                                | 
                                -岩間鶴夫-鈴木清順
                                        -篠田正浩


               ※この監督系譜に関する註(文末に)


 と大体こういう流れになっていて、見ていただければ判るように、この中に 野村芳太郎 は入っていないのです。
 芳太郎どころか、彼が付いた 川島雄三 も、その弟子の 今村昌平 も、いやいや待ってくれ、今日の松竹映画を一人しょって立っている 山田洋次監督 すらいないじゃないか! とお叱りを受けそうだが、そう、いないのです。これら戦後(昭和)の日本映画を支えた名監督達は、松竹ではなんと傍系なのです。本流の小山内派にも第2の本流たる芳亭派にも属さない、 〝第3系統〟 の男たちなのです。
 しかしその本流の蒲田調・大船調から外れ(外され)、傍流にいた彼らこそ、昭和の大船調を維持し、または大船調を超越した独自な作家性を有する秀作を放って、松竹を、日本映画を牽引した優秀かつ重要な人達なのです。
 野村芳太郎はその優秀かつ重要な人達の一人なのです。   〔続く〕

※上記の監督系図について
 升本喜年氏の『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』に載っていた系譜図を基に作成した、大正9年(1920)から昭和40年(1965)あたりまでの大まかな人脈図(松竹の監督全部を網羅してはいません、主要な監督のみです)。例えば成瀬巳喜男は、芳亭派の池田義信の後、小山内派の島津門下・五所平之助に付いていますし(「五所平之助」に続く成瀬の名をパーレンで囲っているのはそのため)、五所の流れにある渋谷門下の中平康は、芳亭派の原研吉の助監督だったり、5月7日更新予定の<その7>で説明する“第3の系統”の川島組につく、という具合に、アチコチの派を横断する人物もいますから、必ずしもこれが「絶対」というわけではありません。あくまでも目安として、ご記憶いただければ幸いです。

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その5>

◆松竹で一番格下に見られた京都勢 <前篇>  

 その小山内派にも芳亭派にも属さない傍流(傍系)にはどういう人達がいるかというと、ここもやはり2派に分かれます。

 一つはいわゆる京都勢。時代劇を撮っていた京都の撮影所<下加茂撮影所松竹京都撮影所>で働いていた面々です。
 下加茂撮影所は【野村芳亭、知られざる巨人 <その12>】(3月30日付)で触れた、蒲田撮影所の松竹の映画スタッフが関東大震災で西下した時、下加茂の地に急遽スタジオを設えて急ごしらえの撮影所としたものだが、ここは昭和になってから林長二郎(長谷川一夫)がビッグスターとなって黄金時代を迎える。林を磨いてスターにしたのは衣笠貞之助だが、このブログでも何度か引用した『映画は陽炎の如く』(草思社)の著者で監督兼脚本家の犬塚稔も林長二郎の売り出しには貢献しており、林の映画第1作『稚児の剣法』(昭和2=1927年)を手がけている。

 この下加茂の他に撮影所が太秦にあった。この撮影所は元々、トーキー技術を会得した マキノ雅弘 が“マキノ映画の夢よ、もう一度”とばかりに設立した映画会社 「マキノトーキー」 の撮影所であった(昭和10年12月~昭和12年4月)。その後ここは、松竹にいた林長二郎を東宝が引き抜く際、躊躇する林を口説き落とした“ネゴシエーター”役で、当時の東宝京都撮影所の所長・今井理輔がその後起こした映画会社 「今井映画製作所」 となるが1年余りで解散(昭和13=1938年春)し、それを松竹が買い取って京都(の第二)撮影所としたものである。
 時代劇製作をメインにした、これら2つの京都の撮影所には前記の衣笠や犬塚の他、冬島泰三、大曽根辰夫(後、辰保と改名)、内出好吉らがいて、溝口健二監督が京都(の松竹)で撮る時、その助監督になった酒井辰雄らがいた。
 戦後は『二等兵物語』シリーズ(昭和30~35年)の福田晴一、市村泰一、その下の助監督に(のち、にっかつロマンポルノの名監督となる)神代辰巳蔵原惟繕松尾昭典、長谷和夫、そして貞永方久に森崎東らがこの京都の撮影所にいた。御存知のように、神代、蔵原、松尾は戦後再開した日活に移籍し、神代以外の二人は、当時、隆盛の日活アクションや裕次郎映画のメガホンを執る。

 さて、ここでも野村芳太郎や山田洋次は出て来ない。そうなのです、彼らは第4の集団なのです。 〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その6>

◆松竹で一番格下に見られた京都勢 <後篇>  

「第3系統だの、第4の集団だのとややっっこしくて、ワケが分ねぇよッ!」というお怒りの声が聞こえてきそうです。書いてるジャズ野郎もパソコンの前で〝ご意見、ごもっとも〟と相槌を打っております。ですが、どーか、もう暫くご辛抱下さい。

 松竹の京都撮影所(下加茂の方)は、女性ファンに大ブームを巻き起こした 林長二郎 が在籍していた時はそれこそ飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、林が東宝に移籍した後は確固たるスターも出ず、伸び悩み、ヒット作にも恵まれなかった。
 なんといっても松竹では 田中絹代 を初めとする邦画界随一の女優陣を擁し、巨匠監督が居並ぶ蒲田(大船)撮影所がメインである。ゆえにその蒲田でちょっと人気にかげりが見えたり、峠を越えたスターや監督は、「京都をテコ入れしたいから」と甘言を弄されて下加茂や京都(太秦)撮影所に飛ばされる、といったことがあった。
 田中絹代との共演が多く、その絹代の恋人(絹代に誘われて、ちょくちょく逢瀬に及んだ)だった蒲田所属の 結城一朗 は、大正13年(1924年11月1日)に蒲田に入り、そこそこ人気も出た〝10年選手〟のスターだったが、昭和9年(1934)の秋頃、当時の蒲田撮影所所長・ 城戸四郎 に呼び出された。結城には薄々、話の見当は付いていた。『お小夜恋姿』 (昭和9年・松竹蒲田、島津保次郎監督)のロケ先の旅館でふと新聞を開いたら、(何の断りもなく)自分が下加茂の時代劇に出る、と書かれてあったからである。

 ある程度の覚悟はできていたが--この映画〔『お小夜恋姿』〕が私の現代劇最後の作品となり、蒲田を去る運命になってしまったわけである。
 重い足どりで、二階の所長室のドアをノックした。キナ臭い顔つきで入ってきた私を見やって、城戸所長さんは微笑みながら、
「まァ、そこへ腰を下ろせ」と言われた。
「どうだ、結城くん、時代劇をやってみないか。お前なら体もあるし、立派に時代劇が勤まるよ」
と私の胸の中を探るように言われた。
「所長さん、勘弁して下さいよ。どうも時代劇という奴は--特にチャンバラというものに全然経験がないし…」と、初めから尻込みするように訴えた。
 しかし、城戸所長さんは穏やかに、
「京都の方から、君をぜひにという話が本社に来ていんるだよ。下加茂撮影所の井上重正所長からも、特別の待遇をするからと言ってきている。とにかく僕からの返事待ちということになっているんだ。もし、うまく行かなかったら、その時はその時で考えることにするから--それに、花岡くんも行っていることだから」
と、私の痛いところを突いてくる。
       (『実録・蒲田行進曲』結城一朗、KKベストブック) 〔〕内、ジャズ野郎註。


〝重い足どり〟とか〝キナ臭い顔つき〟、また「所長さん、勘弁して下さいよ 云々」などの結城の言動には、京都行き(都落ち)がいかに嫌だったか、その悪感情がにじみ出ている。実際、こうやって人気が低下した、または年を取った男女のスター達が何人も京都に送られていったのである。
 京都行きとはいわば〝肩叩き〟であり、〝厄介払い〟であった。
 余談だが、城戸が結城に「それに、花岡くんも行っていることだから」と(結城の)痛いところを突いた花岡(菊子)という女優は結城が面倒を見ていた若手の女優で、後に、結城は彼女と結婚することになるのだが、当時、口さがない撮影所雀たちの間では「二人は恋仲である」という噂が流れていた。その花岡菊子が、下加茂の林長二郎(昭和9年だから林が東宝移籍の前)に呼ばれて蒲田から京都に出向していたので、「ねぇ、だからさ、アンタの好きな花岡もいるんだから、京都に行ってみない」というわけである。
 結局、結城は京都へ行き、その後、蒲田(大船)には戻ってこなかった。

 松竹のこの2つの京都の撮影所は、戦中・戦後に何度か閉鎖と復活(統合)を繰り返し、現在はテレビの 『必殺』 シリーズ『鬼平犯科帳』シリーズ (フジテレビ)を制作している松竹京都(京都映画を松竹が買収)となっている。

 それは、ともかく肝腎の野村芳太郎らはまたもココに出て来ない。もちろん、彼らはこの京都にも属していないのです。彼ら〝第3の男たち〟は、やはり東京は蒲田、戦後の大船にあって、花開く者たちなのです。  〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その7>

◆ 大船(蒲田)の傍流-〝第3の男〟たち  

 さて、ようやく野村芳太郎たちのことに触れましょう(お待たせしましたッ!)。

 野村芳太郎らは大船(蒲田)撮影所において、本流の小山内派(島津保次郎、五所平之助、木下恵介ら)にも、もう一つの本流・芳亭派(池田義信、清水宏、成瀬巳喜男、小津安二郎ら)にも属さない男たちであり、本流から敬遠され、疎外された監督たち、助監督たちであった。その群れの中でトップにいたのは 川島雄三 である。戦中に監督になった川島を筆頭として、その下に柳沢類寿(助監督だったが、川島映画の原案や脚本を書き、シナリオライターに転身)、野村芳太郎、今村昌平(通称 〝今平〟 )、山田洋次といった人達が続く。

 小山内派、芳亭派、京都勢ときて、ここで川島らのグループを呼ぶ場合、本来ならば4番目に紹介するわけですから〝第4系統〟と呼ぶべきですが、殊、大船撮影所の中だけの話でいえば、小山内、芳亭の2派からアブレた〝3番目〟のグループなので、大船の〝第3の男たち〟=〝第3系統〟と呼ぶことに・・・(コレはジャズ野郎の命名です。映画史的な慣用句でも、専門用語でもありませんので、あしからず)・・・したわけです。
 それに、先に説明した京都勢は松竹の中で最下層に位置していたようですから、こちらを〝第4系統〟と名づけた方が最適かと。ま、少々ややっこしいですが、ご容赦下さい。

 さて 【蒲田(大船)調の行方~<その4>】 で示した人脈図の中で、大島渚は大庭秀雄(芳亭派)の下に位置していますが、野村(芳太郎)組でも助監督を(今平が日活へ移った後)務めています。
 また小山内派の渋谷実の系列に置いた 中平康 も野村芳太郎の助監督をやっており、中平はどちらかというと〝第3系統〟の人といっていい。しかも中平はこのグループの川島や今村とともに日活へ移っていくので、くくりとしてはコッチの方が分かりやすいかもしれません(「あくまで監督系図は目安として下さい」というのはこうしたイレギュラーな人の流れや人選があったりするからです)。

 それはともかく、野村芳太郎は芳亭さんの息子ながら、その芳亭派には入れなかった。芳亭さんに逆らった 小津安二郎清水宏 といった大監督が、皮肉にも芳亭派の主流としていたから、彼らは芳太郎を使いたがらない。さりとて本流の小山内派にもいけないし、松竹で一番格が低くかった京都へは行きたくない。
 将軍さんの七光りを受けていた息子の芳太郎は、〝何かと扱いずらい〟というより〝芳亭監督の息子と関わるのは憚られる〟といった感じがあったようで、彼を自分の配下に置くことは、面倒見がいいといわれた 島津保次郎(小山内派)さえも嫌がった。この島津は蒲田でもっとも面倒見がいいと言われた監督だが、殴る蹴るといった助監督への暴行が、清水宏とともに松竹一酷かった監督でもある。
 当ブログでは次に、この島津監督を採り上げますが、今しばらく、芳亭と芳太郎をめぐる松竹の監督系譜の話にお付き合い下さい。  〔続く〕


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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その8>

◆芳太郎を引き受けた川島雄三という男  

 こうした次第で野村芳太郎は、川島雄三が属していた大船の傍流たる第3系統に追いやられたが、研鑽を積み、大監督になるべく階段を一歩一歩上がっていくのです。
 その川島雄三は当初から所内で〝鬼才〟と呼ばれていたが、助監督時代は師匠の監督を持たなかった。
 何故か--それは川島が、芳太郎とは違った意味で、非常に扱いにくい男だったからである。川島と松竹入社が同じ 池田浩郎(いけだ・こうろう) が当時の川島についてこんな風に語っている。

 川島っていうのは、まあ同期だけど、いろいろと癖があって、「俺の組に来てくれ、ぜひ組付になれ」と誘われるタイプじゃなかった。まあ同期だからしょっちゅうお喋りしたり、いっしょに酒を飲んだりしてたけど、酒を飲むとやたらに威勢がいいけど、日ごろはボソボソボソボソ喋るんだよね。酒飲むととたんに居丈高になって、もう人をクソ味噌に罵倒する。誰かにからかわれると、すぐ知らない人と喧嘩を始める。そういうタイプだったよね。
 …<略 *1>…
〔川島がなかなか監督になれなかった〕というのはやっぱりディレクターシステムで、何々組つまり名声と力量のある組についていないとダメなの。川島雄三はああいう男だし、組付きでなかったでしょ、だから優秀な助監督っていったらおかしいけど、優秀な人はみんなそれぞれ監督と組作って、一種のお見合いなんだよね。…(略)…
 で、川島雄三はどこのお見合いにも属さない…(略)…。
(池田浩郎『人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語』山田太一・斎藤正夫・田中康義・宮川昭司・吉田剛・渡辺浩〔ゆたか〕、マガジンハウス) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 酒を飲んでは暴れる、他人を誹謗中傷する、むやみに喧嘩っぱやい・・・総じてカツドウ屋にはこういう人種は多いのだが、そうした性向が最初から判っていれば、監督としては助監督にそうした男を入れたくない、と思うのが人情である。

 また川島には、終生彼を苦しめた業病〔劣勢遺伝的進行性萎縮症〕があり、戦時には召集されたが1日で帰ってきた。兵役に耐えられない身体だと直ちに判定されたからである。そして戦後は筋肉の萎縮が酷くなっていき、歩行にも不自由をきたす状態に悩まされる。

 しかし松竹大船に入社した時の彼はいたって壮健であって、西河克巳監督によれば、冬山にロケに行って一番スキーが上手かったのは川島だったという。彼は青森出身だからスキー経験があってそれで上手かったのだろうが、つまり当時はまだスキーをやれるだけの身体であったということだ。萎縮症はまだ本格的に発症していなかったことになる。

 だから川島が他の監督からのお呼びが掛からなかったのは、その病気のせいではない。性格的にちょっと頼りない面があり、それが奇異な素行と相まって、所内の信用を得られなかったからである。
 ゆえに川島はどこの組付にもなれずにアブれ、師匠としての監督を持たない一匹狼、いわば無頼(派)の助監督となる。呼ばれれば、どの監督の作品にも付くが、そこには師匠と弟子という密な付き合いはない。よって助監督としていい働きをしても、城戸所長に「アイツは優秀だから1本撮らせてやってください」という監督昇進のプッシュもない。この当時の松竹ではそうしたプッシュ(師匠監督からの推薦)がないと、よっぽど秀でた人材でない限り、一本立ちの監督になれなかった。 しかし--川島雄三は、そのよっぽど秀でた人材、であった。先の池田浩郎のコメントのところで、省略した <*1> には、川島について決定的な事が書かれている。

 ところがその〔助監督を採用する〕試験の結果、大庭秀雄、『君の名は』で有名な大庭秀雄が、川島雄三の試験の答案を持って、当時狩谷太郎が所長だったんだよ、〔その所長のところに来て〕やや興奮して
「隠れたる天才が現れましたよ」と言ったというんだね。だからあの監督登用試験っていうのがなかったら川島雄三は浮かび上がらなかった。      (前掲書) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 松竹大船の第3系統に追いやられた野村芳太郎は、傍流に追いやられたおかげで〝隠れたる天才〟川島の薫陶を受けることができたのであった。   〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その9>

◆ 黒澤に褒められ、橋本忍と出会う

 〝隠れたる天才〟-川島雄三の薫陶を受けた事に続いて、芳太郎にとってもう一つラッキーだったのは 黒澤明 と出会えたことであった。
 松竹所属の監督ではない、他社の監督が大船で映画を撮る際、第1系統からも第2系統からも助監督がまわされたが、そうした時に「キミ、付いてくれるかな」と口が掛かるのはやはり第3系統の助監督だったようだ。
 黒澤は大船で 『醜聞』 (昭和25=1950年) 『白痴』 (昭和26=1951年)と2本撮っているが( 『八月の狂詩曲』 平成3=1991年、を含めると松竹では3本)、芳太郎は『白痴』で助監督に付き、名だたる〝完全主義者〟黒澤の執拗な演出を間近で見ることになる。しかもこの時、助監督としての仕事ぶりを褒められ、黒澤から「日本一の助監督」との(おそらく最高の)褒め言葉もちょうだいしている。黒澤明の脚本家チームの一人、 橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』(文春文庫) の中に書いている。

〔黒澤〕「僕はね、松竹の大船へ行って、『醜聞』『白痴』と、二本映画を撮ったよ。しかし、いいことは何もなかった。ただ、松竹の大船には、野村芳太郎という、日本一の助監督がいたよ」
〔橋本〕「日本一の助監督」
〔黒澤〕「そう、あんなのは、東宝にも、大映にもいない。日本一だよ」


 黒澤作品『白痴』は完成したが、長尺になりすぎて、大船撮影所所長の城戸四郎から黒澤は短縮するように指示される。もちろん、黒澤は短縮したくない。編集で短くする事を「フィルムを切る」というが、城戸と黒澤の間で「切れ」「切らない」の押し問答が繰り替えされていた。

「どうしても切れというなら、フィルムを縦に切れ!」

という黒澤の名言が残っている。
 だからこの時期の黒澤は非常に機嫌が悪かった。
 そんな黒澤邸(橋本忍も来ていた)へ松竹のプロデューサー・小出孝三國連太郎を銀座でスカウトした男、4月16日付【緊急寄稿 三國連太郎 <前篇>】参照)が城戸の伝言を持ってやってくるのだが、その小出と連れ立って野村芳太郎もやってきた。

 …(略)…松竹のプロデューサーの小出孝という人が、城戸さんの意を伝えるため、野村さん……ついさっき話の出ていた日本一の助監督、野村芳太郎さんと一緒にやってきた。
 黒澤さんは城戸さんの代理人のプロデューサーには、冷たく無視して眼を向けないが、野村さんにはニコニコ相好を崩し、早速私に引き合わせた。……
〔黒澤〕「橋本君は大正何年だ?」……
「七年です」
「野村君は?」
「大正八年です」
「同年輩だな、二人とも……これからは君たちの時代が必ず来る。二人とも仲良く、一緒に仕事をしろよな」
                                    (前掲書)


 と言って、橋本忍は黒澤監督から野村芳太郎を紹介されたのだが、この二人は後に監督X脚本家として〝一緒に仕事〟をするどころか、 『八甲田山』 (昭和52=1977年)を共同製作して大ヒットさせ、一時代を作ることになる。〝これからは君たちの時代が必ず来る〟との黒澤の言葉はまさに当たっていた・・・事になる。
 芳太郎と黒澤の交流はその後も続いた。黒澤明もなかな人の好き嫌いの激しい人ではあるが、芳太郎とは気が合ったようだ。

 すると、野村芳太郎は、傍流の第3系統に廻されたおかげで、鬼才・川島雄三の教えを受けるわ、黒澤明と一緒に仕事をして褒められるわ、シナリオ界の大家・橋本忍とも知己を得るわ、といいことずくめであった・・・事になる。

 しかも助監督時代、芳太郎がチーフ助監督となった時には 今村昌平 と出会う。入社試験で大いに大物ぶりを発揮し、早くも曲者ぶりをプンプン匂わせていた今村昌平を川島組に呼び入れて鍛え、今平が川島と共に日活へ去ると、やはりくすぶっていた 山田洋次 を助監督に付けた。山田とシナリオを共作し、現場では映画作りのテニヲハを教えていく・・・といったあたりの事は、当ブログの一番最初の記事 【日本の映画監督-大島渚もまた死す・・・】(1月16日付) でも軽く紹介してありますので、そちらをどうぞ。 〔続く〕


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Coffee Break 監督と助監督 その2 〔松竹編〕

◆ 選択権を持った助監督

 〝客が入ってナンボ〟の映画業界では、昔から劇場に客を呼べる人気スターが権力を持つ。これは洋の東西を問わず、である。
 映画製作を始めた頃の松竹でも変わらず、諸口十九(つづや)や勝見庸太郎といった男性スター、川田芳子や栗島すみ子といった女性スター、つまり大物が力を持って、彼らを中心に撮影所が回り始める、これを 〝スター・システム〟 という。

 やがてこのスター達の〝暴走〟が始まる。公私に渡る勝手気まま、横暴、横車が目立つようになり、特に、諸口十九などはその人気をカサにきて映画製作にも口を出し、企画や脚本などに口を出したり、それが気に入らないと退社すると言って会社を脅かしたり、勝手に独立宣言をしたり、果てには「勉強」と称して勝手にアメリカに渡る、という具合にムチャブリが甚だしくなってくる。
 これがスターシステムの弊害で、松竹ではこうしたスター陣の横暴が目立ってきたので、これを改めようと、監督とした中心とした映画作りに切り換える。

 これが 〝ディレクター・システム〟 である。つまり、映画全般、何から何まで、監督が中心であり、監督中心で何もかもが動くわけである。一応は創造者=クリエイターが第一、という考え方である。 
 ところが監督たちが権力を持ち出すと、今度は彼らが尊大になって我が儘を言い出す。このシステム変換を主導した 城戸四郎 は手を焼くことになる。

 松竹はそうしたディレクター・システムの会社だから、監督予備軍たる助監督にもある程度の権限(自治権)が与えられていて、松竹の助監督達が集結した部署「助監督部」というものがあって、そこそこの実権を持っていた。

 例えば、自分がどこそこの組の監督に付きたい、という希望を一応利かれ、監督の側のOKで、しかも欠員などがあればすぐにその組に付ける。そして付きたくない監督には、一応、拒否権もあって、どうしても嫌だという監督や組には付かなくてもよかった。とはいえ、日本映画が好況の黄金時代は、猫の手も借りたいほど忙しかったから、入社したての新米助監督達には、そうした選択権はあってなきが如きで、付きたくない監督にも渋々付かされている。どこその監督に付きたい、とか、あんな作品には付きたくない、というためには、やはりそこそこの年季が入るのである。

 中には、逆に監督の方から「アイツは結構」と敬遠される助監督もいるわけで、そうやって仕事もなく、年中休業状態のまま過ごすことになる。先の 【巨匠のムチャブリ余話 映画界にいた天皇】(3月4日付) で書いた大船の 〝3天皇〟 などがその好例で、こうした窓際族というのは映画界のみならず、一般の会社、官庁でもいますわな。   〔続く〕


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Coffee Break 監督と助監督 その3 〔松竹編〕 

◆〝某師〟コバケイさんの思い出

 また、松竹蒲田・大船の場合、助監督たちは「あの監督につきたくない」とか「こんな仕事(作品)はしたくない」と拒否することもできたといい、そんな時、彼らは松竹の寮で読書をするなど自由に過ごしても良かった、ということもあったようである。働かなくても、助監督は松竹社員だから給料は出た・・・「そりゃまたイイご身分だな」と羨ましく思ってしまうが、実際は助監督として撮影所に入って何もしないでいる、というのは切なくて、寂しいことこの上もなく、かなり屈辱的なことであったらしい。どの監督からもお呼びがかからない、というのは己の無能を思い知るようなもので、誰にも頼りにされない、という孤独感に苛まされて辛かったようである。

 カツドウ屋は、ヒマよりもむしろ年中ヒマなし、忙しくて死にそうなぐらいがいいのだ。

 また監督陣にもあまりに偏屈で助監督がつきたがらない人、というのがいて、ある慌て者の監督などは性格が極端なのと、突拍子もない勘違いでもって配下の人間を振り回すから助監督に嫌われて、人が集まらなかった。いざ撮影という時になると、いつも助監督の付き手がいなくて困った。するとこの監督はスタッフの間をまわって幾ばくかの〝ご祝儀(お金、手付け金か)〟を渡しながら、
「どうか、ひとつよろしく」
と自分の組に来てくれるように〝売り込んだ〟というから恐れ入る。
 その監督とは、本流の小山内門下で 『鐘の鳴る丘』三部作 (昭和23~24年)などで知られる 佐々木啓祐 である。松竹には〝けいすけ〟という名の監督が二人いて、一人はこの佐々木啓祐、あと一人は 木下恵介(本名は木下正吉、惠介は芸名) である。惠介は優れ者であったが、啓祐の方は粗忽者であった。
 【<その4>】(5月4日付)監督系譜 を見ていただければ分かるように、そういう監督からは良き後継者(一本立ちの監督)は生まれない。一応、 「小林桂三郎」 という人を出しているが、小林桂三郎、通称 〝コバケイ〟さん は、 川島雄三 らとつるんで松竹大船をおちょくった諷刺冊子『泥馬(でま)クラブ』を出すなど、小才に長けた好人物ではあったが、松竹では大成せず、川島と共に日活に移って、ヒットした歌謡曲を強引に映画にアレンジした、いわゆる〝歌謡映画〟の小品を監督して(ちょっと)気を吐いたのみである。

 〝小才に長けた好人物〟などと見てきたように書いたが、実際に見てきたのだから仕方がない。この人はジャズ野郎が大学時代に映画作りを教わった〝先生〟である。先生というより恩師というべきかも知れないが、恩師というほど密接な付き合いはなかったし、さりとて知らない仲でもないから〝某師(ある先生)〟としておく。
 この某師は自分で映画を論じ、その話が昂じてくると、というか、話が昂じなくてもすぐに 顔が真っ赤 になり、口角泡を飛ばして早口で喋りまくる。だから、コバケイさんというと、すぐその紅潮した真っ赤な顔を思い出す。いろいろとモノを識ってる蘊蓄魔であったが、いつも妙にせかせして落ち着きがないので、貫禄がない。監督でも裏方さんでもカツドウ屋はほとんどみな声がデカい。コバケイさんはせわしなくて声がデカいから、常に怒っている、というか、せっぱ詰まった感じがしてコッチまで落ち着かなくなり、その講義(演出論、というか映画の裏話、というか、要するに単なる世間話)を拝聴した後はいつも気疲れした。

 先に、佐々木啓祐の事を書いたが、書いていて、その特徴がコバケイさんそっくりなのに気がついた。「やはり監督と助監督だ、師匠と弟子ってのは似るもんなんだなぁ」と思う次第である。   〔続く〕


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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その10>

◆2派が融合した本流を継ぐ者は・・・?

 この【野村芳亭、知られざる巨人】を最初から読み返してもらうと判ると思いますが、もともと蒲田調(大船調)というのは、アンチ芳亭派の当時の撮影所長・城戸四郎が敷いた松竹映画のカラーだったから、芳亭調と蒲田(大船)調とは本来違うものだった(蒲田調を論じた4月6日付【野村芳亭、知られざる巨人 その17】参照)。

 芳亭さんは出演者に泣く芝居をオーバーにやらせて、それで観客の涙腺を刺激し、また描写そのものも大げさで豪奢で、ちょいとアナクロな感があった。

 それに比べて城戸の目指した蒲田調は、芳亭さんよりもっと目線を下げ「庶民感覚で自然体なドラマ」を、「飾らない生活描写」を、していこうというのが眼目であり、その当初は芳亭流との確たる違いがあった(のでしょうね。当時の芳亭さんの作品を見てないので、各種の映画本からの類推です)。
 城戸は小山内薫門下の島津保次郎、五所平之助らに蒲田調の映画を撮らせ、それが本流となっていく。だから狭義で言えば、小山内派の島津一家(五所、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、中村登、川頭義郎)あたりが蒲田調の正統中の正統という事になる。とはいえ、小山内派イコール蒲田(大船)調という括りでいいでしょう。

 しかし描く世界はどちらも庶民(生活)だから自然と似てきて、いつの間にか小山内、芳亭の2派とも蒲田調と見なされて、共に蒲田(大船)調と呼ばれるようになっていく。
 つまり松竹十八番の蒲田調というものは、小山内派(城戸)と芳亭派の2つの本流が融合した形といえるのだが、戦後、この本流からこの大船(蒲田)調(以下、大船調)を継ぐ作家というものが出て来なかった。
 せいぜい小山内派の系統に 木下惠介 が出たぐらいで、その後が続かない。松竹の監督系譜 <その4>(5月4日付)を見ていただくと分かるように、木下門下の筆頭は 小林正樹 だが、小林は大船調を継ぐ、継がない、などというチマチマした領分を飛び越えた〝巨匠〟になってしまうので、その継承者の任からは外れる。
 次に木下の継承者となると 川頭義郎 (俳優・川津祐介の兄)ぐらいしかいない。川頭はいかにも大船調的な作家であり、本流を継承したと言えると思うが一家を成すには至らなかった(川頭監督は46歳の若さで逝ったが、その作風はやや小粒で、木下作品のような拡がりを持っていない)。

 松山善三 も大船調と呼べるソフトでデリケートな体質を持っているが、彼は監督デビュー作が松竹ではなく東宝系の 東京映画 であり、そこで撮った 『名もなく貧しく美しく』 (昭和36=1961年)が高評を得、一流監督の仲間入りをする。
 松山は監督の腕よりも先に脚本家として認められており、すでに大家であり売れっ子であった。松竹のみならず東映、東宝作品の脚本をよく書いたが、その流れで東宝で監督する約束ができ、『名もなく~』はそれが実現したもの、と 『日本映画監督全集』(キネマ旬報) にある。この映画化は当初、監督に木下惠介が予定されていた。

…(略)…師の木下の監督を予定していたが最終段階で意見が合わず、以前から東宝で松山が監督する約束があったため、傍系の東京映画で自ら撮ることになったのである。  (前掲書)

 というわけで、このいかにも大船調的な題材は松竹外で日の目を見た。皮肉な話である。
 続いて『ぶらりぶらぶら物語』(昭和37=1962年)や『われ一粒の麦なれど』(昭和39=1964年)といった具合に東宝系で仕事をしてゆく。この時期、松山監督が松竹で撮ったのは、『山河あり』(昭和37=1962年)のたった1本だけだ(後に撮った『母』昭和63=1988年 を含めても、松竹出身の松山監督の松竹作品は2本しかない)。

  つまりこれは大船調の流出である。

 松竹で育った木下学校のエリート助監督・松山善三は、何故、他社で映画を撮り続けることになったのだろう? 〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その11>

◆ 大船(蒲田)調の流出と自滅

 ジャズ野郎はこの事情(松山善三が主に松竹外で映画を監督した事由)に詳しくないが、推察するに、昭和40年(1965)の 『香華』 の後、木下監督が松竹上層部と揉めて 退社 するはめになった経緯などが関係しているのではないだろうか。
 師匠の木下がいない松竹では、仕事がしずらかったという事もあっただろうし、もしかしたら当時の松竹社長・城戸四郎が木下監督(やその一門)を忌避した、というような事が影響したのかもしれない。

 城戸四郎が松竹キネマ創業まもない頃、 野村芳亭 を京都の下加茂撮影所へ追い出したり、昭和4年の 『母』 (昭和4=1929年)では作品を貶して自ら退社させようとした事は、<【野村芳亭、知られざる巨人】<その17>(4月6日付)<その26~28>(4月19~21日付)で書いたが、彼には会社のためになろうがなるまいが、自分の気に入らない人材を排除するクセ(性癖)があった。
 一時は自分の子飼いとして可愛がった 牛原虚彦 も、五所平之助 も、成瀬巳喜男 (成瀬の場合、城戸は性格が暗いとして最初から嫌っていた)も退社に追いやったし、あの 小津安二郎 さえも戦後の一時期、追い出そうと動いたフシがある。
 だから木下を排除し、その門下の松山善三も松竹から締めだした、というふうに思うのだが……。

 城戸の狭量な性格の一例としてこんな話がある。城戸は、野村芳太郎が脚本家の 橋本忍 と組んで旗挙げした橋本プロで製作した 『砂の器』 (昭和49=1974年)が大ヒットし、松竹は大いに潤ったのだが、にもかかわららず、野村が松竹作品を手がける際に、ギャラを上げるな、と命じた。

〔晩年の城戸四郎は〕忍耐力が失われてきて、独裁者的な面が強く出るようになった。
 それは例えば、「砂の器」の野村芳太郎監督の演出料を上げるな、と製作本部の太田芸文室長に命じてきたことにもはっきり示されている。
「野村は、『砂の器』で、たいへんな金を稼いでいる。ギャラをあげて、これ以上もうけさせる必要はない」というのが理由だった。
 監督の演出料は、前年度の作品がどの程度の興行成績を上げたかで決定する。「砂の器」の大ヒットを出した野村監督には、その〔功績〕が考慮されてしかるべきだった。
 ところが、自分が最後まで反対した「砂の器」が大ヒットして、自分の意に染まぬ配分比率によって、松竹はみすみすもうけ損ねた。その意趣返しを、演出料据え置きで果たそうとする。
 明らかに、監督との契約や演出料が、城戸個人の感情によって決定するという事態が強くなってきた。
   (『日本映画を創った男 城戸四郎伝』小林久三、新人物往来社) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 またこの同じ時期、城戸は、かねてから才能ありと見込んで可愛がっていた 森崎東 監督を解雇している。

「森崎--あれは駄目だね」といった。
 城戸の口から、ショッキングな言葉がとびだしたのは、そのときだった。
「森崎の監督契約を解除する。森崎にそのことを伝えてくれ」       (前掲書)


 森崎監督も大船に残っていれば、大船調を継承するだけでなく、そこにプラス・アルファを付与して大船調を刷新する事が出来たかもしれない。そうしたサムシングを秘めた人材だったはずである。だが森崎の作風が意に沿わないと見るや、ただちにクビを切った。そこにはあったのは非情な経営者の意志ではなく、冷酷なエゴイストの〝切り捨て御免(無慈悲)〟である。

 こうして見ていくと、蒲田=大船調を根絶やしにしたのは、他でもない、それを創生した城戸四郎自身ということになる。城戸は、かつて己が種を蒔き、育て、大輪の花を咲かせた蒲田の、大船の花壇を、結果的に自ら蹴散らすこととなった。色とりどりに咲き乱れていた花々は、摘み取られ、または枯れて、最後の最後に 山田洋次 という一輪の希望がそこに残った。何度もいうが、その山田監督は本流ではないのである。    〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その12>

◆花壇を荒らした者達への怒り

 本流2派の一派--小山内派の話が長くなったが、ではもう一つの芳亭派の方はどうだったかというと、こちらも本流を継承した監督を出したとは、とても言えない。
 芳亭派の流れにある小津安二郎や清水宏は何度もいうように、もともとは城戸と同じアンチ芳亭派だから、泣かせの新派悲劇調をそのまま引き継ぐわけがない。
 だがその小津、清水の門下からも蒲田調を継ぐべき、才能(監督)が出たかといえば、それも出ていない。

 こちら芳亭派の末端に控えている大島渚や篠田正浩は、木下派閥の吉田喜重とともに〝松竹ヌーベルバーグ〟を起こし、大船調の継承どころか、それを破壊するアンチ大船調(アンチ日本の政治・社会体制!)を標榜していくわけだから、松竹側にしてみれば飼い犬に手を噛まれたようなもの。大島渚や吉田喜重らは、本来は本流派に繋がるエリートながらその本流を食い破って外に飛び出した。彼らはまさに大船の鬼っ子であった。

 先の<その11>で、蒲田=大船調という麗しき花壇を蹴散らしたのは城戸四郎だと書いたが、城戸が蹴散らす前に、それを行ったのがヌーベルバーグの一党である。彼らは城戸が手塩に掛けて育てた蒲田=大船調という花壇を踏みつぶして荒らした。
 松竹ヌーベルバーグの到来を告げた大島渚の 『青春残酷物語』 (昭和35=1960年)が公開された時、城戸は経営不振の責任を問われ社長の座を退いていた (*1) 。『青春~』以降、吉田喜重、田村孟、森川英太郎、高橋治らによってヌーベルバーグ作品は一気に開花したが、それは城戸のいぬ間に行われたのである。

 大島達が花壇を荒した〝凌辱〟行為は、本来はその荒れた花壇(色褪せた道徳観と定石化したプロット、そして安っぽいハッピーエンド<ヒューマニズム>で塗り込めた、〝偽りの花園〟然とした蒲田=大船調)に新たな才能と作風の息吹を芽吹かせるための〝逆療法〟だったはずである。
 しかし彼らよりも3ゼネレーションも上の城戸四郎に、その切なる叫びは聞こえない。大島達の行動をただの破壊行為としか見ない。それを、大船調への、いや自分へのテロ(城戸四郎否定)としか感じとれなかったのである。

 城戸は同じ松竹の人間によって自分の花壇を荒らされた事でトラウマを得、その十数年後、今度は自らの手で花壇を荒らすのである。それはもしかすると、他人に汚されるくらいなら自分で潰してやる、といった自暴自棄的な確たる決意があったのかもしれない。

 その十数年後--つまり、城戸が野村芳太郎の監督料を上げるなと命じ、森崎東を辞めさせた、昭和50年代とはちょうどジャズ野郎が映画を見始めた頃なのだが、ロードショーで見ていた当時の松竹映画というものは存外に暗かった、貧乏くさかった、そして徹底的にダサかった。ま、実は松竹に限らず、この時期の日本映画はどれもこれも、中学生のジャズ野郎にはそんな感じに見えた。
 そんなジャズめが、それから30数年たって、これほどまでに日本映画に入れ込むようになる、とは夢にも思わなかった。これも皮肉な話です。〔続く〕

*1 城戸の退陣 日本映画のピークは、先日、国民栄誉賞を弟子の松井秀喜とともに受賞した長嶋茂雄が巨人軍に入団したのと同じ昭和33年(1958)年であるが、邦画界全体はピークだったが、その時、松竹はすでに下降期に入っていた。松竹が我が世の春を謳歌したのは、それに遡ること5年前、 『君の名』 が大ヒットした昭和28(1953)年で、これによって松竹本社は新築され、昭和31年(1956)に松竹セントラルという大劇場を併設した松竹会館が落成する。しかし、皮肉にもコレを契機に松竹映画の興行収入は下降線を示し始め、昭和33年には邦画6社中、第5位に甘んじる(最下位は、当時、落日間近だった新東宝)。
 そして昭和35年(1960)には株主配当が無配となる。『日本映画を創った男 城戸四郎伝』(小林久三、新人物往来社)にはこうある。

 しかも、たんなる無配転落ではなかった。前の年〔昭和34年〕の九月には九億二千四百万円を増資した直後の無配転落で、経営者にしてみれば恥の上塗りのようなものであった。
 その責任をとって、城戸社長は辞任して相談役となった。松竹に入社して間もなく平取締役となり、以後、一貫して右肩上がりの昇進をつづけて社長にまでのぼりつめた城戸にとって、はじめて味わう挫折だった。


 城戸の後、社長になったのは専務の大谷博で彼は大松竹(歌舞伎・演劇・映画その他、松竹の事業のすべて)の合理化を推進した。
 まだ社長であった昭和33年の在任中、城戸は 木下惠介 監督の企画 『楢山節考』 には反対で製作をストップさせていたが、松竹会長・大谷竹次郎の了承の元に許可されて製作・公開され、批評的にも興行的にも大成功を収める。映画化に反対だった城戸の面目丸つぶれであった。城戸時代(大船調)は、彼の社長在任末期にすでにその〝終わり〟が始まっていた、ともいえる。

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その13>

◆あくまで仮定の「松竹の昭和30~50年代」論

 松竹の監督系譜、と銘打っておきながら、話の中心が城戸四郎の方に偏ってしまいました。再び、昭和30年代後半に話を戻します。

 昭和35年前後に、大島渚や吉田喜重らが、上品でお行儀のいい松竹映画(蒲田=大船調)をブッ壊すような、才気走った快作、奇作、珍作をつるべ打ちした〝松竹ヌーベルバーグ〟は、まるで打ち上げ花火のようにあっけなく消え、彼らはそれぞれ松竹を出て、独立プロを作って意欲的な作家活動を展開してゆく(ここらあたりの事は、1月18日付【日本の映画監督 松竹“昭和29年組”の栄光】を参照)。

 もしも・・・川島雄三今村昌平 中平康 といった日活に移った面々(ついでに松竹の助監督試験に落ちて日活に入った 浦山桐郎 も含め)が、移籍せずに松竹大船に残っていたら、果たして彼らは大船調を継承する作品を作っていっただろうか? 
 おそらく誰もが「ノー」というだろう。川島雄三や西河克巳はともかく、今平さんや中平らは大島・吉田・篠田の一派とは違った形で、アンチ松竹路線を準備していったように思えるし、もしくは大島達同様、退社して自分の作りたい映画(世界)を作るべく独立プロを始めたのではないだろうか。事実、その後に今村昌平や中平康、松竹京都から移籍していった 蔵原惟繕 神代辰巳 という人達が日活で作った映画というものは、こじんまりとした松竹の画一化した家庭劇、恋愛劇を時に大きく凌駕する、斬新で画期的な企画(プロット)と映像感覚に溢れていた。
 裕次郎、旭が牽引した日活アクションが大ヒットを続けたその影で、いや、裕次郎映画の大当たりの余禄があったお蔭で、今平さん達は独自な作家性を打ち出した作品を撮ることができた。新生・日活の自由な若々しい(そして青臭い!)気風がそれを許した、とも思える。
 老獪な城戸四郎が厳然と居坐っていた松竹大船では、その多彩な才能も意欲も殺がれて封殺されてしまい、日活で生み出された--例えば『にっぽん昆虫記』とか『危 <ヤバ> いことなら銭になる』のような傑作、快作--を僕らは見ることは出来なかっただろう。

 これ、すべて〝もしも・・・〟という仮定のお話です。  〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その14>

◆大船最大の危機・・・助監督の枯渇

 ただ、この昭和30年代、大船撮影所から<松竹ヌーベルバーグ派>や<第3系統>の川島=今平一派、そして松竹京都からも才能のある監督・助監督がほぼいなくなったという事態(事件)は、「仮定」ではなく、時の現実であった。この事がどれほど松竹映画にとって痛かったか、マイナスだったか---それが後に判ってくる。

 彼らが去ったこの時期よりもずっと後の、邦画の斜陽化が目に見えて加速していく昭和30年末から40・50年にかけて、松竹の助監督、そして監督の人材の薄さが顕著になっていくのである。

 日活移籍後、二十数年ぶりに松竹大船に来て 『恋人岬』 (昭和52=1977年)を撮った 西河克巳 は、久しぶりに大船撮影所を訪れて、深刻な感想を持った。

西河 びっくりしました。まず、変わってないんですね。本当に、取り残されたところだなあという感じがしました。撮影所自体に無気力な空気が流れているような、引退しているような印象があって、コレは好くないな、と思いましたね。……
-〔『恋人岬』の〕スタッフは松竹の関係の方たちなんでしょうか。
西河 ぼくが外から来た、ということもあったんでしょうが、助監督があまりやってくれない、という印象が強かったですね。野村芳太郎君にも後で聞いたら、
「いちばん問題なのは助監督だよ」
ということを言ってましたからね。昔は大船のいちばんいい所が助監督だと言われたんですがね。
 (『西河克巳映画修業』西河克巳・権藤晋、ワイズ出版) 〔〕内、ジャズ野郎註。


 「いちばん問題なのは助監督だよ」という野村芳太郎の一言が重い。西河作品『恋人岬』のチーフ助監督は、あの第3系統の中にあった 三村晴彦 であるが、この低迷期にはすでに本流も傍流も第3系統もなかっただろう。助監督の人員自体が減らされ、また急激な映画不況の中で自然と減っていって、人も才能も、この時の大船にはいなくなっていた。

 蒲田=大船調の創成者であり、擁護者であった城戸四郎はというと、昭和50年(1975)4月18日、ついに永眠の床についた。その城戸の継承者もいない。

 では、松竹映画は、蒲田=大船調は、この時(そして現在に至るも)、死に絶えてしまったのか・・・。〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その15>

◆芳亭から芳太郎へ  松竹カラーは生きている <前篇>

 国立フィルムセンター が出している隔月刊誌 『NFCニュースレター』 の、やや古い「2007年8-9月号」の中に 『野村芳太郎-松竹“暗い抒情”の系譜として。』(浦崎浩實) と題した小論がある。
 表題からも分かるようにこの中で浦崎氏は、野村芳太郎の作風を“暗い抒情”として論を進めているのだが、これを初めて読んだ時、「野村芳太郎って、暗い抒情かなぁ」とある種の抵抗を覚えた。
 しかし、今は全面的に浦崎さんの論に賛成である。この一文を最初に読んだ時には、ジャス野郎は芳太郎の父・芳亭さんの作風のなんたるかを全く知らなかった。その後、今年の3月(18日)からアップしてきた【野村芳亭、知られざる巨人】の草稿を書くため各種の映画本をあたっていったら(2011年)、前述したように、芳亭映画とはその多くが〝泣きの悲劇〟ばかりであり、 〝湿っぽさ〟 〝哀れさ〟 が作品の基調であることが判ってきた。

 この芳亭監督の〝泣きの悲劇〟は、ただちに息子・芳太郎〝暗い抒情〟と全く同じであるとは言えない(前から言うように、ジャズ野郎は野村芳亭作品を一つも見ていないから断言は出来ないのです)のだが、父親の作風と芳太郎の作風が、その作品に漂う匂いが共通しているであろう事は判然としてくる。なるほど、確かに「野村芳太郎は“暗い抒情”の系譜にあるんだな」と感得することが出来た。まったく、「ありがとう、浦崎さん」である。

 その浦崎さんの小論を全部紹介することはできないから、要点だけ抜き出すと、

 今日、松竹を代表する監督といえば、まず小津安二郎、木下惠介あたりから名前が上がるに違いない。
 が、このお二方は、松竹がバックボーンとしてきたはずの蒲田→大船調といわれる明朗な家庭劇、人生肯定主義の主流にはいないはずなのだ。その名作群に“家庭”を主題にしているものが多いのは確かだけれど、お二人のそれは、どこかシニカルであり、懐疑的であり、悲しみの源泉ですらある。
 

 浦崎さんは、この後、渋谷実や吉村公三郎、小林正樹、野村芳太郎らの名を挙げ、この人たちも主流といえるだろうか、と疑問を投げかけ、松竹ヌーベルバーグの監督達は松竹の 「異端児どころか、松竹のむしろ正統なのではなかろうか」 と続ける。
 ジャズ野郎は、先に松竹ヌーベルバーグ派を“鬼っ子”と書いたが、実は主流に抗した大島渚らの行動は、創業当時の娯楽系の主流派であった野村芳亭に反旗を翻して“蒲田調”を打ち立てた城戸四郎の行動とダブる面もあるから、“松竹のむしろ正統なのではなかろうか”というこの意見は、心密かに嬉しく思っている。

 大事なのは、この後である。

 少なくとも戦後の松竹映画を眺める限り、向日的な大船調は、むしろ傍流か、さもなくば幻影だったように思えてならない。
 松竹作品の“主流”は、明るく前向きな小市民性などにはなく、むしろ“悲傷”や“暗い抒情”にあったのである。
(以上「NFCニュースレター第74号 2007年8-9月号」発行・著作:国立美術館/東京国立近代美術館)


 〝明るく前向きな小市民性などにはなく、むしろ“悲傷”や“暗い抒情にあった”〟という、これこそが松竹作品の主流、つまり芳亭派と小山内派=城戸四郎がない交ぜになった蒲田=大船調の正体なのである。   〔続く〕

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松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <最終回>

◆芳亭から芳太郎へ 松竹カラーは生きている <後篇>

 そうなのだ--ジャズ野郎も、蒲田=大船調というのは、明るく前向きな小市民性を描いたものなんだろうと思っていた。しかし、その代表作、例えば 五所平之助監督『村の花嫁』 (昭和3=1928年・松竹蒲田)などの非情で無惨なまでに酷薄な、まるで幸せが肩をかすめていくようなプロット(筋書き)を読んで、こんな残酷な哀しいドラマ(粗筋・結末)が「蒲田調の幸福感なのか?!」と思ったものである。
 つまり、蒲田=大船調は、明るく楽しい作品もあるだろうが、どうも多難な事件や悲劇に揉まれながら庶民が前向きに生きる姿を描いた、「淡くて、ささやかで、グレーな幸福希求劇(明日への希望、期待感、といった方が正確か)」というのが、その作風の実態らしい。

 つまり、そこには常に “涙” がつきまとうのである。ドラマ(映画)の中の庶民が泣くのである、泣いている庶民が主役のドラマなのである・・・それならば野村芳亭の映画ではないか。趣向として芳亭さんが描き続けた新派悲劇調でないとしても、その涙の余韻というか、涙の記憶というか、そういうものが映画のどこかに常にある(来月公開される木下恵介監督の若き日を描いた 『はじまりのみち』 では、木下監督の名作が洪水のようにインサートされるのだが、その喜怒哀楽の映像には圧倒的に涙<哀>が多い。涙・涙・涙のオンパレードといってもいいほどだ)。

 それを思った時、なるほど、その芳亭さんの息子の芳太郎ならば、蒲田=大船調を継げるわけだし、継ぐ・継がない、という意識(意図)がなかったとしても野村芳太郎のどの作品にも(浦崎さんの言う)“悲傷”感や“暗い抒情”が漂っているのは、むしろ自然なことなのではないか。こんな具合に納得できた。

 つまり、野村芳太郎の作風は父・芳亭譲りの“持ち味(伝統)”だったのである。

 そして・・・ 蒲田=大船調はというと、まだ死に絶えてはいない。それを継承していた野村芳太郎は8年前に亡くなったが(平成17=2005年4月8日死去)、山田監督は健在で、今年も『東京家族』を発表し、現在新作の『小さいおうち』を撮影中である。80歳を超えて映画を撮り続ける山田洋次は老いることを知らぬ“幼児<キッド>”だ、まだまだ元気いっぱいである。

 松竹映画に流れる、どこか哀れで寂しげで、ちょっと泣けて、そんでもって軽やかな“味わい”こそは、京都の時代劇とともに日本映画の心である、絆である、魂である。

 それを継ぐ者が現れないとしたら、日本から映画が消えて失くなったも同然だ。  〔完〕

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※出典及び参考文献
● 『人物・松竹映画史 蒲田の時代』升本喜年、平凡社
● 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』升本喜年、平凡社
● 『かりそめの恋にさえ 女優川田芳子の生涯』升本喜年、文藝春秋
● 『田宮二郎、壮絶』升本喜年、清流出版
● 『日本映画を創った男 城戸四郎伝』小林久三、新人物往来社
● 『雨の日の動物園』小林久三、キネマ旬報社
● 『人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語』山田太一・斎藤正夫・田中康義・宮川昭司・吉田剛・渡辺浩〔ゆたか〕、マガジンハウス
● 『西河克巳映画修業』西河克巳・権藤晋、ワイズ出版
● 『日本映画発達史 第1~5巻』 田中純一郎、中公文庫
● 『大谷竹次郎』田中純一郎、日本経済新聞社
● 『日本映画傳』城戸四郎、文藝春秋
● 『小津安二郎物語』厚田雄春・蓮見重彦、筑摩書房
● 『小説・田中絹代』新藤兼人、読売新聞社
● 『実録・蒲田行進曲』結城一朗、KKベストブック
● 『キャメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』山口猛編、社会思想社
● 『映像を掘る 宮川一夫の世界』渡辺浩(ゆたか)、発行パンドラ、発売・現代書館
● 『マキノ雅広 映画渡世 天の巻・地の巻』マキノ雅広、ちくま文庫
● 『映画は陽炎の如く』犬塚稔、草思社
● 『わが映画の青春』衣笠貞之助、中公新書
● 『ひげとちょんまげ 生きている映画史』稲垣浩、毎日新聞社
● 『わが青春』五所平之助、永田書房
● 『キネマの時代 監督修業物語』吉村公三郎、時事通信社
● 『サヨナラだけが人生だ 映画監督川島雄三の生涯』今村昌平編、ノーベル書房
● 『悲劇の喜劇映画監督 川島雄三』木村東市、ジーワンブックス
● 『月刊ユリイカ 特集・川島雄三』青土社
● 『複眼の映像 私と黒澤明』橋本忍、文春文庫
● 『続・巨匠たちの伝説 映画記者現場日記』石坂昌三、三一書房
● 『日本映画監督全集』『日本映画俳優全集・男優篇/女優篇』  キネマ旬報社
● 『NFCニュースレター第74号 2007年8-9月号』発行・著作:国立美術館/東京国立近代美術館

巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その1>

◆ 島津オヤジを語る前に-大正期間の映画界 <前篇>

 本日より、松竹初期に活躍した大監督・島津保次郎 についてつらつら語っていこうと思います。野村芳亭の時同様、大正~昭和の話ばかりですが、良ければおつきあい下さい。

                 ***********

 〝松竹の3悪人〟などと書きながら、(二つ前のコラムの)野村芳亭は結局、尊大ではあったが意外に人情味のある〝花も実もある〟大監督だったということになってしまった。傍若無人な監督や、その公私に渡る横暴な所業を断罪しようと思って筆を執ったジャズ野郎にすれば、これは心外なことである。

 次に紹介する監督こそは、その悪辣な所行を暴いてズタズタにしてやろうと思っているが、さて、その監督・島津保次郎とはどう人物であろうか。

 日本映画にそれほど詳しくない人は「島津保次郎って誰?」とか、ちょっと知ってる人でも「アンタ何言ってんの、 小津安二郎 の間違いでしょ」などと言うかもしれませんが、小津と島津、安二郎と保次郎、とダブッてる箇所が二つもあって、ややっこしい名前ですが、このご両人はどちらも実在した映画監督、それも松竹の監督です。
 小津安二郎の方は、黒澤明、溝口健二、大島渚、そしてここ数年のうちにグッと評価が上がった成瀬巳喜男とともに、日本の映画監督として海外で知名度が高い人だから、これは説明の要もないでしょう。この前に長々と書いた野村芳亭監督のところでも、再三、名前を出したし、カレー事件でボーイを殴ったり、終戦直後にシンガポールから日本に復員する時、自分は最後でいい、と船に乗る順番を他のスタッフに譲った、といった話を書いたので、その人となりは分かってもらえたかと思います。
 その作品の特徴はローポジ、スタティック、そして家庭劇。あえてあと一つ付け加えるなら〝ルビッチ・タッチの発展的応用〟ですが、これについては長い解説が必要なので、とりあえず判る人が判ればよろしい。

 で、島津保次郎は、この小津よりも松竹では先輩だった名匠です。ただし小津のように律儀で謹厳実直な大人(たいじん)ではない。粗暴も粗暴な、暴力オヤジでありました。
 
 ただし、この時代、この島津だけが暴力を振るったわけでなく、ほとんどの監督が部下、主に助監督などの〝弟子〟を顎でこき使い、不出来なことをやらかした時にはブンなぐったり、蹴ったり、と酷いことをしたのです。これが照明部なら、照明の親方がレフ持ちの下っ端などを殴ったり、大道具・小道具ならその棟梁がミスッた部下をトンカチで殴ったり蹴ったり・・・と、こういう蛮行が日常的にあった。
 ですから、オリンピックに出場するスポーツ界のトップや中・高校の部活などでは、監督やコーチが選手や部員を殴る蹴るといった 暴力行為が〝花盛り〟 ではありますが、この島津らが活躍した大正年間から戦後の黄金時代にかけての映画会社の撮影所におけるそれは〝花盛り〟なんてもんじゃなかった。暴力行為やイジメ、迫害、足の引っ張り合いなどは当たり前だったわけで、撮影所は夢の工場どころか〝悪夢の工場〟だったのです。撮影所が夢の工場なんていうのは幻想かタテマエみたいなもんで、実際はヤーさんまがいの粗暴な連中が跋扈する殺伐とした魔界であった。 〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その2>

◆ 島津オヤジを語る前に-大正期の映画界 <後篇>

 往事の撮影所には ゴロツキ のような荒っぽい輩がウロウロしていた・・・とは言え、教養や文才が不可欠なシナリオライターや、テクニカルな知識と熟練を要するキャメラマンほかの専門スタッフ、そしてそれらを統括する監督やプロデューサーの中には、学問と良識を備えたインテリ(知的階層)はいたわけだから、撮影所は無法地帯というわけではない。だがそうした常識人よりも、下働きのスタッフにはどこぞの組から流れてきたような荒くれ者や無頼な人間が多かったのだ。

 どうしてこういう人たちが映画会社や撮影所にいたのか。とどのつまり、経営者がそもそもそうした人であったのです。
 松竹は違いますが、松竹が映画製作を始めた大正9年の前後には、それこそ大小の映画会社が濫立しており、その中にあった 河合映画 の場合は、オーナーの 河合徳三郎にしてからがソッチ系の人で、身体全身にクリカラモンモンが彫ってあったという侠客上がりの土建屋であった(男性器にも彫り物があった、というからまさに〝筋・金〟入りである)。親方がヤーさんなんだもん、その配下は幹分(子分)ってことでさぁね。

 当時はサイレントだから映画はチャッチャとすぐに出来て、公開すればガバッと儲かった時代ゆえ、それを見越して空き工場なんかを改造して即席の撮影所に設えて、キャメラとフィルムを買いそろえて映画製作に乗り出す。札束で顔をひっぱたいて他社のスターを手っ取り早く引き抜き、監督はまだしも、下っ端のスタッフなどは涙金程度の安い給料でこき使われ、安手な映画を量産しては上がった儲けで左うちわ・・・。映画会社さえ始めれば儲かる、という、今では夢のような時代が日本でもあったのです。

 東京や大阪・京都のみならず、アッチでもコッチでも映画が作られ公開されていた、という時期があったのです。それは1980年代、全国的に跳梁跋扈したビデオレンタル店みたいなもんで、それが次第に淘汰されていくのですが、とりあえずメジャー会社では日活松竹、ちょっと落ちて 天活(天然色活動写真株式会社) 、この天活が吸収されて 国活(国際活映株式会社、コレが後に 帝国キネマ になり、さらに 新興キネマ になる) になり、他にマキノ省三主宰の マキノ映画大活(大正活映。文豪・谷崎潤一郎が製作陣にいた) 、 河合映画東亜キネマ、この河合と東亜が合体して 大都映画 になったり、とそれはもう複雑怪奇な流れとなっていくわけですが、詳しくはこの種の映画史の本を当たってみて下さい。

 映画は当たる、映画をやれば儲かる、という爆発的な気運が日本全国に巻き起こり、そうなるとこういう儲け話に目がない小金、いや大金を持った資本家(投資家、素封家、企業経営者、起業家、そして興行の裏表に明るい任侠道を歩む方々)が我先に映画に群がる。 特に〝興行の裏表に明るい〟方々などは、堅気の縄張<シマ>に強引に割って入る腕力と悪知恵を持っていますから、資本家と組んで開業資金をこさえて、たちまち映画製作を始めてしまう。
 すると、出演者たる俳優やスターが集結する撮影スタジオには、彼らを見んものと有象無象のファンが群がる。それらの中からスターや女優に悪さをしたり、撮影所に潜り込んで撮影を妨害するなど騒動を起こす輩も出てくる。そうしたトラブルの防止とセキュリティ対策(用心棒)として、ヤクザの組関係者、平たく言うとチンピラが撮影所に入り浸るようになる。
 そういう人達が、映画好きになってスタッフとして本採用になる場合もあるから、自然、映画の撮影現場(いうなれば工事現場と同じ)というものは荒っぽくなり、使う者(監督)も使われる者(スタッフ)も蛮カラな感じになっていく。

 前回の【野村芳亭】のところでも、当時の侠風あふれる撮影所のことに触れましたが、今回の 島津保次郎 は監督自身が暴力オヤジである。ゆえにこうした当時の気風を再確認していただきたい。でないと、島津オヤジだけが、野蛮な暴力クソ野郎ということになってしまうので・・・(ま、実際に暴力クソオヤジなんですけどネ)。   〔続く〕



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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その3>

◆ 木樵のオヤジが映画の道へ

 この島津保次郎という人は、映画監督としては優秀で、名作をいくつも残しているのだが、とりわけ助監督にキツく当たり、殴る蹴るの横暴をはたらいたという点で有名な御仁である。気分次第で助監督を殴る、蹴るといった蛮行がひどかったといわれる。
 だから先の将軍さん(野村芳亭)のように人間的に好感のもてる部分はないと思うのだが……。まず彼の履歴を紹介しておこう。

 この人は 〝木樵だった映画監督〟 と言われ、それで有名だった人で 、映画界の名物男である。

 映画がまだ黎明のサイレントの頃に撮影所で働いていた人達というのは、もともと映画や芝居が好きなだけの暇人(要するに金持ちのボンボンか、粗暴なチンピラ)が多く、遊びで映画作りを手伝うちに使い走りの助監督になって監督になったり、通行人などの〝その他大勢〟を任されて大部屋俳優から脇役やある者はスターになったり、また撮影・録音の助手から一本立ちのスタッフになったり、というケースがままあった。

 例えば黒澤明監督のデビュー作 『姿三四郎』 (昭和18=1943年)で主人公を演じ一躍スターになった 藤田進 は、その初めは俳優ではなく当時人気の剣戟スター・嵐寛寿郎のプロダクションでマイクをセッティングする録音助手(棒の先につけたマイクで、台詞を喋る役者の声を録る、通称〝竿振り(竿持ち)〟)をしていたという具合に、映画界入りを希望する者は役職を問わずなんでもいいからとにかく撮影所に潜り込んだ。そうした有象無象が映画の現場にはいっぱいいた。
 そうやって潜り込んだ撮影所には、先にも書いたように映画会社の経営部門(部課長クラスから上)には大卒の社会人(堅気)はいたけれども、血の気の多い荒っぽい人達(素人ではあるが堅気とはいえないような)が多かった。だから撮影現場は、年季の浅い者は怒鳴られ、コキ使われ、時にはイジメにも遭い、時に危険物に変わるライトや大道具などが散乱しているわけだから、一種、殺伐とした土木工事の〝現場〟のような状態にもなる。心も体もタフじゃないとやりきれぬ。部署によっては、タフや精悍よりも、いっそ粗暴か野卑ぐらいでないと勤まらぬ場合もあった。

 では木樵だったという島津もそうしたやくざで野卑な肉体労働者だったのか、というとそうではない。そうではないが、木樵というか林業には関係しており、大木を切り倒したり、切り出した材木を運ぶといった重労働には就いていて、腕力はすさまじく強くタフな山出しの猛者だったことに間違いはない。 〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その4>

◆ オヤジと呼ぶしかない「おやじぃ」な外見

 それに加えて島津は外見(顔)が、もう、まったく、完全に「おやじ」「おっさん」という形容詞がピッタリな中年男のそれであった。実際、撮影所において愛憎半ばで呼ばれた仇名は 「オヤジ」 であり、この島津オヤジに助監督として足かけ11年も付き従ったのが、これまでも度々、その著書を引用してきた 吉村公三郎 である。吉村監督は昭和4年(1929)に蒲田撮影所に入所して、初めて島津と対面した時の模様を次のように書いている。

…ひげの濃いあから顔の額の禿げ上がった、猫背でガニ股、年齢は三十歳を過ぎたばかりのはずなのに年よりは老けて見える、小柄で見るからに精悍な男が、編み上げの半長靴をガタガタいわせ、ニッカボッカーにジャンパ姿で入ってきた。島津オヤジと呼ばれる島津保次郎監督である。
                 (『キネマの時代 監督修業物語』吉村公三郎、時事通信社)


 吉村公三郎が島津と初めて会ったこの時から11年後、つまり吉村が出世作 『暖流』 を出す昭和14年(1939)に島津は東宝に移籍するのだが、その東宝(砧撮影所)の文芸部に脚本部員として入社した 池部良 は島津と対面した時の印象をこう記している。

…見事に禿げている形のいい頭、太い眉毛と鼻下の、板海苔を二センチ四方に切って張りつけたような髭が映った。                       (『心残りは…』池部良、文藝春秋)

 禿げ頭といい、太い眉毛といい、四角い板海苔のような濃い髭といい、ガニ短(ガニ股で短足)といい、もう、明らかに若者が侮蔑して呼ぶ「おやじ」の典型的な外観を備えている。吉村監督が言うように、あだ名もまさに「オヤジ」「島津オヤジ」で、これは松竹でも東宝でもそう呼ばれた。
 しかも格好はニッカボッカーにジャンパー姿ときている。これは、野村芳亭のところでも書いたが、当時のハリウッド監督がしたお決まりのスタイルで、島津の場合はそれに編み上げ長靴がつくから、ちょいとお洒落な土木工事の現場監督といった感じだったろう。これで腕っ節が強くて、人を殴りつけるのだから、気の荒い土建屋のオヤジそのまんまである。
 島津の現場での演出ぶりを新藤兼人監督はこのように描写している。

 島津オヤジ(そう呼んで親しまれた)は…(略)…助監督をクソミソに叱りとばし、カメラマンのシリをおそいおそいとひっぱたき、俳優にはまずい役者はなんにもしないで立っておれと冗談をとばし、内心の緊張は片りんも見せず、楽々と島津演出を行った。(『小説・田中絹代』新藤兼人、読売新聞社)

〝助監督をクソミソに叱りとばした〟島津の人となりとは・・・次のアップを待て。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その5>

◆ 島津の質流れを牛原が請ける?! 

 助監督を叱り、時には殴りつけもした島津だが、彼は決してやさぐれた粗暴な男だったわけではない。なんと生まれは 金持ちのボンボン である。
 明治30年(1897)6月3日、神田駿河台の島津家の本宅で産声を上げた次男坊の保次郎は生粋の江戸っ子、家は日本橋に店を構える海産物問屋 「甲州屋」 を営む大商家(つまり金持ち)であった。父の 音次郎 はこの「甲州屋」以外に、三河島に下駄用材を扱う問屋まで持つというやり手の大商人で、島津はその三河島の店の手伝いをさせられていて、幼時から材木を切り出す山林にかり出されて荒っぽい労務についていた。それで「木樵から監督になった男」などと言われたのだが、音次郎は保次郎に三河島の店を継がせようと考えていた。
 ところが保次郎は当時、巷を席捲していたカツドウ(映画)に夢中になってしまう。銀座から浅草に出て、映画や芝居、寄席を見てまわって、酒やばくちに血道を上げた。なんたってお坊ちゃんだから常に懐は温ったかい、だから興味を持ったモノには片っ端から手を出した。いや、懐が温かくなくても、無理矢理、金を工面しては遊んだようで、同期の 牛原虚彦 監督がこう証言している。

 島津さんは大変な遊び手なんです。三河島に家がありながら湯島の芸者屋にいました。ですから、研究所に音次郎さんがおみえになって、「保が何もかも質へ入れてしまうんですが、私は湯島の近くの質屋の暖簾をくぐるわけにはいきません。誠にお願いしかねることですけれども、牛原さんひとつ質請けに行ってくれないか」とお金をお預かりしたこともあります。
               (牛原虚彦『INTERVIEW 映画の青春』キネマ旬報社)


 島津本人やその父に代わって質請けを任された牛原監督はいい迷惑であったが、映画界に入ってからもその遊び癖は直らなかった。
 上記の牛原のコメントに出てくる〝研究所〟というのは、映画俳優やスタッフを養成する学校のことで、これは大正9年(1920)に松竹が映画事業に乗り出した時に、新劇運動の旗手だった 小山内薫 を主宰者に据えて 「松竹俳優学校」 として発足したもので、途中から 「松竹キネマ研究所」 と名を変える。後に時代劇の大監督になる 伊藤大輔 や日活に移って名匠となる 村田実( やはり金持ちのボンボンで若い頃は手のつけられない我が儘なインテリだった)らが参加していたことで有名だが、牛原虚彦や島津もここに入った。松竹キネマ研究所では 『路上の霊魂』 (大正10=1921年・村田実監督)などの意欲作を出したが、どの作品も試行錯誤の域を出ない出来映えで、松竹の大谷社長は早々に見切りをつけてその年のうちにこの研究所を閉鎖してしまうのである。
 この〝研究所〟一派に替わって、大谷社長が引っぱってきたのが、京都の 野村芳亭 一派であることは、この「映画の災難」をお読みの方々には先刻ご承知のことでしょう(【野村芳亭、知られざる巨人】の3月19日付<その2>、3月23日付<その5>、再読のこと)。  〔続く〕


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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その6>

◆ 極度の学歴コンプレックス

 松竹キネマ研究所の閉鎖後、島津と牛原は同じ松竹の蒲田撮影所に入所して助監督となる。二人は蒲田時代はもちろん、この研究所時代からの同期である。

 その蒲田入所の前の話だが--島津の最終学歴は神田の 正則英語学校 卒業ということになっているが、その学業実態はお粗末であった(らしい)。まじめに学校などに通わず、学校の隣にあった映画館 「錦輝館」(*1) などに入り浸ってひたすら映画を見ていた。 だから英語の知識はさっぱりで、後に松竹蒲田に入社してから、「サウンドトラック」を〝サンド・トラック〟、「ダビング」を〝ダンピング〟と言い、「デカメロン」を〝でっかいメロン〟とこっ恥ずかしい誤読して周囲を苦笑させた。

 この苦笑を島津は最も嫌った。大店のドラ息子で見栄っ張りだから、彼の学歴コンプレックスはますます深まっていく。正則英語学校ですら満足に勉強もしなかった島津ゆえ、当然、大学には行ってはいないが、同期の 牛原虚彦 や後に同志的な結びつきを深める撮影所の所長・ 城戸四郎 東大(当時は帝大)出だし、入社の時に自分が口を利いてやった島津組の助監督・ 五所平之助渋谷実慶 大 と、周囲にいる大学出には卑屈なほど引け目を感じ妬んでいたようである。こういった大卒者が自分の組に助監督として付くと、最初は畏敬の念からか、わりと丁重に扱ったという。
 しかし撮影が進んでいくと、大学出ではない 吉村公三郎 ら同様、猛烈にシゴクようになる。大学出だから余計にシゴいたということはないようだが、島津の学歴コンプレックスは一向になくならなかった。助監督を叱責し、殴打する際にはおそらくその鬱屈が爆発し、殴る手や蹴る脚にいっそう力が加わったに違いない。

 そんな島津の劣等感が和らいだのは、城戸所長によって、新しい映画作りを打診された時であった。当時、城戸は 野村芳亭 監督の作る古くて陰気な新派大悲劇風の作品を嫌って、日常的な庶民生活をそのままフィルムに定着させて描こうと考え、島津や五所、小津安二郎たちに協力を求めた。それはちょうど震災後、蒲田撮影所の主だった芳亭将軍が京都へ行って留守だった頃である。その時、大学を出てないことを苦にする島津に向かって城戸はこういった。

「カツドウ屋に学問は要るが、学歴は要らない」
                 (『人物・松竹映画史 蒲田の時代』升本喜年、平凡社)


 この一言で島津は劣等感を克服できたというが、このあたりに江戸っ子らしい純情な一面(悪く言えば単純、単細胞な性格)が良く出ている。
 「デカメロン」を〝でっかいメロン〟と言った、などと聞くと、今のオバカタレント並みの頭脳かと思ってしまうが、そうバカにしたものではない。島津には 文才 があった。
 今の郵政省にあたる逓信省が郵便貯金奨励の宣伝映画を作ろうとしてシナリオを公募した時、島津の作はなんと二等に入選。この時、島津は映画界を志望して、父・音次郎の大反対に遭って難渋していた時期であったが、音次郎は保次郎が二等に入選した事を知って考えを改め、 コネ(*2) を使って息子を松竹キネマ研究所に入れた。その際、島津は松竹キネマ研究所の主宰者・ 小山内薫 に目をかけられる。小山内は島津の入選作を読んでその能力を認めていたというから、その文才はホンモノであった。   〔続く〕






*1 「神田の錦輝館」・・・当時の映画ファンを愛された神田の映画館は、神田淡路町のシネマ・パレス(洋画専門)などがあるが、錦輝館もそのひとつ。錦輝館については、神田学会のウェブサイト「KANDAアーカイブ」内の「神田資料室」の中で、神田に縁のある文芸評論家の文芸評論家の小川和佑さんと「神田三百年地図」の中西隆紀さんがこんな話をしている。

●「不思議その六  錦輝館は関東一の映画館」

中西 もう一つの貸席に錦輝館があります。その場所は東京電機大学五号館と神田税務署のちょうど中間。これは複数の地図で確認していますのでほぼ間違いありません。
小川 なぜ錦輝館が有名かというと、関東地方で初めて映画を上映したところだからです。明治三十年です。日本で初めてだったのは、神戸じゃないかな。
中西 ごく単純な景色を写しただけの無声映画で、エジソンが発明したヴァイタスコープという映写機で上映された。室内に白い幕を垂らして、そこへ写すわけ。でも映画はすぐに終わってしまって。
小川 私の記憶では、フィルムの始めと終わりをつないでしまって、何回も同じものをまわしていたとか。ナイアガラの滝とか、また蒸気機関車が走っているだけという画。神戸はフランスのキネマトグラフというものを使っていたはずですよ。日本では当時「活動写真」といっていましたね。
中西 そして明治四十年になると技術も進歩して、単なる記録から今日に見られるような劇映画が登場してきます。以後、いよいよ映画専門上映館の時代になっていくわけですね。
小川 だから、錦輝館が本来は貸席、演説会場であったということのほうがあまり知られていないようですよね。
中西 そうですね。錦輝館がさまざまな使われ方をしたのは、貸席料金をいただければ誰でもというところがあったからです。…(略)…
中西 そうですね。神田警察署は以前、「錦町署」その他に分散していたろ思います。錦町署と錦輝館では過去に大きな事件がありました。明治四十一年の「赤旗事件」です。これは、社会主義者の堺利彦、大杉栄、荒畑勝三(寒村)などが、山口孤剣の出獄歓迎パーティを錦輝館で行った時のこと。この寄り合いは琵琶の演奏や剣舞、講談などもあり、それが偽装なのかはたまた格調が高いのか、そこのところは分かりませんが、宴たけなわの頃三本の赤い旗が突然登場してくるわけです。それぞれ赤地に白く「革命」「無政府」「社会主義」って抜いてある。その旗をかかげて革命歌をうたいながら参加者は今の警察通りに出て歩き出すわけです。ここで旗を下げろ、渡すものかで小競り合いとなる。すでに二十人張り込んでいた警官はさらに三十人増員され、今の学士会館付近で大乱闘に発展します。この事件で堺利彦ら十五人が逮捕され、錦町署に拘引されます。この檻の中で暗に天皇を批評した落書きを壁に書くわけです。これがあの悲惨な大逆事件を呼び込んでしまう。
小川 戦争中などは、映画館に警察がいつもいてね。不適切な場面になると「中止ッ!」と怒鳴って上映を止めてしまうんだ。
 <以下、省略。>

 ★ 「KANDAアーカイブ」内「神田資料室」 http://www.kandagakkai.org ★

*2 「音次郎のコネ」・・・日本橋の大店だった島津の父・音次郎は顔が広く、いろんな分野の人間と交流があって、当時、松竹社員だった 高橋歳雄 とも顔なじみで、息子・保次郎の松竹入りについてはその高橋に仲介してもらって入社させたという。高橋歳雄は後に蒲田撮影所の次長となって城戸をサポートし、松竹京都撮影所(下加茂撮影所ではなく、太秦撮影所。松竹京都の太秦撮影所は元はマキノトーキーの撮影所)の所長、新興キネマの撮影所長などを歴任。


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巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その7>

◆ 毎度毎度、次回作を喧伝した〝蒲田のカウボーイ〟

 助監督から監督に昇進した島津は、徐々に才覚を発揮し、興行的にヒットし内容も充実した佳作を数多く発表していく。事実、 〝島津に駄作なし〟 とうたわれたほどである。

 監督としては優秀だが、その行動にはやや突飛なところがあった。
 助監督の頃は、和服に総桐の高級な下駄を突っかけて撮影所に通ったというが、それは実家が下駄屋なので別段おかしくはない。
 ところが時々、馬に乗って撮影所に颯爽と通勤して来た、という。これには撮影所のみんなが驚いた。シンプソン号と名付けた愛馬を駆って撮影所の門を得意満面でくぐった、と言われる。しかも頭にはテンガロンハットを被り、西部劇に出てくるカウボーイ姿で現れた、というから子供っぽいコスプレ趣味もいいとこである。この馬のシンプソン号という愛称は、当時、大人気だったハリウッド・スターのダグラス・フェアバンクスが乗っていた馬の名前をいただいたもので、
「俺はダグラス・フェアバンクスの生き写しだ!」
 と言って 〝ダグさん〟 と自称したというから、恐れ入る! 

 もっとも蒲田撮影所に馬でやって来たのは島津だけではない。驚くことに、島津の恩人でもある小山内薫も「キネマ研究所」時代に馬を駆って撮影所までやってきた、という! 野人の島津と馬は容易に結びつくが、〝新劇運動の父〟といわれたインテリの小山内薫と馬の取り合わせは、ちょっと異様な感じがする。

 また島津の突飛な癖に、新作を撮影している最中に同僚監督や松竹の上役、評論家などに向かって「今、撮っている作品はダメだ」「失敗作です」としきりにコキ下ろす、というのがある。そう言って卑下した後、決まって「次に撮るのは傑作ですから期待して下さい」と言って、次回作の喧伝、期待感を煽ることを言ってまわった、という。
 古参の映画人へのインタビューを集めた『INTERVIEW 映画の青春』(キネマ旬報社)の中に、映画評論家の岸松雄が行った島津と同期の牛原虚彦監督のインタビューが掲載されているが、そこで岸は、

 島津さんは撮っているうちから、「この次がすごいんだ。ぜひ見てくれ。これはじき終わるけど、その次がすごいんだ」と次から次へと傑作を創るんです。

 と語り、牛原監督はそれに答えて-

 島津さんが作った映画はどれも大傑作なんです。面白い方で、「牛原さん、見てよ。いいよ」と自分で言うんです。そういう無邪気な面を持っていた方でございます。

 と言っている。
 「この次がすごいんだ」と告知してまわるのが、無邪気かどうかは別にして、
「それじゃ、今、撮ってる作品はどうなんだ?」とか「まだ撮ってる最中なのに、何で失敗作って判るんだ?」
と心配になってくる。そして「次回作より、今撮ってる作品に身を入れろ!」とお節介な気分にもなってくるのだが、普段は傍若無人のくせに、急にへりくだって次回作を売り込む、というのはどういう心境からだろう。
 かつてジャズ野郎が中学生(昭和50年前後)の頃、森繁久彌が--
「かのチャールズ・チャップリンは『あなたの最高傑作は?』といった記者の質問に、
『ネクスト・ワン!』 、つまり『次回作だ』と答えました…」といった意味のことを自慢げに語るTVCMがありました。そしてかの黒澤明監督も同じ質問に「次回作です」と答えていたことを思い出すのですが、島津の言う「この次がすごいんだ」はそういう意味ではなさそうだ(そういう意味もあるかもしれないが)。

 島津の場合はおそらく、今撮っている作品はこの程度の出来だが、次はもっといい作品を作る、いやもっと凄いのを撮る、といった自己PRで、それはおそらく学歴コンプレックスの裏返し(か、もしくは製作中の作品が傑作に仕上がった時に備えての〝謙遜〟=自慢の前フリ)かもしれない。要するに島津独特の見栄である。
先のコメントに続けて、牛原監督はこうも述べている。

 島津さんと私は同じ歳でしたが、そういう点では私などは子どもみたいなものでございました。競馬もですが、そういう才能も豊かな人だったのです。持って生まれた才能というか才気というか、いろいろな仕事をされた方ですね。  (前掲書)

 芝居や映画、芸事が好きで、遊び好き、そしてグルメで、酒好きときてるから市井の流行廃りにめざとく、つまり時代感覚というものに意外に鋭敏であった。牛原監督の言うように、持って生まれた才能は映画作りだけではなく、いろんなモノに手を出し、発揮された。
 中でも一番愛したのは 〝馬〟〝女〟 であった。   〔続く〕


★☆★ お楽しみいただきました 「島津保次郎 オヤジの蛮行」 は、今後、『ラストシーンの余韻』 と同じく電子書籍化、または紙の書籍化を予定していますので、<その8> 以降のコラムを非公開とさせていただきます。また同時期に連載していた「Coffee Break 叱られやすいヤツ」「~ 松竹ディレクターシステム、その牙城の末路」「日本の映画監督 戦時下の監督たち <その1~6>」もあわせて非公開といたします。ご了承ください ★☆★


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新作プレビュー  スタローン会心の新作 『バレット』

◆ スタさんとヒルさんのご機嫌バイオレンス超特急!

 〝スタさん〟といえば、ジャズ野郎と同世代の洋画ファンならば、1970年代のTVシリーズ『スタスキー&ハッチ』の刑事スタスキーの渾名(テレビ放映時の日本語版での渾名)を思い出すハズですが、そのスタさんを演じていたのはポール・マイケル・グレイザーで、このTVシリーズをベン・スティラー&オーウェン・ウィルソン主演でリメイクした劇場版(2004)では、ハッチ役のデビッド・ソウル(大ヒット曲『やすらぎの季節』は名曲)とともにスタさんも最後にチラっと姿を見せていました・・・などとコッチのスタさんの話ではないのです。今もアクションで現役バリバリの〝スタさん〟こと シルベスター・スタローン(シルベスターの スタさん )の新作の話である。

 この 『バレット』 は春に公開された『エクスペンダブルス2』(2012)に引き続いての、スタさん主演のスーパー・アクションでもって、老いて険が立ってきて、どことなく人相が険悪な感じ(暗~い)になってきたスタさんが、イマドキのヤング・アクション・スターばりにキレたアクションを存分に見せてます(シュワちゃんは〝ちゃん〟でいいが、スタローンは〝スタちゃん〟にはならない)。

 ストーリーを簡単に紹介しとくと、海兵隊員上がりの殺し屋ジミー(スタさん)は元警官の悪党を仕留めた後、罠に嵌められ相棒を殺され、自身も凶悪&巧緻な凄腕のヒットマン、キーガン(ジェイソン・モモア)に襲われる。元警官の悪事を追及する、正義派の刑事テイラー(コリアン俳優のサン・カン)はジミーに接近し協力を要請するが断られ、逆に謎の一味に命を救われた所をジミーに助けられるハメに。殺し屋と刑事、立場の違う二人は対立しながらも、事件の核心に迫っていく……。

 キレたアクションつったって、監督が 『ゲッタウェイ』 (1972)のシナリオを書いて サム・ペキンパー 監督(流血の美学)とつるんでた、あの ウォルター・ヒル (ウォルターの ヒルさん )だからして、「派手な見せ場をブッ込みまくるイマドキなアクション演出はやらんだろう」「クールに決めるハズ」と思っていたら、コレがヤルのですな。いや、ヤルなんてもんじゃない! もうメチャメチャやってまっせぇ、てな感じ。
 今、最先端のアクション映画を手がけている、ヒルさんにすれば息子か孫みたいな、若い世代の監督よりもさらにハードでスピーディな・・・もっと言えば劇画タッチの撮り方(編集処理)をしておる。これには従来からのウォルター・ヒル・マニア(つまりジャズ野郎世代)は、ちょっと「ムムム」と考えざるを得ません。とにかく描写も展開もテキパキ速くて、どこからどこまでスピーディ(とはいえ、会話シーンなんかはちゃんと撮ってますが)。場面転換の際の劇画アニメ的な趣向などは、どう考えてよいものか。






 実はヒルさん、この作品 まで監督業をしばらくお休みしてました(2002年の 『デッドロック』 以来)。ヒルさんは脚本家上がりだから、昨年公開された〝エイリアン・ビギニング〟ともいうべき『プロメテウス』(2012)などの一連の『エイリアン』シリーズでは製作を担当していて、よって監督業が無の間も映画界と縁は切れてなかった。
 しかし本業の監督業、アクション監督としての仕事は、今回のスタさんとの初コラボ作が久しぶりのメガホン。しかも 70歳 を超えての活劇でやんす。まー、それを思うとアクション・シーンは鈍ってませんな、キレてる、キレまくってる。アクション捌きの手腕は錆び付いてないどころか、むしろ若返っている。だから、そうしたアクションのキレと劇画調の映像処理を、我々のような旧来のヒル・マニアがどう受け取るかでしょうね。コレは人それぞれ。

「人それぞれ、なんて逃げやがって・・・オマエはどう思ってんだい!?」
なんて問い詰められると、花粉症でダウン気味のジャズめもタジタジとなりますが、やっぱり 『ロング・ライダーズ』 (1980)みたいなヒル作品が好きなんでね(コレって、いわゆるジェシー・ジェームズを扱った西部劇のピークでしょ)、なんと申し上げてよいものやら・・・(と言えば、勘の良い人は判ってくれるはず)。

 でも、〝やっぱりヒルさんやなあ〟と思ったのはこの『バレット』の中に、
裸の女(いろっぺー姐チャン)、
● 目を背けたくなるような バイオレンス (血まみれの銃撃戦&肉弾相打つ殴り合い)、
(カー・アクション)
 をちゃんと出してくる所。そう、自分の好きなモンしか出してこない。ここらあたりに70年代アクションの衣鉢を継いだウォルター・ヒルの心意気が、男臭さがよく出ていて、嬉しゅうございました。

 あ、結局、ヒルさんの話ばっかで、主演のスタさんの話はしませんでしたね。まぁ、いつものスタさんです(笑)。でもなんだか、いつもの彼とは違うような、何か違和感が・・・と思ったら、トーハツ(頭髪)ですかな。アレ、こんなヘアスタイルだっけ? しかも刺青入れてるから、まるでトーエイ(東映)任侠映画の鶴田浩二に見えちまう。
 しかしプレスシートにある【DIRECTOR'S INTERVIEW(監督インタビュー)】に
「…僕〔ヒル監督〕から頼んだのは、髪を切ってもらうこと。…(略)…」(※)
 とあるので、あれはヒル監督のリクエストなんですね。そうか、ヅラじゃないのか、とちょっと安心・・・(?)。

  ■ 6月1日より全国ロードショー 提供:カルチュア・パブリッシャーズ 配給:松竹 ■

『バレット』マスコミ用プレスシート内、「DIRECTOR'S INTERVIEW」(TEXT by 宇野維正)から引用させていただきました。


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映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
電子書籍版はアマゾン Kindleストア 及び 楽天ブックスから、紙の書籍版は製本直送.comより発売。直近の各コラムの末尾にある発売告知から販売サイトに遷移、またはポップアップ画面が出ますので、そこで購入できます。 

< プロフィール >
血液型:A型
趣味:サイクリング&ウォーキング&クッキング、デジカメでの写真・動画撮影
好きな場所:札幌ドーム、中島公園、中央図書館、豊平川
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