日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その1>

 島津保次郎のことを足かけ5ヵ月も書いてきたので、1週間ほどお休みをいただきました。次にアップする島津と同じ松竹の監督・ 清水宏 のコラムはすでにスタンバイ完了なのですが、あんまり監督の特集ばかりでは曲もないので、単体の連載ではなく、軽~い読み物でお茶を濁す所存でございます。といって、またぞろ監督の人物誌なのですが、それはもうジャズ野郎が個別の作品をとうとうと語るよりも、無声~トーキー~黄金時代の監督達の動向を眺めるのが好きなので、致し方ありません。
 趣味を同じうする、ネットユーザーの紳士淑女の方々、またしばらくお付き合いください。

 まずは、またも島津繋がりで、その周辺の人間関係をば・・・。

                   *****

 東宝で島津作品のシナリオを書いた 山形雄策 は、助監督時代の 吉村公三郎 に社会主義思想教育を施し、プロレタリア運動の意義を教えた、美術監督・ 金須孝 の親戚である。
 山形は、この実の従兄であり、思想上(コミュニズム)の〝同志〟でもある金須孝によって島津を紹介されて、この世界(映画界)に入っていたことは、先の 【巨匠のムチャブリ-島津保次郎 オヤジの蛮行 <その45>(8月9日付)】 で述べました。

 この時期、コミュニスト映画人の動勢に少なからず影響を与えているのが、この金須孝 (<その57>8月28日付、参照) なのですが、この人の身近な知り合いに、やはりというべきか、あの 山本薩夫 がいた。
 
薩夫が初めて助監督として、入社した松竹で、金須と親しくなったのだが、おまけに、薩夫の兄さんが学んだ美術学校の建築科で、金須は二年先輩だった因縁も〔山本薩夫の自伝に〕書いてある。
(『われら青春時代の仲間たち』山形雄策、ふるさときゃらばん)※〔〕内、ジャズ野郎註。


 兄の友人が金須孝だったというのは、戦後、 〝赤いセシル・B・デミル〟 と呼ばれたアンチ体制派の大監督・山本薩夫らしい。というか、もう、そうなることが〝必然〟と思われるような人間関係ではある。
 そして、薩夫もやはり映画好きであり、長じて映画界を目指すのだが、これがまた 今井正 と全く同じで現役の監督に直接面会しに行って、「撮影所に入れて下さい」と剛胆にも直訴したもの。

 学生だった薩夫が会いに行った監督とは、なんとあの 伊藤大輔 であった!     〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


スポンサーサイト

日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その2>

 山本薩夫 が会いに行った時、伊藤大輔 は日活京都のステージで〝丹下左膳〔たんげ・さぜん〕〟を撮っていた。

 今もその名台詞--
            〝しぇいは丹下、名はしゃぜん! 〔姓は丹下、名は左膳〕〟
            〝おめでたいぞよ、丹下左膳〟

 が有名な、隻眼隻腕〔片眼片腕〕の怪剣士・丹下左膳が主人公の 『続大岡政断 魔像解決篇』(昭和6=1931年) の撮影たけなわであったが、この 林不忘 原作による〝丹下左膳〟シリーズは、林自身が他の新聞に連載していた自作(小説)とこんがらがって、筋書きがワヤな事になってしまっていて、最後まで活躍するはずの登場人物を殺してしまうなど、てんやわんやの状態であった(〝不忘(忘れない)〟ってペンネームの割に、自分の小説の筋をアレコレ間違えていたようで・・・。因みにこの作家の本名は長谷川海太郎で、林不忘の他に牧逸馬、谷譲治と3つの筆名を操った)。

 そんな修羅場に、〝Y〟少年は現れた。

 〔京都の〕多藪町で、高木永二君(故人)扮するところの村井長庵が、大河内伝次郎君の主人公に追われてその蛇塚へ逃げ込む場面。
 そこへ作者〔林不忘〕から前記の電話〔筋書きを間違えた、との一報〕が取りつがれ、善後策のため、いったん撮影を中止して引き揚げかかると、それまで熱心に見学していた豊頬の一少年が歩み寄って来て一通の手紙を差し出した。
「中学は出たのだが、大学卒業までの過程を、もどろかしがり、いきなり撮影の現場へ飛び込んで修行したいという監督志望なのです。よろしく御指導にあずかりたい」旨の、草刈少佐の由縁による紹介状だった。

 私は自分が正規の大学の過程を修めていない苦渋な経歴と、そうしてその結果の現状と、さらに、将来映画監督たらんと志す者の教養の基礎たるべき必須条件とを縷説して彼の翻意をうながした。

 Y〔少年〕は渋々ながら私の説得に服したが、なお最後にいわく、
「それでは、受験しますが、もしも進学できないようでしたら、中卒のままでも助手さんにしてやるって約束してくださいますネ?」。

 そのYが、大学を出たとたん、松竹が助監督の募集を発表し、応募資格として大学または専門学校卒業生に限るとした。時勢とともに成長した「映画」自体がそれを要請したのである。
 かくてYは首尾良く松竹大船撮影所へ入ることが出来た-“薩ッちゃん”山本薩夫君である。
  (『時代映画の詩と真実』伊藤大輔/著、加藤泰/編、キネマ旬報社) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 〝それでは、受験しますが、もしも進学できないようでしたら、中卒のままでも〟と山本薩夫が語っているのは、この時、山本は中学生(旧制中学、現在の高校)で、高校(旧制高校、現在の大学)に入学するよりも映画界に入りたい、として伊藤監督を訪ねたのであった。
 伊藤大輔は、上記にあるように、「大学を出てからにしなさい」と言って、思いつめた山本少年を諭したが、その5年後、再び、〝薩ッちゃん〟から映画界入りについて相談を受けることになる。    〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その3>

 伊藤大輔に「大学へ行け」と言われた中学生の 山本薩夫 は、第一早稲田高等学院に進学し、昭和7年(1932)には早稲田大学の文学部に入る。伊藤の言いつけに従ったのである。
 
 山本薩夫が高校・大学で演劇(新劇)に熱中し、従って左翼的な思想を・・・というような説明は、山本監督が 『戦争と人間』三部作(昭和45~48=1970~73年・日活) とか 『あゝ野麦峠』(昭和54=1979年・新日本映画社、コレの封切は、ジャズ野郎の高1時代です)などの社会派作品を手がけたコミュニストの大監督である、という事実を知っていれば、その必要もないのだけれど、今の映画ファンに山薩ヤマサツったって何の事やら判らない。

 1950年代から1970年代にかけて、というか日本の高度成長期において、この種の、社会を告発する問題作や反体制的な趣旨を持った大作映画といえばヤマサツさんの十八番であり、ジャズ野郎が映画を見始めた時も、 『不毛地帯』(昭和51=1976年・芸苑社) は時の大スキャンダル「ロッキード事件」を大胆に話に組み込んで、原作者の 山崎豊子 から断交を食らい(それまでは 『白い巨塔』〔昭和41=1966年・大映〕 とか 『華麗なる一族』〔昭和49=1974年・芸苑社〕 などの山崎原作をヤマサツに手がけてもらって、仲が良かった)、 『皇帝のいない八月』(昭和53=1978年・松竹 、ジャズ野郎が中3の時)自衛隊のクーデターを扱ったりして、とにかくスケールの大きい問題作を発表していました(山崎豊子といえば、先日、お亡くなりになりましたね。謹んでご冥福をば・・・)。

 その左翼思想の萌芽はこの高校・大学時代の演劇活動にあって、山薩さんは高校生の分際で、新協劇団(左翼的な芝居を上演して解散させられた築地小劇場の団員達が再結成した新劇団体)で、役者をやったりしていた。

 そんなヤマサツゆえに、早大に入ってもおとなしく学生生活を送るはずもなく、時の全体主義的な風潮に反発して、大学構内で 〝アート・オリンピアード〟 という映画&演劇の公演を催し、それが当局に睨まれ、公演当日の逮捕こそ免れたものの、結局は逮捕されて、早稲田はそのまま退学・・・てな事になってしまう。
 この時、ヤマサツと同期で、一緒に活動し、アート・オリンピアードにも参加していたのが 谷口千吉 で、彼も後に東宝の監督になる(ヤマサツは松竹に入って 成瀬巳喜男 の助監督につき、その成瀬が東宝に移籍したため自身も東宝に移り、そこで谷口と再会するのだが、それはまだ後の話)。

 ・・・(略)・・・ 谷口千吉は、警視庁に親戚がいて、結局は逃げてしまった。
                   (『山本薩夫 私の映画人生』山本薩夫、新日本出版社)


 ということで谷口千吉はこの時、ヤマサツと違って逮捕されていない。持つべきモノは、警察関係の係累である。

 それはともかく、警察に捕まり、戸塚署に2週間拘置されて帰宅した薩夫は、父母や家族にこってりとしぼられ、別な大学に入り直すか、職に就くか、のどちらかを選べと迫られる。そこで薩夫は、映画の道に入りたい、とまたぞろ 伊藤大輔 のもとを訪れるのであった。    〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その4>

 山本青年から2度目の相談を受けた時(昭和7年秋)、伊藤大輔 は、同じ監督の内田吐夢や田坂具隆らとともに日活を辞めて 「新映画社」 という会社を作って、京都から東京に出てきていた(*1) 。伊藤の身辺は流動的であり、そんな時に「映画界に入れて下さい」と 山本薩夫 はやってきたのである。

「伊藤さんのところで、何とか映画の勉強をさせてください」
 しかし、私は伊藤さんに、やんわりと断られてしまった。映画の勉強をするなら、松竹か日活に入って勉強したほうがいい。自分のところは、いつつぶれるかわからない--というのである。それでは松竹か日活へ紹介してくれるのかというと、それもしてくれない。私はそのとき、ふっと「冷たいな」と思った。
                  (『山本薩夫 私の映画人生』山本薩夫、新日本出版社)


 「冷たい」ことは冷たかったかもしれないが、自分や「新映画社」の帰趨が定まらない状況で、前途ある青年を無責任に映画会社などに紹介することはできない、とする伊藤大輔の気持ちはよくわかる。 『忠治旅日記』三部作 が大ヒットし、〝時代劇監督〟としての名声が確立し、売れっ子監督になった頃、伊藤は当時の人気スター・ 片岡千恵蔵 から自分のプロダクション(千恵プロ)に来てくれ、と誘われるが、作品の撮影に入っているからそれは出来ないと拒否。その代わり、自分のところ(伊藤映画研究所)で助監督をしていた 稲垣浩 と脚本を書き始めていた 伊丹万作 の二人を、伊藤は千恵プロに推薦し、入社させている。
 この時、伊藤はこの二人が千恵蔵の期待に応える作品を作ることが出来なければ、腹を切って詫びるしかない、と思いつめたほどの責任感の強い男である。
 だから山本薩夫にも、この時、コネで業界に入れてやる、などということは出来なかったのだ。

 結局、山本薩夫は、大学を辞めた翌年の昭和8年(1933)4月に行われた 松竹の助監督試験 に受かって、その年の8月に蒲田撮影所に入所する。先に引用した伊藤の文では、

 そのYが、大学を出たとたん、松竹が助監督の募集を発表し、…(略)…かくてYは首尾良く松竹大船撮影所へ入ることが出来た…(略)…。
             (『時代映画の詩と真実』伊藤大輔/著、加藤泰/編、キネマ旬報社)


という具合に、大学を出たとたん松竹に入った、となっているのだが、山本薩夫が早稲田に在学していたのはたった1年。もちろん中退である。    〔続く〕






※1「新映画社」 この映画製作プロダクションは、日活を飛び出した監督の伊藤大輔、内田吐夢、村田実、田坂具隆、俳優の島耕二、小杉勇、事務方の芦田勝(蘆田勝との表記もある)の7人が発起人となって立ち上げたもので、そのきっかけは昭和7年(1932)に日活京都撮影所で起こったストライキである。経営が逼迫してきた日活が人員整理に踏み切り、撮影所の従業員200人を解雇する、と発表したことで、従業員側が抗議のストライキに突入。監督の伊藤や内田らは組合側(従業員側)の代表となって会社側と数度の折衝を繰り返したのだが、会社側の態度は硬く、なかなか妥協をみない。
 そこで伊藤達は交渉では会社に勝てないと悟り、交渉失敗の責任を取るために日活を辞める。辞めるだけでなく、即座に「新映画社」というプロダクションを立ち上げて、製作開始間もない東京・PCL撮影所(後の東宝)に走る。
 この2つの行動を同時に、しかも従業員には内緒で行ったため、伊藤ら7人は争議を放り出して脱走した〝裏切り者〟であると撮影所に残った者達に思われた。これを「七人組事件」という。
 7人の一人、村田実と親しかった森岩雄は、この時、PCLでの映画製作を仲介するように頼まれた。七人組が頼ってきた時、PCLでは提携しようとしていた日活に逃げられ、せっかく作った白亜のサウンド・ステージ(トーキー用)も使い手がなく、困っていた。森は自著で当時のことをこんな風に書いている。

 そこで困ったのはP・C・Lで、ステージまで作り上げて相手の日活に逃げられてしまっては、実写やニュースの仕事だけではとても商売にも何にもならなくなった。
 ところが、その日活の京都撮影所に争議が起り、現代劇部の有力な面々が大挙して辞職する騒ぎが起った。当時〝七人組〟といわれた連中で、村田実・伊藤大輔・田坂具隆・内田吐夢の監督に、小杉勇・島耕二の俳優、それに事務の芦田勝であった。しかも脱退したのはこの七人ばかりでなく、技術その他の大勢の人々がいた。かれらは打ち揃って永年住み馴れた京都を棄てて東京に大挙上京して来た。たしか芝口あたりの旅館が本拠になっていたと思う。
 この京都の騒動については、私は何も知らなかったが、ある日、村田実が訪ねて来て委細の話をし、P・C・Lの植村泰二〔PCL社長〕ともある程度の話がまとまっていたが、……なんとか助力してくれないかということであった。…(略)…。

 七人組は私を同人に加えて、代表者となって交渉してくれと頼まれたが、私は京都脱退組には何の関係もなく、まったく村田さんの依頼と友人たちのために仲介の労は惜しまないが、同人になることは断り…(略)…。
 結局、P・C・L側は…(略)…永久のこととせず、とりあえず一作品だけ七人組に製作する経済的援助をしようということになった。但し、出資した金の責任は森岩雄、君が背負ってくれということであった。これには私も弱ったが、行きがかり上しようがなく承知して、白亜の殿堂たるステージを使って、七人組は「昭和新撰組」というメロドラマを作った。商売は引きうける会社がないので、中央映画社でやることになり、S・Pチェ-ン(松竹・パラマウント・チェーン)に封切ることもきめた。
 「昭和新選組」は昭和七年十二月、帝国劇場で封切、全国に配給されたが、成績は必ずしてもよくはなかった。…(略)…。

 …(略)…七人組はその後、請負の形で藤原義江主演の「叫ぶ亜細亜」を作った後、かれらの作った〝新映画社〟は解体し、ちりぢりになってしまった。
                 (『私の藝界遍歴』森岩雄、青蛙房) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 結局、伊藤らの「新映画社」は1年ももたず解散となり、伊藤大輔、内田吐夢、田坂具隆らはおん出た日活京都に何事もなかったかのように復帰していくのである(!)。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その5>

 山本薩夫の映画界入りを少々細かく書きすぎましたが、要するに伊藤大輔は、「映画が好きだから監督になりたい!」などといったカツドウ志願の若者に対しては「大学へ行って勉強をしろ」と言って諭した。

 伊藤大輔は、父親が亡くなって家計が苦しくなり、学業を断念せざるを得なかったので、「大学だけは出なさい」と言ったのである。上の学校に行って勉強できる余裕があるのなら、まず勉学を収めてから映画界に入るように・・・と。
 松竹の俳優学校からキネマ研究所を経て、蒲田撮影所の脚本部に入った伊藤は、脚本を書きながら、早稲田や明治大学に潜り込んで聴講生として独学した。大学生として正式に授業を受けたかった、のはもちろんのことである。死ぬほど勉強したかった伊藤にとってみれば、「大学を出なさい」というのは必然であった。

 それはそうと--この時、何故、山本薩夫のような一介の無名な学生が、傾向映画のブームの旗手として売れに売れていた映画監督の伊藤にどうして会えたのであろうか?

 一番最初に山本が伊藤に会いに行った時(旧制中学時代)は、山本の次兄の紹介で会う事が出来た。この次兄は、後に大林組に入社して建築設計部に所属するエリートで、美校(今の東京芸大)の建築科出身であり、あの金須孝の二年先輩にあたる。

 加えて、山本薩夫は一時、四国は松山にいた事があり、伊藤大輔や伊藤の親友である伊丹万作の母校・松山中学に学んでいる。つまりヤマサツ(山本薩夫の渾名)は、伊藤・伊丹の可愛い後輩であり、幼い頃、薩夫はその伊丹に絵を習っていた、という繋がりもあった(当然、山本薩夫は、伊丹万作にも映画界入りの相談をしている)。

 だから山本薩夫と伊藤大輔は、いわば〝同郷者〟〝先輩・後輩〟という繋がりがあり、アカの金須とも接点がある。
 アカというならば伊藤大輔もアカであって、彼は傾向映画(体制を批判するメッセージを持ち込んだ社会主義プロパガンダ映画)の旗手だった事からも解るように、山本薩夫以上のバリッバリの主義者(コミュニスト)である。

 つまり思想的には、山本薩夫と伊藤大輔はまさに〝同志〟なのだ--類は友を呼ぶ、のである。  〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その6>

 だから山本薩夫は、先に触れた金須孝やその左翼の〝同志〟のネットワークを通じて、現役バリバリの監督である伊藤大輔に会うことができたもの、と思われるが、昭和の初期に映画界に入ってくる若者には山本のような学生運動家くずれ、もしくはそのやり過ぎで警察に目を付けられたり、検挙されたりした、曰く付きの者が結構いた。
 前にも触れたが、映画界とヤクザは、その当初からきっても切れない関係であり、ゆえに撮影所にはスネに傷持つ右翼もうようよいた。給料の未払いが続くと、撮影所ではきまって従業員がストライキを打つが、そうした時、左翼のカツドウヤがその先陣を切って主導し、それに右翼のヤクザ連中がくってかかって、力づくで争議は終結をみる。流血の惨事が呈されて、文字通り、撮影所のストライキでは、血の雨が降るわけだが、そのことはまたいずれ--。

 話を伊藤大輔から、その親友の 伊丹万作 (伊丹十三の父)に変えます。

 伊丹万作の許に、山本薩夫と同じように「映画界に入りたい」と訪れた人に、戦後、大映の屋台骨を支えた名監督・ 森一生〔もり・かずお〕 がいる。やはり森一生も伊丹、伊藤大輔、山本薩夫同様、幼少時に松山に暮らした事があり、これまた同じ松山高校(旧制・松山中学)に通っていたこともあって、伝手を頼って、伊丹に合う段取りを付けた。伊丹に映画界入りを頼もうとしたのは、〝同郷のよしみ〟というよりも--

森 伊丹万作がぼくは大好きでした。…(略)…。そこで見に行ったのが『逃げ行く小伝次』(一九三○)です。これのタッチが、まったく好きになりましてね。伊丹さんの初期のものです。
                 (『森一生映画旅』森一生/山田宏一・山根貞男、ワイズ出版)


 そう、森一生が伊丹に会いに行ったのは、何より彼の映画が好きだったからであった。 その頃、伊丹は 片岡千恵蔵 が主宰する 千恵プロ で片岡主演の時代劇の脚本を書き、監督にも進出していた。千恵プロの撮影所は、先日、台風18号の洪水被害に見舞われた嵐山がほど近い京都・嵯峨野にあった。

〔森〕 ええ、嵯峨野です。いまはもう跡形もないですけどね。
 そこへ行って、「伊丹監督はいらっしゃいますか」ってたずねたら、…(略)…。
紹介状を読んでくれたのはいいんですが、
「きょうは試写があるから具合が悪い」と。試写が日活のほうであるわけですね。
「いまから日活へ行くんだ」と言うんですね。
 ぼくが、大学やめるつもりでどっかへ入りたいと言うたら、
「ぜったい大学は出ろ」って。「大学だけは出ろ」。そのひとことでした。
 で、「ぼくは試写があるから」と。ずっと一緒に歩いて日活の前まで行ったけど、なにも言わずです。して、「じゃあ、さようなら」(笑)。

 それが大学一年のときで、親父が死んだあとですから。もうおふくろと妹だけですからね。だから、左翼のほうも全然手を切っちゃったし、映画へでも入ろうかと……。それで伊丹さんに会いに行ったんですね。       (前掲書)


 伊丹は、映画志望の森青年に、邪険というほどではないが、素っ気ない態度で応対したようだ。伊丹が、伊藤大輔同様、「大学だけは出ろ」と言っているところに、ご注目いただきたい。  〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >






日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その7>

 伊藤大輔伊丹万作--この二人、伊藤が松竹キネマ研究所に入って脚本を書いて売れっ子になる以前には、下宿の同じ部屋で共同生活をし、貧しい貧しい共同生活を過ごした。二人は同郷人(愛媛県松山出身)であり、同級生であり、〝戦友〟であった。
 共同で住んでいた下宿での、貧しい貧しい暮らしとは、例えばこんな風である--

 その火鉢、下のおばさん〔下宿の大家〕に言うて、浴衣や反物一反分を包む時の押さえのボール紙を貰ってきてね、火鉢の上に載せて、その上で原稿書いた言うてましたよ。

 机がないから自分の仕事が終わると、次は万作が絵を描いていた。寒い冬、万作も一緒に、夜店で売る絵を描いてね、二人とも絵描きを志してたんです。万作は身体がしっかりしているから、人力車夫になったこともあったが、俺 〔伊藤〕 はそんなことは出来ないしね、一生懸命、先生 〔小山内薫〕 の所の筆耕だとかばかりしてた。

 火なんか一遍もないし、お金が入ったときは、何か食べることが先だったしね。

 何にも食べ物も無いような時は、黙って寝ようかと下に降りるんだそうです。暫くすると、黙って上がってくる。二人交代で、何しに下に降りたか、それわかってる、水飲みに行くんだ、何にも食べるものなくってね。

 今に天下取ろうな言うて寝た、言うてました。

 その時は水道の水もうまかったよ、言うてました。

  ([回想] 伊藤朝子〔伊藤大輔夫人〕『映画読本 伊藤大輔』〔フィルムアート社〕所収)
                                 ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 絵や原稿を書く机がないから、火鉢の上にボール紙を敷いて、その上で書き物をした。しかも伊丹が絵を描く時は伊藤は休み、伊藤が脚本を書く時は伊丹が休む、といった感じで代わりばんこに使って、食べるものがない時は、水道水を飲んで紛らわせた、という。

 〝今に天下撮ろうな、言うて寝た〟なんてあたりにくると、いつもジャズ野郎は涙が滲んでしまうのですが、そんな風に苦節を共にした二人だからこそ、そろって〝大学だけは出なさい〟と言ったのでしょう・・・グッスン。    〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >




日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その8>

 再び、 森一生 の話に戻ります--森は伊丹万作にすげなくされたが、やはり映画界入りの夢止みがたく、手紙を書いた。すると伊丹から返事が来た。

〔森〕そうしたら、しばらくして、伊丹さんから手紙が来たんですよ。見たところ、きみは非常におとなしそうだ、と。人が良さそうな、おとなしそうな人間である、と。そういう人間はいまの映画界じゃ暮らしていけん、だから、ぼくはきみを推薦せん、ちゅうわけですよ(笑)。…(略)…。

 〝ぼくはきみを推薦せん〟とは、これまたすげない返事だが、実は山本薩夫が伊丹に相談した時も、伊丹は山本に映画界入りを勧めなかった、というから、誰に対してもそういう態度だったようだ。山本薩夫は伊藤大輔にも伊丹万作にも、映画界入りの労を執ってもらえなかったことになる。

 それは伊藤・伊丹とも、映画界という職場が、自分が入ってみて、その苦労や辛さが判り、シンドさが身に染みていたからこそ、安易に推薦しなかったのではないか--逆説的な優しさである。森一生にもその伊丹の真意は通じていた。

-その手紙〔伊丹からの返事〕を読んで、森さんはどう思われました。
〔森〕 ははあ、いいこと言う人だな、と(笑)。まあ、すげない人ですけど、あったかい人ですなあ、あの人は。初対面のときからなにから、なんともいえん味のある人ですよ、人間的には。いや、こう言われたら、よけいに映画をやる気になりまして(笑)。…(略)。
 (以上、『森一生映画旅』森一生/山田宏一・山根貞男、ワイズ出版) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 〝よけいに映画をやる気〟になってしまった森一生は、日活重役だった友人の叔父さんに仲介してもらい、めでたく 日活 (戦時中の映画会社3社統合前の日活)に入社する。

 森一生は、巨匠級の名作も作る大監督でありながら、プログラム・ピクチュアもどんどん作ってしまう、手練れの職人監督然としたフットワークの軽さが身上である。もちろん、その作品にはお堅い思想や大層な主義・主張などは出てこないが、やはり学生時代には左翼に傾斜していたことが、先の〝だから、左翼のほうも全然手を切っちゃったし、映画へでも入ろうかと……〟というコメントから伺えるわけである。     〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


日本の映画監督  監督志願者の〝傾向と対策〟

◆ アカい若者は撮影所を目指す <その9 最終回>

 当時、大学などに進む多感な学生はみなマルクス・ボーイ(左翼)と言っても過言ではない、そういう時代であった。そしてそうした自由と理想を求める若者達は、正業を嫌い、または正業に就けず、映画界に飛び込んできた。労働環境の劣悪さに加えて、安月給、いや欠配(月給の未払い)も普通であったから、映画界ではストライキもよく起こったものだが、それでも当時の撮影所にはこうした若いエネルギーを内懐に包含する余裕と自由と、そしていい加減さ(チェック体勢の不備)があった。

 だから、この大正から昭和初期にかけて、左傾化したアカい若者達はこぞって映画界を目指した。そんなマルクス・ボーイならぬマルクス映画人達は、戦前は業績の不振を従業員の解雇でしのごうとする映画会社の〝暴挙〟に対してストライキを起こしたり、団体交渉で会社に迫ったりと活躍し、戦後は日本の三大労働争議に数えられる 東宝大争議 を引き起こす(日本の映画界に起こった争議のクライマックス)。
 しかし、その東宝争議の(労使ともに)敗北と、GHQによる引き締め、 レッドパージ(コミュニスト追放) によって、その勢いは下火となる。東宝を追われた、山本薩夫今井正亀井文夫らは独立プロを作って、硬軟取り混ぜた意欲的な作品を自主製作して世に問い、1950年代には隆盛(独立プロ・ブーム)を見るのだが、やがてそれも映画人気の下降とともに衰退する。  

 山本薩夫や今井正は、大映や東映、東宝といったメジャーでその後も作品を発表していった。左翼の監督でも亀井文夫や 木村荘十二 などのように、戦後、十分に活躍できなかった人もいるから、山本・今井がメジャーで映画を撮れたのは単に運が良かっただけではなく、演出の腕が優れていた、ということになろう。
 本音を言えば、メジャーの映画会社は監督の主義主張など、右でも左でも、どーでもいいのである。当たる映画さえ撮ってくれれば、監督として使うのだ(その逆、どんなに知的で教養豊かでも、当たらない映画を撮る監督はクビを切られ、仕事がなくなる。映画に限らず、フリーランスのクリエイターはどこもみな同じですな)。






 先に (8月28日付【島津保次郎 オヤジの蛮行 <その57>】) で、まだ東大生だった今井正が、その時、初監督作品を演出していた 吉村公三郎 (身分はまだ助監督)に、映画界入りを相談しにいった話を書きましたが、この時、吉村は今井にやんわりと断りを入れている。後年、名監督になった今井は吉村に会った時に、当時の思い出を踏まえてこう語った。

「あの時あなたの言われたような方法で、現在のぼくも助監督志望者にしやべるでしょうね」と笑って言われた。
                        (『あの人この人』吉村公三郎、協同企画出版部)


 今井の言う〝あの時あなたの言われたような方法で〟というのは、吉村公三郎の言葉を借りると、

 私はいかにこの仕事が大変なものであるかを説き、思い止まらせようとした。
                 (『キネマの時代 監督修業物語』吉村公三郎、共同通信社)


ということで、それはつまりは--映画の現場は大変だからやめた方がいい、と懇々と話して説得した--ということになろう。
 だが、21世紀の現在に至っても映画をやりたいという若者は後を絶たない。その気持ちは、遠い昔、ジャズ野郎もそうだったので、よ~く判りますが、悪いことは言わない、やめといた方が賢明です。

 その昔、植木のダンナ(植木等)は、

     ♪ 競馬(ウマ)で金儲けした奴ァはないヨ ♪ --「スーダラ節」作詞・青島幸男

 と歌ったが、映画で金を儲けた奴ってのも、そんなにはいない。とはいえ、まったくいない、ってわけでもない、興収300億円突破のアニメ作品を作った宮崎(駿)監督もいますから。

 というわけで、来週からは、映画で金儲けした奴のお話でやんす。  〔一応の完〕


■ 出典及び参考文献 ■
● 『キネマの時代 監督修業物語』 吉村公三郎、共同通信社
● 『あの人この人』 吉村公三郎、協同企画出版部
● 『時代映画の詩と真実』伊藤大輔/著、加藤泰/編、キネマ旬報社
● 『熱眼熱手の男 私説・映画監督伊藤大輔の青春』 磯田啓二、日本図書刊行会
● 『映画読本 伊藤大輔』 フィルムアート社
● 『溝口健二の人と芸術』 依田義賢、現代教養文庫
● 『映画監督五十年』 内田吐夢、三一書房
● 『カツドウヤ水路』 山本嘉次郎、筑摩書房
● 『伝記叢書301 カツドウヤ自他伝(伝記・山本嘉次郎)』 山本嘉次郎、大空社
● 『山本薩夫 私の映画人生』山本薩夫、新日本出版社
● 『森一生映画旅』 森一生/山田宏一・山根貞男、ワイズ出版
● 『私の藝界遍歴』森岩雄、青蛙房
● 『われら青春時代の仲間たち』山形雄策、ふるさときゃらばん
● 『キャメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』 山口猛編、社会思想社
● 『講座日本映画4 戦争と日本映画』 岩波書店
● 『日本映画発達史』 全5巻、 田中純一郎、中公文庫 
● 『人物・日本映画史1』 岸松雄、ダヴィッド社
● 『人物・松竹映画史 蒲田の時代』 / 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』 升本喜年、平凡社
● 『INTERVIEW 映画の青春』 / 『日本映画監督全集』 キネマ旬報社
● 『NFCニューズレター 2008年10月-11月号 「生誕110周年 大河内傳次郎と伊藤大輔』 / 『~2012年6月-7月号&8月-9月号 「生誕百年 映画監督 今井正」』 発行・著作:独立行政法人 国立近代美術館/東京国立近代美術館


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その1>

◆ サイレント期に流行った、小唄映画とは

 日本映画史について書いた本を紐解くと、草創期の事を記したどの本にも 大正13年(1924) に爆発的に大・大・大ヒットした、この映画のことが書いてある。

 その映画とは 『籠の鳥』(帝国キネマ、松本英一監督) である。

 この作品は小唄映画と言われるが、もともとその大もと(原案)は、当時、巷に流行していた小唄から採られており、その流行の初めは北海道だったという説がある。

 小唄映画というジャンルについては以前チラッと触れたが、偶然、読んでいた、吉村公三郎監督のエッセイ 『京の路地裏』(岩波書店) に、小唄映画(もっと広範に言えば、歌謡映画の始まり)の記述があったので、それを引用しておきましょう。

 大正のはじめ、松井須磨子が舞台でうたった「カチューシャ可愛いや」とか「行こか戻ろかオーロラの下を」とか「命短し恋せよ乙女」などが評判になり、レコードがこれを吹き込んで売り出されるようになると、唄のひろまりはいくぶん速くなって来る。
 今度は、レコード会社が流行している唄を吹き込むのじゃなく、唄の方を先につくって、これを流行らせるようになり、さらにその速度は増し、映画とタイアップして、その主題歌として売り出すようになると、一層その流行する速度も範囲もひろがる。


 映画会社とレコード会社のタイアップというのは、まだ映画がヨチヨチと歩き出したばかりの大正期からすでにあった。映画・唄(レコード)とも相乗効果で当ててやろうという試みが、映画がまだ音を持たないサイレントの時代からスタートしていたのだ。
 続けて--

 これで、最初に成功したのが、大正十二年、つまり関東大震災の年の春、松竹で池田義信監督、栗島すみ子、岩田祐吉主演でつくられた『水藻の花』という潮来を背景にした悲恋物語に主題歌としてつけられた「船頭小唄」である。
 …(略)…。
 これ以来、レコードの流行歌と映画は、お互いに持ちつ持たれつでつくられるようになった。
               (『同時代ライブラリー109 京の路地裏』吉村公三郎、岩波書店)


 吉村公三郎は、小唄映画の初めは「船頭小唄」を主題歌にした『水藻の花』だ、と書いているが、実はその前にこの歌を主題歌にした表題作 『船頭小唄』 (大正12=1923年・松竹蒲田)という作品が作られており、この作品こそがこのジャンルの嚆矢である。吉村公三郎は、どちらの作品も監督が 池田義信 なので混同したのだろう。
 そしてこの両作品の脚本は、意外にも後に時代劇の巨匠として知られる 伊藤大輔 が書いているのです。 〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


名作・迷作探訪〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その2>

◆ 伊藤大輔こそは〝小唄映画の父〟

 『船頭小唄』が出来たきっかけは、伊藤が池田と銀座をブラついていた時のこと--

『船頭小唄』の誕生は、「何か変わったものをやろうじゃないか」と、伊藤と池田の二人の銀ブラから生まれた。銀座を散策する二人の横を口笛を吹きながら追い越していった商店の小僧さんがいた。その口笛のメロディーが『船頭小唄』(作詞野口雨情、作曲中山晋平)であった。
(『熱眼熱手の人 私説・映画監督伊藤大輔の青春』磯田啓二、発行・日本図書刊行会、発売・近代文芸社)


 というわけで、伊藤は商家の小僧(上方でいう丁稚)が口笛で吹いていた〝鼻歌〟の流行歌をそのまま映画に使って、1本当たる映画をこさえてみよう、ともくろんだ。理不尽な武家支配や封建制に反逆する侍や侠客を描いた、熱血・硬骨の伊藤大輔にも、そうした小才、商売っ気があった事が判るから、この逸話は興味深い。伊藤自身は『船頭小唄』について、こう語っている。

泰 〔加藤泰〕 大正十二年の「船頭小唄」は先生の脚本ですって?
先生 〔伊藤〕 ええ。あれはサイレントの時分で……。その頃は、画面の中で「唄」なんかの入用な場面、たとえば娘っ子の唄う場面だとすると、スクリーンの横手へ、歌手の女の子が出て来て、オーケストラ・ボックスの伴奏に乗って情緒纏綿、大いに気分を出したものだった。
 その頃、大震災〔大正12年の関東大震災〕の前だったな、「船頭小唄」という流行歌が、レコードで大当たりにあたったので、御用作者〔松竹所属の脚本家だった伊藤自身のこと〕のことだ、命ぜられたままに唯々諾々、書きなぐって製作したら、これが馬鹿当りの大人気。主役の栗島すみ子君が銀座を歩くと、後ろからドウスル連〔ファン〕が、ついて歩いて、
♪ オレは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき……と、往来が止まって、交通巡査が出たって-- 本当の話。
   (『時代劇映画の詩と真実』伊藤大輔著・加藤泰編、キネマ旬報社) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 この『船頭小唄』が大当たりしたので、流行歌に合わせて映画を作るのが流行り出す。そこで伊藤は、唄に合わせて、ではなく、最初から映画に唄(主題歌)を入れて作り、映画公開とともにドチラもヒットさせようとしてシナリオを書く。
 その作品が先に吉村公三郎が小唄映画の最初だと言っていた 『水藻の花』 (大正12=1923年・松竹蒲田 池田義信監督 *1)なのである。

 伊藤の上記のコメントからも判るように、サイレントで音がないこの時代、小唄が流れる時(*2)には、歌い手がスクリーン横に現れて伴奏に合わせてその場で唄うから、館内に歌声が流れて、グッと気分がノッテくる・・・つまり、映像に合わせて唄が流れる瞬間というものは、ちょっと前(といっても80年代だけど)のMTVに出てくるミュージック・クリップ、プロモみたいな、夢心地になるわけです。だから〝小唄(映画)〟が観客に受けて、作品がヒットしたってのも判りますよね。






 また伊藤は〝命ぜられたままに唯々諾々、書きなぐって製作したら…〟と言い、流行歌を使うことが主眼だったから、言われた通り(内容も余り吟味しないで)に書きなぐった、などと語っていますが、これは謙遜。

『水藻の花』は、一見大通俗ドラマの形をとっているが、実はこの映画はドイツの作家プトマン〔原文まま ※3〕の『沈鐘』を下敷きにしたものであった。
                     (『熱眼熱手の人 私説・映画監督伊藤大輔の青春』)


 と博識な伊藤大輔らしく、そのドラマのベースは、構成のしっかりした外国ダネの戯曲なのです。
 とはいえ、この時期、(松竹)蒲田映画のクレジットには必ずと言っていいほど「脚本・伊藤大輔」と出た、といわれるほど、伊藤はめまぐるしいほど多くのシナリオを書いていた。だから〝書きなぐった〟という表現も謙遜ではないのかもしれないが、そんな〝勢い〟で書いた映画でも、小唄の導入で大ヒットと相成ったわけです。

 これを他社が、鵜の目鷹の目の映画界が見逃すはずはない・・・こうした小唄映画を巡る状況を頭の片隅に入れといて下さい。  〔続く〕

*1 「水藻の花」 この映画について伊藤大輔は、「これが僕の松竹への辞表ですよ」と語っている。それは伊藤はこの作品とそれまでのチャンバラ旧劇を〝時代劇〟に変えた『女と海賊』 (大正12年・野村芳亭監督、4月13日付けの【野村芳亭、知られざる巨人 <その22>】参照) を置きみやげに松竹を退社する。それで〝辞表です〟と言ったわけだが、辞めた理由は松竹が伊藤に監督をさせなかったからであった。
 松竹側は、教養豊富で次々とイイ脚本を書いてくれる伊藤にもっと台本を書かせたくて、彼の監督希望を引き延ばしていた。だが、あまりにも大量のシナリオを書いた伊藤はノイローゼ気味になり、それを知った松竹の大谷社長から気分転換にと、湯河原への休暇旅行をプレゼントされた。
 大量のシナリオを書いているとはいえ、伊藤は松竹社員。その一介の社員に対して、休暇をプレゼントするなどという事は、この当時の松竹にしてはみれば破格の〝待遇〟であったが、監督志望が強かった伊藤はこれに満足せず、結局、松竹を去る。
 すると、松竹はその退社の報復として、『女と海賊』『水藻の花』のクレジットから「伊藤大輔」の名前を削除した! クレジットどころか、後に『水藻の花』で伊藤が作詞した小唄がレコード化された際にも、作詞者から伊藤の名を外させたという・・・ゲに恐ろしきは大松竹の力である。

*2 「小唄が流れる時」 「ここから小唄」という段になると、スクリーンに〝字幕〟が映し出された。字幕と言っても、今のように画面下や横に流れるスーパーインポーズではなく、黒バックに台詞やト書きが書かれたタイトル画面が出、歌っている俳優とそのタイトルがカットバックする。そこへ、スクリーン横の歌手の歌唱が被さってくる・・・、とまぁ、当時はこんな状況だったようです。

*3 「プトマン」   伊藤本『熱眼熱手の人 ~』の中の記述で〝プトマン〟とあるのは間違いで、正しくはハウプトマン。正確には ゲアハルト・ハウプトマン (1862-1946)で、伊藤大輔が若年の頃読んで影響を受けたドイツの劇作家である。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その3>

◆ 『籠の鳥』   安~~く作った小品がまさかの・・・!

 さて--ようやく『籠の鳥』のお話です。
 この映画が公開されたのは、伊藤大輔脚本による『船頭小唄』や『水藻の花』の翌年の13年。大正年間の13年(1924)というと、前年の12年には 関東大震災 があり(『船頭小唄』や『水藻の花』の公開は同じ大正12年だが震災前)、まだ日本全土はショック醒めやらぬ状況だったと思いますが、そんな穏やかならぬ巷にこの唄は大流行した。
 その歌詞の一節を紹介しておきましょう。

◎「籠の鳥」            作詞・千野かほる 作曲・鳥取春陽
 あいたさ見たさに  こわさを忘れ   暗い夜道をただ一人
 あいに来たのに   なぜ出てあわぬ  僕の呼ぶ声わすれたか
 あなたの呼ぶ声   わすれはせぬが  出るに出られぬ籠の鳥  …(略)…


 歌詞の内容は、私は自由の利かぬ囲われ者の籠の鳥・・・というような、哀れな女(二号か、お妾・・・ン? ドッチも同じか)の哀しく侘びしい境遇を歌ったもので、そうした悲哀が震災後の世情に受けたものらしい。
 この詩に合わせて作られた映画は、好きな男との恋路を親に反対され、外出を禁じられてしまった娘の苦衷を切々と描いた悲恋物。大阪市の港区・西区の情報サイト 「みなとQ」 内の 「わが町人物誌」 の中で、地域史研究家の 三善貞司 氏が映画の粗筋を解説しています(*1)

 筋は実に単純明快です。まず蘭子〔沢蘭子、主演女優〕の扮する船場のいとはん「お糸」が窓に寄りかかり、伏目になって得意の憂いにみちたもの悲しい表情をします。無声映画の時代ですから、説明は弁士の高橋鶴瞳(かくとう)が、思い入れよろしく美声をはりあげます。
「お糸は恋しい文雄との仲をひきさかれ、心すすまぬ親の縁談を断ったため、いまは一室に監禁されておりました。文雄に出した速達の手紙の返事も来ず、望みもついに絶えはてて、うつろに見上げる目の前の、軒に下がった鳥籠の、中の小鳥は哀れな姿、哀れなれどもそれはつがいの比翼鳥、されどお糸はひきさかれ、破れし恋の痛手を胸に、泣いて嫁ぐか片羽鳥、切なる思い血を吐く叫び、声しのばせてこの思い、恋しき人に届けよと、文雄さん、文雄さーん、愛(いと)しき人の名を呼べば、答えるように誰やらが、歌って通るこのメロディ…」


 そして舞台の袖から楽師が悲しい音色でバイオリンを演奏し、女性歌手がか細いソプラノで歌うのです。
「あいたさみたさに こわさを忘れ 暗い夜道を ただひとり…」

 するとバリトンの男性歌手が、
「あいにきたのに なぜ出てあわぬ いつも呼ぶ声 忘れたか…」と、応じます。
これだけで客席のあちこちから、すすり泣きがおこりました。
                       〔以上「わが町人物誌」-山川吉太郎(三)〕 
                              





 三善氏も書いておられますが、この当時(大正期)、映画はサイレントで、音声を持たなかったから、小唄映画といってもスピーカー(サントラ)から小唄が流れてくるわけではない。映画のいい場面(小唄の場面)にスクリーン横に歌い手が現れて、これを歌った。

 大正13年(1924)8月封切りの、帝国キネマ(帝キネ)社長山川吉太郎が製作した無声映画「籠の鳥」は、映画史上に残る大ヒット作になります。その理由は、主役のヒロイン16歳の美少女沢蘭子の悲しげな表情と、主題歌にありました。
 …(略)…
 か細いすすり泣くようなソプラノと、哀愁に満ちたバリトンの男女二人の歌手の歌声は、受けに受けます。年配の読者なら誰もがご存知の6節からなるスローテンポの歌声にあわせて、客席の女性たちはハンケチで目頭を押さえました。


 館内に流行歌が流れるとワッとウケた。女性客などはウウウッと涙腺が緩んで嗚咽をもらす。それでもって上映館には客が殺到し、アッチの映画館でもコッチの小屋(劇場)でも押すな押すなの状態に!

 直営館の芦辺劇場も高千代座も連日大入り満員、入りきれぬ客が劇場の回りを四重、五重と行列を作り、何時間も待ち続ける大騒ぎとなります。
 大阪市内は「籠の鳥」のメロディであふれ、大阪を小馬鹿にしていた東京の興行主たちも、争ってフィルムを入手しようと袖の下まで使うありさま、宝塚音楽学校の生徒だった無名の蘭子は超アイドルとなり、どこへ行っても「お糸さあん(役の名)」と黄色い声がかかります。特別功労金として千円と着物に帯を買ってもらった蘭子は、「このお金で甘いもの食べたい」と答えています。
                         〔以上「わが町人物誌」-山川吉太郎(四)〕 


 かかった製作費は3千円、撮影はたったの6日間(三善氏は「山川吉太郎(三)」の中で「7日間」と書いていますが、撮影を担当した 大森勝 キャメラマンが6日と語っている)。
 大した金もかけず、近場にロケして手早く作って公開した、大阪(唯一)のマイナー映画会社・帝国キネマ(社長の山川吉太郎はもと天活映画の大阪支店長)は、コレ1本で一気に面目を新たにし、ジャンジャン儲けたのでありました。      〔続く〕

※1 「みなとQ」内の「わが町人物誌」 http://minato-q.jp/yomuyomu/jinbutsu/top.html


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


新作プレビュー  『 ブロークン シティ 』

◆ 大都会の邪悪なプリンス(市長)を虫ケラ探偵が蹴り上げる!

 CIAやNSA(国家安全保障局)、もしくは警察絡みの陰謀・汚職モノは、少なくても毎年1、2本は公開されているけれど、この『ブロークン シティ』は筋立てから何から、どこか 〝懐かしい〟 感じ。懐かしい、ったって〝古い〟ってわけじゃない。そういうジャンルをよく手がけていた シドニー・ルメット 監督の警官(検察)モノや内幕暴露映画の匂いがするんですよね。だから、見ていて「あー、こういうの、久しぶりだな」って気になる。
 先にも言ったように、毎年、コレと同種ジャンルの作品は公開されているんで、久しぶりもなにもないんですが、その〝懐かしさ〟は採り上げるジャンルの共通性ではなくて、きっと不正(悪)を憎む正義感の熱さ、その熱量がルメット作品と同じ、ってことだと思うんです。

 都会派サスペンスらしく、お話は コンプリケイテッド --こみ入ってて、複雑である。

 レイプ犯を射殺した警官のビリー(マーク・ウォールバーグ)は、その犯人が未成年の黒人だったから射殺の合法性を巡って裁判にかけられる。結局、無罪になるが、ニューヨーク市長のホステラー(ラッセル・クロウ)に説得され、警官は辞めることに。
 7年後、浮気調査で糊口をしのぐようなケチな私立探偵に堕ちたビリーは、市長選のまっただ中、ホステラーに極秘に呼び出される。彼の依頼は、市長夫人、つまり彼の妻・キャサリン(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)に浮気の疑いがあるから、その現場を押さえて相手の男を突き止めろ、というもの。たったそれだけの事なのに、調査費は超高額! 普通なら「コレ、ちょっとおかしいゾ?」と勘ぐるところだが、ビリーの探偵事務所が金欠で左前だって事が、この依頼シーンの前にちゃんと描かれている。だからビリーが市長からの浮気調査を二つ返事で引きうける〝心理〟に無理がない・・・今ハリウッドで注目されている、この映画の脚本家 ブライアン・タッカー は、弱冠25歳だそうだが、最近は玄人のシナリオライターでもやらない、前フリや前セツの〝コマ〟をちゃんと振っておいて話を進めておる。なかなか優秀ですな。

 で、ビリーはキャサリンの浮気相手を突き止めるのだが・・・とこの先を話しちゃうと映画を見る愉しみがなくなるので止めますがが、まぁ、二転三転。ビリー、アンタ死ぬ気かい? ってトコまでグイグイ押していく。監督はジョニー・デップの『フロム・ヘル』(2001)、デンゼル・ワシントンの『ザ・ウォーカー』(2010)を手がけた アレン・ヒューズ 。ルメット監督のようなシャープさがあり、またルメット監督になかった「権力の暗部をモヤモヤと匂わせる、思わせぶりな余韻」もやはり、ない(!)。
 そう、明晰なんですよね、とにかく。だから「暗部のモヤモヤ~」が好きな人には、この明晰さは、どう映るか。

 しかしワルの市長ホステラーを演ってるのが、身ぶりがデッカい ラッセル・クロウ ゆえに「明晰」にしかならないってトコもある。タフな善的ヒーローも、ワルな暴君マッチョも演じられるクロウだから、そのワル(悪行)はいくら裏に押し隠そうともクリア(明晰)に前面に出て来ちゃう・・・。しかも今回のクロウはやたら堂々としていて、まさに悪の権化的なムード。ちょっと大げさに言えばマーロン・ブランドみたいな感じです。
 対するビリー役の マーク・ウォールバーグ も最近、良かですね。デビュー当時は線が細いと思ったが、『ザ・ファイター』(2010)あたりから、〝男〟を演じるツラに翳りと本気が混じってきた。今回の役柄(落ちぶれた探偵役)、ジャズ野郎はとってもイイと思うんで、是非ともコレ、シリーズ物にして欲しいですね。探偵事務所の紅一点、秘書の ケイティ と込みで。

 このケイティを演じているのは アロナ・タル といって、『メンタリスト』『モンク』『スーパーナチュラル』などのテレビドラマに出ていたキュートなブロンド美女、ちょっとスカーレット・ヨハンソン似。
 タル演じるバイトの女子大生みたいなケイティが、恋人に去られ、窮地に陥っていくビリーを側面から支えるんだが、その〝やる気があるんだか、ないんだか〟な態度と、〝でもビリーには尽くす〟といった恋愛関係の(まだ)ない、つかず離れずの関係がささくれた ニューヨークの裏街に光を差している かのようで、なにかとっても良かったネ。

■ 10月19日より新宿バルト9、ユナイテット・シネマ札幌ほかにて全国ロードショー 
                                     配給:ショウゲート ■



< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その4>

◆ 『籠の鳥』  安っぽい小唄映画が怒濤の快進撃

 当時の状況をこの映画の撮影を担当した 柴田勝(旧姓・大森勝) が語っている。

柴田  …(略)…。この『籠の鳥』は六日間で撮影しています。自分で編集して、ネガフィルムを現像場に渡して、私はすぐ九州へ別の映画のロケーションに出かけました。それで帰ってきてみると大阪の芦辺劇場(帝キネの封切劇場)で、二週目の上映に入っています。あんな『籠の鳥』みたいな映画が続くのかな、と思いました。それが、どんどん続いて結局、七週間です。
- これはどういう所が観客に受けたと思われますか。
柴田  歌ですよ。それと俳優が気楽にね。
- 小唄を挿入した場面などは、覚えておられますか?
柴田  途中の場面、ヒロインの沢蘭子 〔 ※1〕 が恋人がありながら、気に染まない男と結婚を強いられている場面です。彼女が縁側に行くと籠がつるしてあって、その中に鳥がいる。籠の鳥です。彼女がそれを見る、そういうところに小唄が入っているのです。
- それは映画の中で本人も歌うわけですか?
柴田  いや本人は歌いません。見ているだけです。
- では、上映の時に弁士以外に唄を歌う人が立っている?
柴田  ええ、そうです。唄はたいした唄ではないのですがね。
        (柴田勝『聞き書き キネマの青春』岩本憲児/佐伯智紀・編著、リブロポート)


 この当時は映画の好況期だから、上映作品は週替り(1週間で入れ替わる)。つまり1週間興行すれば、十分な興行収入が上がったわけであり、今のように1ヵ月(月替り)を基本にして当たればロングランに切り換えるような<悠長>な、または間延びした興行態ではなかった。もちろんヒットすれば、2週、3週と延びることはあったが、当時の常識から言うと『籠の鳥』の 7週続映 というのは、もの凄い大々ヒット、超々ロングランだったということになる。     〔続く〕


※1「沢蘭子」 『籠の鳥』の主演女優で、この作品のヒットで人気女優となった。宝塚歌劇団出身で、当時16歳。帝国キネマから日活へ移り、松竹にも在籍していたことがある。6月12日付【島津保次郎 オヤジの蛮行 <その15>】でもちょっと触れたが、その松竹で彼女(この頃にはもう16歳の初々しさはなかった)と仕事をした 吉村公三郎 は、沢についてこう書いている。

 沢蘭子はいやな女だった。監督には変にベタベタと甘ったれるのだが、私たち下っ端の助監督にはいたって傲慢なのだ。

 沢の松竹での主演第1作 『愛の闘ひ』 (昭和6=1931年)のロケ先で、ロケ弁がすぐ近くにあるにもかかわらず自分で取りに行かず、沢は監督の 島津保次郎 に「自分だけ弁当をもらっていませ~ん!」と泣きついた、助監督の吉村は島津に「気が利かねぇな!」と怒鳴られ、わざわざ弁当を取り行かされ、それを沢に渡した。

 …(略)…師匠に怒鳴られて戻ってくると、先輩の助監督やカメラの助手たちが私に同情し、だれかが言う、
「吉村も苦労だなァ。とにかく、沢蘭子(触らん子)には祟りなしだよ」
               (以上、『キネマの時代 監督修業物語』吉村公三郎、共同通信社)


 この沢蘭子については6月13~15日付、【 スター事件簿・女優編 Coffee Break-〝触らんこっちゃ〟沢蘭子の話 < 前・中・後編 > 】を参照のこと。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その5>

◆ 『籠の鳥』  稼いだ興収〝70〟億円!?

 『籠の鳥』の 続映7週間 というのが、どれほど記録破りの凄いことだったか--。

 ルポライターの 竹中労 が書いた、時代劇スター・嵐寛寿郎 に関するユニークな〝自叙伝〟 『聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは』(白川書院) は無類に楽しく、映画史的にも興味深い一冊だが、この中で、関東大震災から大正末期の京都の映画状況について竹中はこう書いている。

-- そこへ関東大震災、映画人はこぞって廃墟の東京から京都へ、その新風をいち早く吸収して、〝時代劇〟にみちびき入れたのはマキノ省三であった。…(略)…。
 映画革新の火の手はかくて王城の地に燃え上る、大正十三年八月、東亜キネマと合併したマキノは、呂九平・阪妻の黄金コンビを軸にして、監督に子飼いの沼田松録…(略)…錚々たる才能を集めた。
 この間デビューしたスターは、鳥人・高木新平、門田東鬼蔵こと後年の月形竜之介、太田黒寅吉(団徳麿)、明石潮、現代劇では中根竜太郎、そして岡田時彦が在籍している。清純女優として一世を風靡した森静子、省三の娘マキノ輝子、生野初子、泉春子、環歌子などがいた。
 大正十四年一月十五日、マキノ省三は浅草根岸興行部(金龍館等を経営)・根岸寛一のあっせんで、新国劇の沢田正二郎主演による『国定忠治』を製作、一カ月のロングランという日本映画空前のヒットを飛ばした。
       

 歌舞伎から受け継いだ様式的な〝かったるい殺陣〟に対抗して、殺伐としたリアルなチャンバラを展開し、当時、大人気を博した沢田正二郎率いる新国劇の映画 『国定忠治』 は、『籠の鳥』の翌年の作品だが、その1ヶ月(4~5週)のロングランが〝日本映画空前のヒット〟だったというわけだから、『籠の鳥』の7週続映(約2ヵ月の上映)はその上をいく超メガヒット作であったことになる。
 しかもこの7週続映という上映期間は、60日以上上映したという説(そうなると8週以上の続映となるが)や、中には3ヵ月以上続映という記述もあるので、『籠の鳥』はもっと長きにわたって映画館にかけられていたようである。

 帝キネはこれで当時の金にして35万円 もの巨利を得た。
 当時の35万円はどれほどの金額であったか。

 一つの目安として、土地の路線価で比較してみよう。
 大正10年(1921)、銀座一等地の・1坪の値段は1000円だったといわれているが、『籠の鳥』が稼いだ35万円はその350倍の金額である。

 また地価で比べると、現在の銀座の一等地・1坪は約2000万円といわれ、大正10年時は上記の1000円。戦後に新円切換があったから、単純には比較できないけれど、そこを無理矢理〝単純に〟比較してみると、
2000万円は1000円の2万倍だから、これをまた〝単純〟に当てはめて35万円を2万倍すると70億円! 

 しかしこの70億円という価値は、現在の70億よりもっと凄い値であっただろう。大正時代の貨幣の最小単位は「円」ではなく、50銭硬貨や「一銭蒸気(渡し船)」があったように、その下の「銭」があったのだから。

 というわけで、大正13年時点の35万円は、今のもっと高額、ベラボーな額だった、ということになるわけです(*1)

 かかった製作費は先にも書いたように3千円で、上がった儲けが35万円ということは約 116倍! 
 ハリウッドの「ボックス・オフィス」の記事やリポートで、費やした製作費と興行収入を比較するのがあるが(1万ドル足らずで作られた低予算映画が、その100倍の100万ドルを超えました・・・なんてヤツ)、そんなランキングがこの当時あったら『籠の鳥』は文句なくベストワンであったろう。

 日本の映画作品で、興行収入のナンバーワンは、先日、引退を発表した 宮崎駿 監督の 『千と千尋の神隠し』 (平成13=2001年)の304億円で、その次が同監督の 『ハウルの動く城』 (平成16=2004年)だが、その『籠の鳥』出した35万円というのは、当時の感覚でいうとこれらに匹敵する〝驚異〟だったに違いない。     〔続く〕


*1 「当時の35万円」 経済オンチのジャズ野郎ゆえ、この大正13年の35万円=今の70億円、という算定をば真に受けないでいただきたい。大体、地価の一等地の値段で比べるというのが、おかしいといえばおかしい。何故なら、銀座一等地の値段などは一般人の生活レベルの金額ではないからです。
 銀座一等地=2000万円なんて金額は、人によっては10年分の生活費だった、また富裕な人にしてみれば1年間のマンション代にすぎなかったりするわけですから。
 だから、70億円という額はあくまでも「借り」の値であります。借りではありますが、この儲けでもって、帝キネでは各社のスターを大量に引き抜いてくる。それには相当な「契約金(見せ金)」や「支度金」というものがいるわけですから、引き抜いたスターの数が多かった、ということはそれに準備した金も莫大だった、というわけで、そういう面からすると今の価格に直して70億円というのは、そう悪くない数字ではある・・・のかもしれない。


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その6>

◆ 『籠の鳥』  儲かりゃ続編製作、は当たり前!

 それほどまでにヒットした『籠の鳥』だったが、先の柴田キャメラマンのコメントなどから判るように、その出来栄え自体は大したことはなかった。
 しかも、小唄の歌詞からして内容はもの悲しく、要するに暗い・・・。

 では、何故こんなペシミスティックな内容の作品がそれほどまでに当ったのか? 

 当ブログをご愛読の皆様は、先に掲載した 野村芳亭監督の作風 を思い起こしていただきたい。そうです、この当時は、こうした、いかにも悲しい、哀しい、女の悲劇がウケた時代であったのです。そうした風潮にプラスして、小唄の方が先行して流行っていたから、相乗効果でワッと当たった、という事なのでしょう。

 ヒットすれば続篇を作る、は映画業界の鉄則で、俗に--

〝柳の下のドジョウは3匹いる〟
(つまり1本当たれば2本目どころか、続篇、続々篇と3本も4本も作るの意)--とのたまった(御仁もいた)映画界だから、『籠の鳥』の続篇も当然作られた。

-これは続篇も作られましたね。
柴田 ええ。でも、最初の方のラストで、ヒロインの沢蘭子は吉野の岩の上から身を投げて死んでいるのです。これを続編のために生きかえらせなければならない。それで身を投げた岩の下には猟師がいて彼女を助ける、という設定をつけ加えて続編の最初にしました。
     (柴田勝『聞き書き キネマの青春』岩本憲児/佐伯智紀・編著、リブロポート)
                           

 死んだヒロインを生き返らせる、とはなんともイカサマな話だが、映画の続編(シリーズ化)なんてこんなものである。
 勝新太郎 田宮二郎 共演でヒットシリーズとなった〝悪名〟だって、その第2作 『続・悪名』 (昭和36=1961年)で田宮演じる〝モートルの貞〟はラストでチンピラに腹を刺されて死んでいる。だが当たっているシリーズを会社(大映)が終わらせるわけがない。そこで第3作『新・悪名』 (昭和37=1962年)では、死んだモートルの貞の〝双子の弟〟清次(田宮の続演)として登場してくるわけで、もう、当たってさえいえば、何でもアリな世界なのである。

 しかもこの『籠の鳥』ブームのこの頃、本家の帝キネ人気に当て込んだ自称〝籠の鳥〟が、アチコチで作られ、公開されていた。なんとそんなバッタ物の中の1本を監督したのは、後に黒澤明を〝世界のクロサワ〟に育てあげる 山本嘉次郎 監督であった。  〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >




名作・迷作探訪 〔邦画篇〕  メガヒット映画の功罪 <その7>

◆ 『籠の鳥』  山本嘉次郎が先に作ってた?!

 山本嘉次郎は、『籠の鳥』ブームが巻き起こる前年、つまり大正12年(1923)、東京にあって関東大震災に遭い、都落ちして関西にいた(【Cofee Break 震災と映画作家-そのときわたしは <その1・その2>】4月2・3日付、参照)
 そして大阪の怪しげな映画製作プロダクション、 〝山川プロ〟 に参加した。

 大阪のある活動屋が、活動屋には珍しく、芸術映画を作ろうという念願を立てた。その動機は、震災で焼け出された東京の映画人が関西へ来てブラブラしている。これを使って一本映画を作ろうというのであった。
 橋渡しをする人があって、ボク、岡田時彦(当時はまだ高橋英一という本名を名乗っていた)それからその英パン(岡田時彦のアダナ)のそのころの細君であった夏目加代子、宇留木浩〔うるぎ・ひろし〕、宇留木の妹の細川ちか子、それから、後に大映の所長となった須田鐘太〔すだ・かねた〕なんかがこれに加わって、大阪の、とある町外れのシガナイ陋屋に、ヤマカワ・プロダクションという看板をかけた。
(山本嘉次郎著『カツドウヤ紳士録』、『伝記叢書301 カツドウヤ自他伝(伝記・山本嘉次郎)』〔大空社〕所収) ※〔〕内、ジャズ野郎註。


 山本監督はこの『カツドウヤ紳士録』の中でこのプロダクションを何度も〝ヤマカワ〟〝ヤマカワ〟と書いているのだが、どうもコレはハヤカワ=早川プロダクションというのが正しいようである。

 本家の『籠の鳥』を出した帝国キネマの社長が、大阪ミナミに楽天地という一大レジャー施設を築いた大興行師・ 山川吉太郎 という人であるから、そのヤマカワとハヤカワが一緒くたになったのかもしれない(以下、山本の著書からの引用文に出てくる〝ヤマカワ〟は、〝早川〟だと思ってお読み下さい)。






 この早川プロで、山本監督は自身の監督第1作となる 『十字火の熱球』 (大正13=1924年)を撮るもメジャーな会社には売れず、2作目に『籠の鳥』(同13年)を撮る。それは帝キネの『籠の鳥』が公開される 3ヵ月も前 であった。

 大分春めいて来たころ、北海道の未知の弁士から、ヤマカワに一通の手紙が来た。北海道では、いま「籠の鳥」という流行歌が大変流行っている。これをぜひ映画にしてもらいたい。金はすぐ送るからとあって、歌の文句が添えてあった。
…(略)…
 こうして「籠の鳥」を作ったものの、その後、北海道から何の便りもなかった。ヤマカワ・プロは、またもやポシャッてしまったのである。フィルムは質屋に持って行って、五十円貸してもらった。
 それから三カ月ほど経って、帝キネが沢蘭子主演で「籠の鳥」を作り、これが六十日間続映という、映画界はじまって以来、今でも破れない新記録を作った。
 ヤマカワにも「籠の鳥」があると知った業者は、ワンサワンサとつめかけた。
 …(略)…。
 ヤマカワは一躍成金になった。現金支出といえば、十七円くらいしか掛からなかったにちがいない。
 ボクと須田鐘太は、新調のセビロを作ってもらって、颯爽とヤマカワの家を巣立ちした。 (前掲書)


 山本監督は、須田鐘太(この人は後に大映に入って多摩川撮影所の所長などを歴任)と颯爽とハヤカワ・プロを巣立ちした、と書いているが、その前に、本家の『籠の鳥』を監督した 松本英一 に「人の作品の偽物を作って、公開するとは何事だ!」と著作権侵害で怒鳴り込まれている。この松本英一という監督は、

柴田 もとは新派の役者でした。伊村義雄という一座で作者として、連鎖劇などの監督に腕をふるい、新しく始めることになった帝キネの現代劇へ選ばれて入ってきたわけです。…(略)…。
            (柴田勝『聞き書き キネマの青春』岩本憲児/佐伯知紀、リブロポート)


 という人物で、役者上りだったから山本嘉次郎らに抗議する時の口舌もさぞかし威勢が良かったと思うのだが、山本監督が自作の『籠の鳥』の質札を松本に見せたところ、その期日は、松本自身の『籠の鳥』公開よりも前であった。そうなると自分が作った帝キネ作品の方が模倣作になると察知し、当初の勢いはどこへやら、しおしおと尻尾を巻いて帰っていった、という。

 山本嘉次郎は、早川プロを出た後、その頃、関西にあった キネマ旬報社(の支社事務所) に厄介になり、そこの責任者でキネマ旬報の創刊者同人の一人である 田中三郎 の紹介で、神戸に出来た 東亜キネマ 甲陽撮影所 に入るのだが・・・とその話はまたいずれ。     〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





新作プレビュー  『 42  世界を変えた男 』(1)

◆ 人種差別という<イジメ>に立ち向かった、魂の物語!

 本日10月25日から11月4日まで、【名作・迷作探訪】の連載を中断し、〝秋の新作プレビュー・ウィーク〟と題して、お気に入りの新作2本をご紹介。まずはコチラ・・・。

                  *****

 毎年、 4月15日 になると全メジャーリーガーは同じ背番号のユニフォームを身につける。その番号 - 42 -。
 その日は、アフリカ系アメリカ=黒人が初めてメジャーリーグのグランドでプレーした日であり、その黒人選手 ジャッキー・ロビンソン を讃えるための記念日である事は日本でもよく知られている。ロビンソンの話はそれほど有名なんで、伝記映画が出来た、と聞いた時は「今さら映画化?」という気もしないではなかったが、人種差別に立ち向かった男の忍耐と闘魂の物語だから、見れば、そりゃ、胸熱くなる話ばっかで、もう何回泣いたか・・・。

 それは起こるべくして起こったのであり、誰かが傷つかなければならなかったのだ。

 から始まる作家 ウィルフリッド・シード のコラム 「 一番、セカンド …… ジャッキー・ロビンソン 」( 常盤新平訳、『「エスクァイア」 アメリカの歴史を変えた50人 (上) 』 新潮社) の中に、ロビンソンが下部リーグからブルックリン・ドジャーズに昇格した当時の状況がこんな風に書かれている。

 南北戦争後の南部諸州再統合以来の反動的な運動によって、爪はじきされ、踏みつけにされ、殴られ、唾を吐きかけられながら、ジャッキーはキリストに似た我慢のこころをもって黒人選手の重荷を一身に背負った。百人のハンク・アーロンが素質を開花させることができるくらいの苦労に、二年以上も耐えた。その間、彼は私たちにとって公民権運動そのものだった。  

 文中の〝ハンク・アーロン〟をまさか知らない人はいないと思うが、しかし、今の若い人達は田中角栄も知らないっていうから、ちょっと説明しとくと、今、ソフトバンク・ホークスの球団会長である〝世界のホームラン王〟、王貞治さんがホームランの世界記録(打った本数)を塗り替えるまで、その座にいた人。いや、アメリカではおそらく今でも〝世界のホームラン王〟扱いされているのがアーロンで、そのアーロン百人分の苦労をロビンソンはたった一人で耐え忍んだ、というわけである。『 42 』で描かれるのは、その〝傷つかなければならなかった誰か〟の壮絶なる苦闘のドラマである。まずは粗筋をば--。

〔 第二次大戦が終結した1945年、ブルックリン・ドジャースのやり手会長ブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)は、グランド内での黒人差別の撤廃と観客数の増加を目論み、足の速い黒人選手ジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)を黒人リーグから傘下のマイナー・チームにひっぱってくる。当時は、黒人は白人と同じ職場で働いてはいけない、同じ施設を使ってはいけない、といった人種隔離策を公認したジム・クロウ法が、南部には厳然としてあった(1876-1964年、施行)。
 しかし、リッキーは敢えてロビンソンをメジャー・リーグの大舞台に立たせるために、彼を加入させたのだ。バッターボックスに立つ前から、敵・味方より強烈なブーイングを浴び、わざと顔にビーンボールを投げられ、ロッカールームでも差別的扱いと言辞を浴び続けるロビンソン。
 2年後、その活躍が認められて、ドジャースに昇格し、黒人選手として晴れてエベッツ・フィールド(ドジャースのNY時代の本拠地スタジアム)の土を踏むのだが、そこでも観客や敵チームから猛烈なヤジとブーイングを浴び、チームメイトからも白眼視を受ける。
 しかしロビンソンは、リッキー会長から厳命された〝やり返さない勇気〟の心を忘れずに、ダイアモンドを駆け回る。そんなロビンソンの姿に、チームメイトの一人一人が考えを変え、彼と心を合わせていく・・・ 〕


 なんだかストーリーを書いてるだけで泣けてきますな。
 ロビンソンを演じる チャドウィック・ボーズマン は、容姿がロビンソンとクリソツってことで抜擢された若手の俳優さんですが、その芸歴のスタートは演劇畑で、そこで劇作も演出もやってきた才人。本格主演は今回が初めてですが、〝やり返さない勇気〟を黙々と演じてます。ロビンソン本人よりも、ちょっとだけハンサムですけどね。  〔続く〕

■ 11月1日より東京・丸の内ピカデリー、札幌シネマフロンティア、ユナイテッド・シネマ札幌ほか全国ロードショー 配給:ワーナー・ブラザース映画 ■


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





新作プレビュー  『 42  世界を変えた男 』 (2)

◆ ロビンソンをいきなり殴りつけたリッキー!

 『 42 』はメジャー初の黒人大リーガー、ジャッキー・ロビンソンの苦闘の物語と同時に、彼をメジャーに引っぱってきた偉大なる会長 ブランチ・リッキー の挑戦の物語とも言えます。リッキーとドジャースについては映画評論家の 川本三郎 さんが見事な解説を書いております。

 ドジャースはニューヨークの下町のチームだった。同じニューヨークに本拠地を持つヤンキースがマンハッタンのWASPに人気があったチームとすれば、ドジャ-スはアイリッシュや黒人らマイノリティに支持されていた。組織的な常勝チーム、ヤンキースが巨人とすれば、ドジャースは阪神のような存在だったといえばいいだろうか。
 
 そう、ドジャースは今でこそロサンゼルス・ドジャースだが、もともとはニューヨークはブルックリンにあった下町のチームであり、ドジャースの〝DODGER〟はブルックリンを走る路面電車にぶつからないように〝身をかわす人(トローリー・ドジャース)〟からきている・・・と、こういう細々したことを書いているとキリがないのでやめますが、そのリッキーを映画ではあの ハリソン・フォード が演じてます。うーん、どうでしょう、太っ腹なリッキーに見えますでしょうか? (ついでにハリソン、本作の製作にもかんでます) 

 ブランチ・リッキーはジャキー・ロビンソンのその過去に注目した。そして一九四五年の八月、球団事務所にジャッキーを呼んだ。面接試験である。

 文中の〝その過去〟とは、テキサスで白人兵士とケンカしてブタ箱にぶち込まれたロビンソンの武勇伝のこと。普通、そうしたトラブル持ちの選手は敬遠して、より穏健な人材を選ぼうとするものだが、そこは過去に監督も経験しワールドシリーズを制覇したリッキーだ。むしろそうした血の気の多い人物の方が、世間の囂々たる非難や迫害に耐え得る肝っ玉を持っていると読んで、ロビンソンに白羽の矢を立てた。
 リッキーは〝面接試験〟でロビンソンに差別的な発言や嫌がらせに、暴力で応じないこと(やり返さない勇気)を切々と解き、その終わりに--

 そしてブランチ・リッキーは椅子から立ち上がるとジャッキー・ロビンソンのところにいき、自分を見下ろしている黒人の大男の右頬をいきなり殴りつけた。
 殴られたロビンソンはにやりと笑っていった。
「私には頬がもうひとつあるのをお忘れですか」。
 それでジャッキー・ロビンソンのドジャース入りが決まった。
                    (以上、『スタンド・アローン』川本三郎、ちくま文庫)


 引用しておいてなんだが、この〝殴る〟件は映画には出てこない。出てこないのに何故紹介したか、というとお話として面白いからである。それに、『 42 』について書いてるのになんですが、ジャズ野郎は劇中で描かれるロビンソンの苦闘をあまり紹介したくないのです。
 なぜならば、そのロビンソンの物語は、その目で、スクリーンで、実際に見てほしいから・・・なんです。

 監督は、クリント・イーストウッドの『ブラッド・ワーク』(2002)、『ミスティック・リバー』(2003)のシナリオを書き、秀作『L.A.コンフィデンシャル』(1997)でオスカーを受賞し、時々監督もする ブライアン・ヘルゲランド が担当。今も全米各地に残る1940年代当時のクラシックなスタジアムをロケ場所に使っているから、

               ♪ 私を野球に連れてって ・・・♪ 

 といったレトロなイイ雰囲気が出ています。       〔続く〕

■ 11月1日より東京・丸の内ピカデリー、札幌シネマフロンティア、ユナイテッド・シネマ札幌ほか全国ロードショー 配給:ワーナー・ブラザース映画 ■


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >


新作プレビュー  『 42  世界を変えた男 』  ( 3 )

◆誇り高き 42番 がヘイト・スピーチを封殺する!

 とはいえ、どんなに『 42 』が感動的だといっても、野球ってだけで敬遠する人もいるでしょう。最近は、広島県出身者以外にも広島東洋カープのファンが増えて、中でも女性のカープ・ファンが急増中とのことですが、殊、映画となると別で、野球映画というだけで途端に腰が退けてくる。
 例えば--

「ワタシ、野球、知らないから、無理・・・。だって前にブラピの『マネーボール』って見たけど、あんま良く分んなかったしィ・・・」(30代・OL)

 なんて人もいるハズ。
 でもご安心を! 『マネーボール』 (2011・米)とはタイプが違うんです。『マネーボール』は佳き野球映画ですが、如何せん野球マニアの心理を渋く描きすぎて、ワーッと盛り上がる高揚感に乏しい。そこへいくと『 42 』はもう全篇「ワー!」だらけで、野球オンチの人でも良~く判りやす(ホンマかいな)。

 加えて、この『 42 』は、最近、世間を騒がしている、徒党を組んで ヘイト・スピーチ に参加している人(大人)に是非見てもらいたい。近頃の中・韓のやり口を日本人の側から見れば、確かに徒党を組んで文句を言いたくなるのも判る。判るけれども、その、声を張り上げ、眼なじりを決して他者(他国、他国民)をののしる行為を、子供達はしっかり見ている。子供に、人を憎むツラを見せちゃあ、いけない。

 ジャズ野郎は、『 42 』の中でグッときて泣いてしまったシーンが3回ほどありました。
 さっきから言ってるように、劇中のエピソードについてはあまり書きたくないんだ(配給のワーナーさんにも悪いし)。だけど1シーンだけは書かかせてもらおう。

〔 ドジャースへの昇格が決まったロビンソンがNYへ向かうため、地方の駅から列車に乗りこむ。駅にいた子供達は彼に気づいて騒ぎ出す。その中の一人の黒人少年がタラップを上がっていくロビンソンと目が合い、「黒人初のメジャー選手だ!」と感極まったその子は彼が乗りこんだ列車を追いかけてプラットホームを走り出す。少年はプラットホームの端から地面に飛び降り、走り去る列車をなおも追い続ける。列車はついに見えなくなったが、その子は線路に身を伏せてレールに片耳を当てる。列車の音を聞くためだ。少年はその音を聞きながら、自分とロビンソンが〝繋がっている〟ことを噛みしめる・・・ 〕

 この少年が、その後(1969年)、とてつもない偉業を成し遂げる一員になることが、映画のエンディングで明かされる。その〝69年の奇跡〟の事はジャズ野郎も知っていた。だから(心の中で)叫びましたよ、「アー、お前さんは、あの時、そこの選手だったのかッ!」って。

 『 42 』に限らず、メジャー・リーグを、アメリカ野球を題材にした作品には、こうした子供の視点で〝野球(選手)を見る〟というシーンが必ず出てくる。初めて野球場へ行って感動したり、試合を見て興奮したり、ダイアモンドでプレーする選手達を憧れの眼差しで追ったりする時の子供達の表情はキラキラと輝いていて、そこに野球を リスペクトする崇高な一瞬 が沸きあがってきて、胸を突かれる。
 こうしたシーンは、大体において子供の視点で〝仰ぎ見る〟感じ(仰角)で捉えられていて、憧れや希望に胸膨らませた子供達の眩しいような、嬉しいような高揚感がみなぎっており、それを見た大人達をも幸福にしてくれる・・・。


 だから--子供達に見せるのは、他者をののしる醜いツラではなく、ロビンソンのようなエキサイティングなプレー=魂が勝利する崇高な瞬間、じゃないですかね。  


■ 11月1日より東京・丸の内ピカデリー、札幌シネマフロンティア、ユナイテッド・シネマ札幌ほか全国ロードショー 配給:ワーナー・ブラザース映画 ■


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >



新作プレビュー  『 スティーブ・ジョブズ 』  (1)

◆ 彼はGood Job(イイ仕事)をしたが、Good JOBS(イイ人)ではない!

 前の「新作プレビュー」で紹介した『 42 世界を変えた男』はスポーツ界の革命児の話だったが、アップル社の創業者の一人で、「iPod」「iPhone」「iPad」を世に送り出した、同じく革命児の スティーブ・ジョブズ の半生を描いたコチラは、(嬉しいことに)深みのある辛口の人間ドラマになっている。
 『 42 』がジャッキー・ロビンソンを、彼の偉業を手放しで賞賛するだけだったのに対し、『~ジョブズ』は、夢の実現や理想の追求のために友人を裏切り、恩人を切り捨てて、ひたすら邁進した 〝風変わりな、傷だらけの成り上がり者〟 としてジョブズを描いているところが面白い。
 日本の映画やドラマだったら、偉人やヒーローをこんな風(変人)に描けますかね。おそらく出来ないでしょう。

 だからこの作品のように、時代の寵児をこんな具合に、そのマイナス面を含めてフランク(率直)に描くというのは出来そうで出来ないんだ。しかもジョブズが亡くなってまだ間もなく、彼のホームタウン「アップル社」は厳然と存在し、アチコチにジョブズ信者(iPhone5s/5cの発売に行列してる人達なんか、そうでしょう)が跋扈している中で、辛辣なバイオグラフィ-として仕上げたあたり、脱帽です。目の付け方に大いに関心しました。

 監督は ジョシュア・マイケル・スターン って若手(祖父が映画会社の重役、父がテレビ番組の製作責任者という血筋)で、まだ長編映画は『ケビン・コスナー チョイス』(2008・未公開)ぐらいしかないようだが、そういう人が『半沢直樹』ばりの〝企業内報復合戦〟をも含んだ人間ドラマを作っちゃうあたりが、ハリウッドの才能豊富なところ。
 加えて脚本を書いた マット・ホワイトリー って人は、ジョブズがまだ存命中(彼がCEOを退任する前)の頃から映画のためにリサーチをしていたというから、熾烈な企業の主導権争いがリアルに描けたのはそのためかもしれない。
 オッと、ストーリーも紹介せずに、イイ所ばっかくっちゃべってましたね、ちょいと粗い筋をば、したためましょう。

〔 お話の滑り出しは普通のサクセス・ストーリーと変わらない。若きジョブズ(アシュトン・カッチャー、好演)はLSDでラリって、いろんな女と寝て・・・と1970年代のフツウの大学生だったが、コンピュータおたくのウォズアック(ジョシュ・ギャッド)の個人用コンピュータ(80年代はマイコンなんて言ってましたな)のアイデアに〝目を付けて〟、これを既存の電機メーカーに売り歩く。やがて投資家を募って、自宅ガレージを工房兼事務所にしてパソコンを開発。IBMなど先行するコンピュータ企業と張り合いながら、開発を進め、失敗を繰り返し、ビル・ゲイツのウィンドウズに出し抜かれるなどの痛い目にも遭いながら、アップル社を世界的な企業に押し上げていく・・・ 〕

 見所は、先にもいった〝夢の実現や理想の追求のためには友人を裏切り、恩人を切り捨てて・・・〟といったジョブズの非情な性格描写と、アップル社内の主導権争い。彼はアップル社が成長するに従い、ガレージ時代から一緒にやってきた友人たちを切っていく。友や身内を裏切り、切り捨てていく姿は、シェイクスピア悲劇か日本の戦国時代みたいなドライさである。       〔続く〕

■ 11月1日より東京・TOHOシネマズ日劇、ユナイテッド・シネマ札幌ほか全国ロードショー 
                                 配給:ギャガ GAGA★ ■



< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
                アマゾンkindleストアから発売中! >





The Food Court ♪

いっぱい食べるキミが好き~ ♪♪♪

SPORTS & CASUALS ♪

いっぱい遊ぶキミが好き~♪♪♪

お役立ちエリア ♪

ナイスな便利グッズ&サービスをご提供!

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

『 ラストシーンの余韻 』 発売中!
映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
電子書籍版はアマゾン Kindleストア 及び 楽天ブックスから、紙の書籍版は製本直送.comより発売。直近の各コラムの末尾にある発売告知から販売サイトに遷移、またはポップアップ画面が出ますので、そこで購入できます。 

< プロフィール >
血液型:A型
趣味:サイクリング&ウォーキング&クッキング、デジカメでの写真・動画撮影
好きな場所:札幌ドーム、中島公園、中央図書館、豊平川
好物:コーヒー、ジンギスカン、スープカレー、ラーメン、「ロイズ」のソフトクリーム、「シャトレーゼ」のアイスバー・ピュルテ(塩キャラメル味)、びっくりドンキー、はま寿司、セイコーマート

My Blog Visitors
CAT TIME !
Calendar

Le TAO ♪
春の光だ、マチに飛び出せ! ・・・ ルタオです ♪♪♪
FC2 ブログランキング
FC2 Blog Ranking
[ジャンルランキング]
映画
573位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
邦画
17位
アクセスランキングを見る>>
リンク
最新記事
松尾ジンギスカン ♪
北海道の郷土料理にしてベスト!
カテゴリ
月別アーカイブ
リーズナブルな旅をご案内 ♪
書を捨てよ、旅へ出よう~ ♪
Amazon DVD RANKING
イチバン人気の映画をチェック!
検索フォーム
最新コメント
MAIL BOX
名前はハンドル名でOK、文面は公開しないので、お気軽に!

名前:
メール:
件名:
本文:

最新トラックバック
QRコード
QR