新作プレビュー  『 ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅 』 <後編>

◆ 人生も旅も面倒臭いけど、旅の終りはなんか「いいね!」

    ストーリーをば。

〔 応募してもいないのに--
  「おめでとうございます、アナタに○○が当たりました!」とか
  「懸賞に当選しました!」
 という知らせがいきなり届くって事、ありますよね。もちろん、詐欺のインチキですが。
 ネブラスカに住む老人ウディ(ブルース・ダーン)が受けとったそれには〝100万ドルに当選した〟とある。
 「詐欺に決まってるわ!」と古女房のケイト(ジューン・スキップ)と息子のデイビッド(ウィル・フォーテ)は一顧だにしないが、当選通知を真に受けたウディは、その賞金を受けとるために遙か彼方のネブラスカまで行くと言ってきかない。オープニングで、高速道路をトボトボ歩いていたのも、そのためだ。いくら説得しても「行く」と言ってきかない。
 そこでデイビッドは、「そこに連れて行けばオヤジも納得するだろう」と、ウディを車に乗せてロング・ドライブに出かける。自宅のあるモンタナ州のビリングスからネブラスカ州のリンカーンまでは1500キロの長~い道のり。
 途中で立ち寄った親戚の家で、ウディが周囲に懸賞当選を吹聴しちゃったから、さあ大変! 
 ゲスい甥っ子兄弟や腹黒な旧友たちが、ウディの〝大金〟に群がってきちゃって、
 もう大騒ぎ・・・! 〕


メインカット
▲ 旅に出た父と子は、ネブラスカで本当に100万ドルを手に出来る?
(C)2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.


 この映画の予告編を見た人はお気づきでしょうが、この映画は全編モノクロ(白黒)。

 かつてはウディ・アレン監督がよく使い、最近ではアカデミー賞を受賞した 『アーティスト』 (2011年・仏、ミシェル・アザナヴィシウス監督)、戦争映画などでは今もモノクロで描かれる事はありますが(例えばスピルバーグ監督の 『シンドラーのリスト』 1993年)、白と黒そしてグレーで定着したモンタナ ~ ネブラスカまでの風景、その旅はどこかノスタルジックで切なくて。
 映画ファンなら、すぐに 『ラストショー』 (1971年・米)や 『ペーパームーン』 (1973年・米、ともにピーター・ボグダノビッチ監督)あたりを想起しちゃうところですが、ウディとデイビッドが向かう目的地のネブラスカは、ペイン監督の故郷ってことで、監督はこの映画のシナリオを一読した時からこの映画をモノクロで撮ろう、と決意したとか。

 モノクロで映し出された、このアメリカ中西部の風景というのは、人っけもなくて、閑散というか荒漠としていて、冬の北海道の雪原のように広大で寒々しく、淋しく見える。
 途中で泊めて貰う親戚やその町の人々、かつてウディが通っていたバーに集う旧友の姿がスクリーンに映ると、思わずほっとするような、そんな安堵感はあるものの、やはりみんな、腹にイチモツある俗物ども で、いい奴かと思いきや、ケチで強欲でなかなかに扱いずらい。

 せっかく旅に出たのに、なにか下世話な人間社会の縮図に飛び込んだようで、ウディとデイビッドはいまいち気勢が上がらない(こういう所が、蒲田=大船調ですな)。日常生活や人間関係の煩わしさやイヤな部分があちこちに顔を出してきて、〝生きるって面倒臭いなぁ〟と思ってしまう。

 そんないまいちハジけない旅で、この親子がどうなっていくか、をじっくりと、心を平らにして御覧頂きたい。笑っちゃうとこも、泣いちゃうとこもある・・・けれど、それはあえて書きません。ペイン作品を1本でも見ている人なら、容易に予想できますから。

ウディと奥さん
▲ 旅先にやって来た妻のケイト(J・スキップ、右)と食事するウディ(B・ダーン)
(C)2013 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

 ジャズ野郎も父を亡くしましたから、こういう父と子のロードムービーってのは、それだけでちょっと弱い。でもこの作品には、見ながら亡父を思い出して涙する、ってのはなくて、そうした感傷よりも、父親が息子をどう思い、また息子が親父をどう思っているか、というその感情の流露がよく描かれてて、面白かった。

 老人っていうのは、ジャズめの亡父や今一緒に住んでる母親もそうですが、急に呼びかけたりすると、ビックリしたような顔をしてコチラを振り向くことがある。
 耳が遠いからなのか、老人特有の表情なのか--その両方かもしれませんが、この映画で時折、ウディ役のブルース・ダーンがそういう表情を息子に見せる。そんな時は、若い頃の、トレードマークの、目をまん丸くした顔でコッチを見るんですよね。
 その目を見ると 「あー、目だけは若い頃のまんまだー」 と嬉しくなった。
 頭髪は白くなり、禿散らかしてはいるけれど、我らのブルース・ダーンはしっかり生きてた。それだけで、この映画を観て良かったナ、と思いましたよ。

    ■ 2月28日よりTOHOシネマズ シャンテ&新宿武蔵野館、
       札幌シネマフロンティアほかにて全国ロードショー  配給:ロングライド  ■



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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その1>

< 清水宏が松竹の大船撮影所を追われた > ところで 【清水宏 恐るべき子供〝天使と悪魔〟】の連載はひと休みとして、この当時(終戦前後)の撮影所の様子を大製作者・城戸四郎の動向を横目に見ながら、その城戸(蒲田=大船システム)に逆らった者たちの知られざる反抗(ドラマ)を紹介していくことにしましょう。

                 *****

◆ 松竹を松竹たらしめた大製作者・城戸四郎の功罪

 松竹映画に 蒲田=大船調 という独特のカラーを敷き、時代劇を製作した一方の雄・京都勢と拮抗する形で、日本映画のオーソドックスな形式(スタイル)を築いた、大船撮影所長の 城戸四郎 は東大卒のインテリであり、自称〝リベラリスト〟だった。
 偉大な製作者であり、日本映画の功労者であることは論を待たないが、しかしこの城戸が撮影所に君臨しすぎたために、松竹映画は蒲田=大船調というカラーを長らく固守することになり、よって硬直化し、マンネリ化・平凡化し、要するに--
〝きれい事で、生温くて、つまらない〟作品を量産して、日々、威勢を弱めていく。

 日本映画の斜陽化は60年代後半以降に顕著となるが、松竹自体の斜陽化は 『君の名は』 (昭和28-29=1953-54年)の大ヒットの後からすでに始まっていたといわれ、映画の観客数がピークに達した昭和33年(1958)には下り坂を下っていく一方であった。

 松竹が、松竹の映画がそうなる事を内部の人々が気付いていなかったわけはない。映画は、今も昔も時代の流行の先端にあって、よって常に「先に、先に」と次に来るもの(当たる題材)を予見していかなければならない。そうじゃないと衆人の関心を引く、キャッチーで魅力的な作品は生まれない。
 そうした場合、やはり映画会社のトップの感性が柔軟で、かつ好奇心に富んでいる事が求められるのだが、明治生まれのインテリにそれを求めるのは酷である。
 だがこの明治のインテリ(城戸四郎)は、殊更、自分の敷いてきた映画路線に自信を持ち、自分以外の人間がそれを変えようとしたり、矯めそうとするのを許さない。
 よって、こうした硬直した製作者のもとから作り出される映画は、時代遅れで古くさく、マンネリでダサく、要するに観客のメイン・ターゲットである若者や若い女性にアピールするようなものが生まれてこない。






 これら城戸四郎のウィーク・ポイントは、蒲田・大船の佳き時代からすでに周囲の者には知られていたのだが、その存在の大きさや自分に異を唱える者を周到に排除していく工作(権謀術数)を恐れ、その体制を退陣に追いこむことができなかった。城戸は、その昔、松竹の総帥・大谷竹次郎から直々に蒲田撮影所の運営を任された、時の権力者・野村芳亭監督を蹴落として、蒲田の所長になったほどの策士である〔【野村芳亭、知られざる巨人 <その17>】2013年4月6日付、参照〕
 だから、その城戸を追い落とす、となると容易ではない。その言動(反感)や行動(計画)がちょっと睨まれただけでも、格下げになったり、閑職や地方へ飛ばされるから迂闊な事も言えない。

 しかし、こんな巨大な城戸四郎に挑戦した男たちがいた。有名なのはメッセージ色が強い、政治的な内容の、アンチ大船的な作品を作った大島渚監督らの松竹ヌーベルバーグのグループであるが、そのずっと以前、戦前にも城戸が敷こうとしたディレクター・システムや城戸自身(の性格)に反抗して、諸口十九勝見庸太郎などの蒲田のスターが撮影所を去っていく、ということがあった。

 しかし、これから紹介するのは、城戸と同じプロデューサー職、撮影所長にあった、製作畑の人間の話である。
 城戸体制への反抗と挑戦は、城戸が松竹から離れざるを得なかった時期--第2次世界大戦末期と戦後の公職追放--に乗じて現れ、また城戸が在任中の時にもしばしば登場して、城戸の心胆を寒からしめた。
 寒からしめた、はオーバーかも知れない。なぜならそうした心ある松竹人はその都度、城戸によって葬り去られてしまうから。
 
 しかし、自分が先々、更迭もしくは左遷、失脚の憂き目に遭うことが判っていながらも、行動を起さざるを得なかった彼らは、おそらく真に松竹を、松竹映画を愛していた人達であったろう。

 その勇気ある男たちは--

   狩谷太郎大谷博高村潔細谷辰雄三嶋与四治脇田茂・・・

 といった面々。今回はこの「清水宏追放」を機に、この時に大船にいた狩谷太郎を紹介します。 〔続く〕


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その2>

◆ 国策の戦争映画を敬遠した城戸が窮地に・・・

 とにかく大船撮影所のドンであった 城戸四郎 とは、そういう人物(昨日アップ分)であったから、時局に迎合した戦争を礼賛する国威発揚映画など作りたくはなかった。

 小津や五所といった子飼いの監督達にも撮らせようとしなかった。

 それは態度としては立派だが、この時期、軍関係に撮影用フィルムや機材、セットを作るための資材などすべてを押さえられていた日本の映画会社は、それらを撮影所に廻して貰うためにある程度はお国寄りの姿勢を見せ、ゴマをする よりしようがなかった。
 加えて製作される作品数は減少し、また内容も時局に合わない娯楽的なものは映画化が許可されなかったから、しぜんと勇ましい戦争物や愛国的なテーマのものばかりとなる。
 城戸はそれが嫌だったから、これ見よがしな国策モノには手を染めなかったのだが、それでも 吉村公三郎 など当時の新進監督や二線級の監督には戦争映画を撮らせてはいた。吉村監督の『西住戦車長伝』 (昭和15=1940年)とか、

      ♪ ああ あの顔で あの声で
              手柄たのむと 妻や子が ・・・

 の主題歌「暁に祈る」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)が映画とともに大ヒットした 『征戦愛馬譜 暁に祈る』 (昭和15年、佐々木康監督)などがそれである。

 だがそんなものではまだ足りない。ライバルの東宝は、『ハワイ・マレー沖海戦』 (昭和17=1942年)や 『加藤隼特攻隊』 (昭和19=1944年、いずれも監督は山本嘉次郎)などそれこそイケイケな国策の戦争モノを大量に製作・公開して、大いに潤い、よろしくやっている。軍部のウケもいい。
 それに比べて「松竹は何をやっとる、なぜもっとお国に協力した作品が作れないのだ」ときて、「それは城戸四郎がいけない」という具合に、時の撮影所長に対する風当たりは日増しに強くなってくる。
 当時の状況を城戸自身はこう書いている。

 …(略)…松竹内部においても、城戸が時局に乗り遅れるというような批判が出て来て、それが僕の耳にも入ったわけだ。東宝は、海軍と協力して新しい資材を購入しているというのに、松竹の方は少しも見通しがきかない。
 これは城戸のうぬぼれが禍しているという批判がちらちら僕の耳に入って来る。
 僕自身としては確信があったので、いわゆる銃後の健全娯楽映画中心に製作をつづけていた。
                (『日本映画傳 映画製作者の記録』城戸四郎、文藝春秋新社)


 そんな内向きな城戸の背中を押すべく、大阪の松竹本社から送りこまれたのが、狩谷太郎 であった。 〔続く〕


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その3>

◆ 城戸のいぬ間に大船イズムを転換しようとした狩谷太郎 <前篇>

 …(略)…松竹の内部では依然として城戸は乗りおくれるということが云われ、白井松次郎会長は、狩谷太郎を大船の次長として、僕の所によこす。
 どうもこれが監視の役らしい。その上大谷社長もややそれに動くという気配が見えてきた。…(略)…。そこで多少の腐り気味になってきた。
                (『日本映画傳 映画製作者の記録』城戸四郎、文藝春秋新社)


 〝腐り気味になってきた〟城戸は、南方視察でシンガポールなどに渡り、帰国した昭和18年(1943)5月中旬、ついに大谷竹次郎社長に「撮影所長を辞めたい」と申し出て、了承される(*1) 。敏な大谷社長はこの時すぐ、

 大谷は、白井信太郎をそのあとの後継者にどうだと云ったから、僕は結構でしょう、といって白井を推薦した。
 ことに白井は製作に興味を持っているから、喜んで引き受けましょうということで白井が撮影所長に就任した。                                         (前掲書)


 白井信太郎はこの年の6月に大船撮影所長に就任するが、ほどなくして城戸体制の時に撮影所次長だった狩谷と交替することとなる。狩谷はその前は関西の松竹にいたのだが、昭和17年(1942)の暮れ、大船に赴任していた。
 『松竹大船撮影所前松尾食堂』(山本若菜、中央公論社)にこうある。

 その年の暮、城戸所長がいつも通りに、脚本部の野田〔高梧〕、伏見〔晁〕、池田〔忠雄〕等の諸先生と、野口鶴吉さんをお連れになって、ドヤドヤとおいでになりました。
 その中にお一方、見知らぬ方がいらっしゃいました。
 背の高い、痩せぎすで、黒縁の眼鏡をかけた面長の品の良い端正な方でした。
 オーバーをお脱ぎなさろうとするのを、お手伝いして、私はその黒い、少し長目のオーバーの、手さわりの柔らかく、暖かいのに驚き、さらに、その軽いのにまたまたびっくりして、ずいぶん贅沢な物をお召しなのだナと思いながら、お顔を見上げました。
 眼鏡の中の細い目が、やさしく微笑んで、薄い唇で「有難う」といわれた時、私の胸は急にドキドキしてしまったのです。                           ※〔〕内、ジャズ野郎註



 狩谷太郎は、贅沢品を身につけたソフィスケイトな物腰で、およそカツドウヤらしくない、ハンサムな中年男であったようで、『~松尾食堂』の著者で同食堂を切り盛りしていた二十歳過ぎの 山本若菜 は、たちまちポーっとしてしまう。やがて彼女はこの妻子持ちの色男と道ならぬ事にハマっていく。            〔続く〕

*1「城戸のその後」  城戸四郎は大船撮影所の所長を辞め、松竹本社に戻って専務となるも昭和18年の11月に正式に松竹を退社。その後、当時、邦画の製作・興行の一切を管理していた国策会社の大日本映画協会に常務理事(後に専務理事)として加わる。


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その4>

◆ 城戸のいぬ間に大船イズムを転換しようとした狩谷太郎 <後篇>

 先にも書いたように、城戸の後を受けて大船撮影所長に就任した白井信太郎は、早々にその職を狩谷太郎に譲り、所長の座を降りた。

 城戸さんが、野口〔鶴吉〕、古田〔弘隆〕さんや、脚本部の方々とおいでにならなくなると、狩谷次長が企画部の-今まで企画部があったことを私は知りませんでした-海老原〔靖兄〕、前田〔?〕、清島〔長利〕(後のシナリオライター椎名利夫)など、今までお顔をしらなかった諸氏を連れて呑みにいらっしゃいました。
「次長さん、ビール」
 と、私がご注文を通すのを聞いた海老原さんが、
「次長じゃないよ、所長だよ」
       (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社) ※〔〕内、ジャズ野郎註


 というわけで、その年=昭和18年の秋に、それまで撮影所の次長であった狩谷太郎は所長に格上げとなる。狩谷新所長は海老原、前田、清島ら企画部の面々を擁して、なんと城戸の築いた松竹大船のディレクター・システムをぶっ壊そうと考えていた。

 狩谷所長は、この方々をブレーンとして連れて来られ、監督至上主義の大船を、プロデューサー制に改革されようとなさったのです。                        (前掲書)

 〝監督至上主義〟ディレクター・システムについては、前にも書きましたが、この終戦の時期、戦地に行っていた松竹の助監督・西河克巳がその概要を説明しているので、念のために転載しておきます。

西河  大船というのところは独特な監督システムで、今と違ってプロデューサー兼監督みたいなものです。全員が山田洋次みたいなものですから、所長になってみても、非常にうっとおしいんですね。
 〔狩谷〕所長が何とかかんとか言っても、だれも聞いてくれない(笑)。
 当時は各組がみんなプロダクションですよ。勝手にやっていましてね、いまのように製作部が横の連絡をとったり統一したりしないんです。
 製作部というものがないんですから。
 ですから、勝手に社内プロダクションが動いているようなものでしょう。一国一城の主がいるようなものですから、所長命令なんか誰も聞いている人がいないような状態ですから、既成監督のそういうものが及ばない、自分の直系の子分といいますか、息のかかった者をつくりたいというのが、あの人〔狩谷〕の本音だったんですね。
   (【蕩尽の映画、蕩尽の人生  西河克巳インタビュー】 聞き手・山根貞男
    『ユリイカ 3月臨時増刊 総特集 監督 川島雄三 』〔1989年3月、青土社〕所収)
                                     ※〔〕内、ジャズ野郎註


 息のかかった者、つまり自分の手足となって働いてくれる、子飼いの監督を作りたかった。そういった意図から、狩谷は撮影所内の助監督たちに試験を課して、合格すれば即監督に昇格させるという、思いきったプロジェクトを始める。 〔続く〕


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その5>

◆監督昇格試験で川島雄三を監督に

 狩谷の行った「監督昇格試験」は、この当時、国が定めた「映画法」に基づいて日本映画監督協会が映画業界の各職種(監督やキャメラマン、録音、俳優などすべて)に課していた免許制の「資格認定試験」とは違う、別物である。
 あくまでも松竹在籍で、3年以上の助監督経験のある者が受けられる、大船撮影所内の「監督の昇格試験」である
試験で合格して監督になる、ということになれば、師匠の大監督のプッシュで監督に昇格したわけではないから、今までのような、封建的なしがらみもある程度はなくなる。

 さらにこの試験を狩谷が行った目的は、子飼いの監督を作るだけでなく、監督自体の数を早急に増やす、ということがあった。

西河  ええ、小津(安次郎)さんがいない、渋谷さんもいない、吉村さんもいない。せいぜい原研吉と大庭〔秀雄〕さんも何かちょっといなくなったりしたんですが、要するに、人がいないわけです。
 だから、新しい監督をつくらないといけないということがあった時に、狩谷さんは松竹一族じゃなくて、東大出の人で、頭脳流入でどこかから連れてこられた人なんですよね。
     (【蕩尽の映画、蕩尽の人生  西河克巳インタビュー】 聞き手・山根貞男、
      『ユリイカ 3月臨時増刊 総特集 監督 川島雄三 』〔1989年3月、青土社〕所収)
                          ※〔〕内、ジャズ野郎註


 太平洋戦争も後半に入っていたこの時期、作品数は減少していたとはいえ、映画会社なのだから新作を年に十数本は作らねばならない。ところが大船の主力監督--小津安二郎、吉村公三郎、渋谷実など--は、応召されて戦地に行って不在であり、売れる作品を作れるほどのベテランの監督が極端に減っていた。これでは現場は廻らない。
 そこで狩谷はいっそのこと、チーフやセカンドあたりの助監督を一足飛びに監督にしようとしたのである。

 この試験で合格し、入社4年という早さで監督に昇格したのが、例の、奇才と呼ばれた 川島雄三 であった。

 これ〔監督昇進試験〕は従来の監督推薦による慣習を破ったもので、親方の監督の発言力の強弱によって、選択を左右される不公平さをさける狩谷所長のねらいであった。
 テストの問題は、森本薫の『激流』の一節で、それの演出プランとコンテを書けというものであった」
 萩原〔萩原徳三〕さんはこの試験に落第しました。
 そしていつもご一緒だった川島さんが、トップで合格されたのです。
 後日、所長をやめてから狩谷太郎は私にこういいました。
「大庭チャン(秀雄監督)がね、川島君の答案を持ってきて
『所長! 所長! すごい! このコンテのたて方はすごいですよッ!』って、
 興奮して所長室に駆け込んできたんだよ」と。
        (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社) ※〔〕内、ジャズ野郎註


〔続く〕

PS 昨年(2013年)、5月8日アップの【 松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その8> 】「 ◆芳太郎を引き受けた川島雄三という男 」でも、この監督試験で大庭秀雄監督が川島の答案に感激して所長室に駆け込んできた話を紹介しています。 


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その6>

◆ 川島雄三に撮らせたデビュー作が不評で・・・

 監督になった川島は、時の流行作家、織田作之助の『清楚』を脚色した『四つの都』を第1作として映画化することになるが、この題名が良くないとケチがつき、変えたくなかった川島はさんざん粘ったがついに折れて、タイトルは『還って来た男』と変わる。
 主演は、実際に戦地から復員して(還って)きた佐野周二。
 ところがこの作品、不評の上に、興行もさっぱりで、川島を監督に抜擢した狩谷は社内で集中砲火を浴びる。

-  その狩谷新体制のもとでデビューした川島雄三の評判は、どうだったんですか。
西河  『還って来た男』は、僕が兵隊に行ってる間で見てないですが、評判が悪かったですね。残っている雑誌を見ても、映画批評は悪かった。
 というのは、当時の映画批評も大政翼賛会ですから、当時の非常時に合わない作品だと断定されていますしね。
「この非常時に、ふざけたこういうものは価値なきもの」とやられていました。…(略)…。

-  そうやって強引に撮って、出来上がった作品が不評となると、狩谷という所長は面目丸つぶれですね。
西河  あんな者に撮らした者の責任を問うとか、本社からも言われたらしいです。
 だけど、狩谷さんは相当頑張ったようです。二度と撮らせられないところを、何とかしてこれ〔川島雄三〕に撮らせようと。 
             …(略)…
-  …(略)… その人〔狩谷〕が頑張ったおかげで、川島雄三は監督をつづけられたんですね。
西河  それは確かで、狩谷さん自身がそう言っていました。
     
「木下恵介と川島雄三だけは、私が所長をしていなきゃ監督になれなかった」と。
 狩谷さんは非常におとなしい人で、自画自賛をしないような人でしたけど、酒を飲むと、そのことだけは言っていましたね。
    (【蕩尽の映画、蕩尽の人生  西河克巳インタビュー】 聞き手・山根貞男、
     『ユリイカ 3月臨時増刊 総特集 監督 川島雄三 』〔1989年3月、青土社〕所収)
                                ※〔〕内、ジャズ野郎註


 西河監督のコメントの狩谷所長の言にあるように「木下恵介と川島雄三だけは、私が所長をしていなきゃ監督になれなかった」・・・次回は、その 木下惠介 (と狩谷太郎)のお話です。  〔続く〕



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新作プレビュー  『 あなたを抱きしめる日まで 』

◆ 引き離された〝息子〟を探す、母と〝息子〟の各駅停車ぶらり旅


「あなたを抱きしめる日まで」ポスター
(C)2012 PHILOMENA LIMED, PATHE PRODUTIONS, BRITISH FILM INSTITUTE AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION. ALL RESERVED.


 罰当たりな〝不信心者〟のジャズ野郎でありますから、日頃行う〝宗教行事〟といえば、せいぜい、朝、仏壇に手を合わせることぐらいが関の山ですが、キリスト教の中でも カトリック っていうのは「あれもダメ、これもダメ」と戒律が厳しくて、しかもそのカトリック信者が国民の8割以上を占める アイルランド は大変ですな。
 何せカトリックでは、離婚も避妊も中絶も(基本的には)NGだってことで、10代の娘さんで〝オイタ〟して子供でもこさえちゃった日にゃ、家族の恥、一族の恥、人間の恥、てな具合に迫害されて、一生、肩身の狭いを思いをして生きていかにゃあならない。 

  この映画『あなたを抱きしめる日』のヒロイン・フィロミナは、まさにそうした悲痛な境遇を生き抜いてきた女性です。

〔 フィロミナ(ジュディ・デンチ)は、今から50年前の10代の頃、若気の至りでうっかり妊娠。そのせいで、家から追ん出されて、修道院に入れられてそこで出産するのだが、衣食住にありつけたものの、産んだ我が子に会える時間は1日1時間。それ以外の時間は、すべて修道院に奉仕、つまりは死ぬほどただ働きをさせられる、ってことで、
           「はー、修道院ってそんな酷いトコなん?!」
 と思う間もなく、3歳になったフィロミナの赤ちゃん・アンソニーは腹黒いシスターによって、勝手にアメリカの里親に売り飛ばされてしまう!
 フィロミナは、その時の哀しみと苦痛、そして後悔を胸に秘めつつ、息子に会いたい一心で生きてきた。その間、何度も修道院に問い合わせたが、息子の消息は「不明」の一点張り。
 ところがひょんな事で職場を追われたBBCのジャーナリスト・マーティン(スティーヴ・クーガン)と知り合い、強力な取材力と押しの強さを持つ彼を味方に引き入れて、今、50歳になっているハズのアンソニーを探しに、アメリカへ旅立つ。
                そこで二人は早々に、ある事実に直面する…… 〕



「あなたを抱きしめる日まで」シーン1
▲ アメリカ到着--荷物と一緒にカートに乗ってご入来のふたり
(C)2012 PHILOMENA LIMED, PATHE PRODUTIONS,BRITISH FILM INSTITUTE
 AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION. ALL RESERVED.


 修道院で無理矢理、我が子と引き離されたフィロミナが、マーティンとともにアメリカに渡って、息子のアンソニーに近づいていく〝息子捜しの旅〟がちょいとスリリングで面白い。
 息子の知人達を尋ねていくうちに浮かび上がってくる〝我が子の人生〟--学校への入学(式)とかスポーツを楽しむ少年時代、大学を経て就職、友人達との交友などなど--本来、親も傍にいて一緒に楽しんだり、泣いたり笑ったりできたハズの人生を、息子の友人達の証言をもとに〝追体験〟するしかないフィロミナの切なさが胸に迫ってきます。

 同時にこのフィロミナ、結構クールで気の強い毒舌婆ちゃんなもんだから、マーティンと事ある毎に衝突
 重大事に直面すると「私、やっぱり辞めとくわ」と弱気になり、かと思うと、翌日には「やっぱり、やってみる!」と前言撤回を繰り返す・・・老人によくあるこうした気まぐれに付き合うマーティンには、この「修道院が赤ん坊を外国に売っていた」証拠を掴んで、人身売買のスキャンダルとして発表して第一線に復帰したい、てな下心がある。
 なもんで、フィロミナの御機嫌を取って、その気まぐれに付き合うんだけど、それでも時々、ムカついちゃって付き合いきれなくもなる。

 そんなフェロミナとマーティンの関係は、いつしか本当の親子のそれになっていく。
マーティンはフィロミナの〝息子〟みたいになっていき、口うるさい母親とビジネスライクな息子が旅先で言い争い、ちょいちょいムッとして、また仲直りして、またケンカして・・・そんな親子ゲンカが爽やかに展開していくあたりは、この前紹介した 『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』 と同じ調子です。
 『ネブラスカ』は父と息子の旅だったけど、コチラは母と息子の旅ってわけです。どっちが感動的か、どっちが泣けるか、見比べてみるのもいいですね。


「あなたを抱きしめる日まで」シーン
▲ 007シリーズで「M」を演じたジュディ・デンチ(右)。でもココではシワも隠さぬ、
 ノーメイク(じゃないかと思うけど)で登場して、子を思う母親役を適演。
(C)2012 PHILOMENA LIMED, PATHE PRODUTIONS, BRITISH FILM INSTITUTE AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION. ALL RESERVED.


 監督は『グリフターズ』『クィーン』の スティーブン・フリアーズ ・・・昔あったトゲはなくなって、随分丸くなった気がするけど、無難な手さばき(演出)はこの題材にはマッチしてた。
 
 フィロミナは息子探しの旅の果てに、首尾良くアンソニーと巡り会えるのか・・・事の次第は劇場にて。

 ■ 3月15日より東京・新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座、
     Bunkamura ル・シネマ、札幌シネマフロンティアほかにて全国ロードショー
                              配給:ファントム・フィルム  ■



< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
  『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、
  伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの
  確執とともに描いた、
        『 ラストシーンの余韻 』 〔電子書籍版〕、
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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その7>

◆ 木下惠介にデビュー作を撮らせる

 川島雄三は、処女作の『還って来た男』 (昭和19=1944年)を撮ってる最中に赤紙が来て、弘前の連隊に徴兵検査を受けに行くが「丙種・失格」となって、すぐに大船に戻ってくる。
 川島監督を御存知の方は、青森は下北の在の川島一族が代々、近親結婚を重ねたために雄三は劣勢遺伝により筋委縮性硬化症という病にかかり、これに終生苦しめられた事を御承知かと思うが、松竹に入社した時にはそれは表面化していなかった。
 西河克巳は、助監督時代、ロケ先のスキー場で川島がスキーに乗って楽しげに軽やかにゲレンデを滑っていたのを覚えている。
 しかし年を経るにつれ、雄三の身体は、その筋肉は萎縮し始め、片脚を引きずって歩いたり、腕も変形して伸びなくなり、背広やシャツを着るのにも難儀するようになっていく。

      そういう人物がタフな監督業をこなせるのか? 

 もしも狩谷の監督試験が行われず、助監督暮らしをその後も続けていたら体の悪さを理由にされて、彼は一生監督になれなかったかもしれない。

 まして大船の撮影所長が、シティボーイのインテリで、田舎臭さを嫌ったといわれる、健全な 城戸四郎 であったならば、川島は忌避され、助監督を辞めさせられて、撮影所にもいられなくなったのではないか。

 そう言う意味では人を見る目を持った狩谷太郎が所長だったことは、川島にとって千載一遇のチャンス、絶好の巡り合わせであったと思われるのだが、そういう人物がここにもう一人いる。

 戦後、東宝の黒澤明と並ぶ新鋭で、〝天才監督〟と言われた 木下惠介 である。

 才人・木下のデビュー作は菊田一夫の戯曲を映画化した『花咲く港』(昭和18=1943年)だが、この映画にゴーサインを出し、成功に導き、木下惠介にラッキーな監督人生の〝はじまりのみち〟を示したのも狩谷であった。

 〔大庭秀雄作品の〕『むすめ』に続いて『花咲く港』
 吉村組のヘッド助監督だった木下恵介さんの第一回作品で、木下監督の才気はこの一作で世の人々に注目され、狩谷所 長は、
「僕の目に狂いはなかった」
 と、自慢されました。
      (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社) ※〔〕内、ジャズ野郎註


〝僕の目に狂いはなかった〟と狩谷は胸を張ったようだが、もともと木下が映画用にリライトした『花咲く港』のシナリオをパスさせて、映画化の許可を与えたのは所長時代の城戸であり、その撮影中にも城戸は松竹専務の座にあって何くれなく木下を応援していた。

 惠介に大いに期待していた城戸四郎専務の計らいで、予算も通常の新人作品以上に計上されたが、撮影日数が大幅に延び、ロケの費用が嵩んで、城戸のご機嫌はだんだん斜めになってきた。
                           (『天才監督・木下惠介』長部日出雄、新潮社)


 と、最後は金が余計にかかって苛ついたようだが、新人の第1作目に法外な製作費を出すなどは、ケチな城戸には珍しい事で、彼も木下惠介の才能に気付いていたし、期待していた。城戸は助監督時代からせっせとシナリオを書いては持ってくる、木下の情熱と才に早くから目をつけていた、という。      〔続く〕


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その8>

◆「監督を辞める」と言った傷心の木下を思いとどまらせる

 しかし、とにかくまだ青二才だった木下監督を現場レベルで叱咤激励したのは、城戸四郎ではなく狩谷太郎であり、狩谷の木下への期待は城戸に負けず劣らずであった。

 この後、木下は監督第2作に『生きてゐる孫六』 (昭和18=1943年)を撮るが、評判は悪く、しかも興行も不振だった事から、木下は「監督を辞める」と言い出す。
 この『生きてゐる孫六』について、長部日出雄の『天才監督 木下惠介』(新潮社)には「客の入りは悪くはなかった」とあるのだが、『天才監督~』の同作品の説明にもあるが、内容というかストーリーが複雑で判りづらく、評価はマチマチであった。

 木下監督の二作目は『生きてゐる孫六』
 この作品は賛否両論だったようで、傷つかれた木下監督が、所長室で所長に、
「僕は監督をやめますッ」
 と、真剣にいわれ、所長もまた真剣に即座に、
「君が監督をやめるなら、僕は所長をやめるッ」
 と、木下さんを励まされたそうです。
  (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社) ※〔〕内、ジャズ野郎註


 狩谷太郎は、『生きてゐる孫六』の成績に気落ちして「監督を辞める」と言った木下監督に「自分も所長を辞める」と言い返して励ました、という。
 木下は行く末が有望とはいえ新人の一監督である。それを翻意させるために自分も辞めると、共腹を切るような事を言うとは・・・狩谷太郎はなかなかの人である。

 しかし--このエピソードを知ると、ハタと思い当たるところがある。

 これは、3月5日付の【 清水宏 恐るべき子供〝天使と悪魔〟 <その46> 】の最後でも触れたが、映画『はじまりのみち』の事である。






 『はじまりのみち』の中で、木下監督は戦争を批判した 『陸軍』 (昭和19=1944年)を発表し、その反戦の意図を軍部に悟られて糾弾され、監督を辞めるとして大船撮影所を辞する。その後、木下は脳溢血で寝たきりになった母を遠い山向こうの疎開先までリアカーに乗せて運ぶ、という彼らしい清らかな親孝行ぶりを見せるのだが、その発端の「監督廃業」宣言は、もしかすると『陸軍』ではなく『生きてゐる孫六』の時のことではないのか。

 ま、『生きてゐる孫六』の時にも辞めると言って、『陸軍』の時にも言った、としてもおかしくはない。木下惠介は映画一途の純情(万年)青年だし、かつて助監督時代にはすぐ手を挙げる 島津保次郎監督 に付いていてブン殴られた時には頭に来て、すぐ撮影現場から立ち去って帰ってしまった、ナイーブな直情型だから、なにか失態やトラブルがあったりすれば、自責の念に駆られて感情的に「辞める!」と言ってしまうこともあるだろう。

 そこが木下惠介のいいところでもあり、また損なところでもあるのだけれど(ずっと後、昭和40年に大作『香華』を撮った前後に城戸と対立して、木下は松竹を退社)・・・。

 そして、木下の「監督廃業」宣言が『生きてゐる孫六』か『陸軍』か、も大事だが、もっと疑問(問題)なのは、木下監督(加瀬亮)が辞去を告げに行った撮影所で相対した人物(どう考えてもそれは撮影所長のハズだが)は、城戸四郎(大杉漣)その人であった、という部分である。
 この人物が撮影所長であるならば、当然、狩谷太郎でなければならないハズだが、映画では城戸が木下から辞表を受け取り、しかし「受理しないよ」と言って、頭を冷やすように諭していた。

 これは本当(事実)か・・・?

 事実ならいいが、もしそうじゃなかったら、何らかの脚色なのでしょうね。
 この撮影所長を狩谷太郎でなく城戸四郎にしたのは、狩谷では知名度が低くて役不足だという事かも知れないし、事実、木下監督の相談を受けたのは城戸であったのかもしれない。
 城戸が大日本映画協会に行くのは、(城戸の本によると)昭和18年の11月で、『陸軍』の公開は翌19年の12月7日。木下が『陸軍』完成後に「監督を辞める」と決意したとして、大船撮影所を訪ねたとしたら、その時、城戸はもう大船どころか松竹にもいない、という事になる。いくら、松竹大船の功労者でも、本社の松竹を辞めていたのならば、撮影所の、しかも撮影所長の席には居れないハズではないか・・・。

 だからジャズ野郎としては、この時の、「監督を辞める」と息巻いた木下惠介を宥めた人物は、狩谷太郎のように思うんですが。

 因みに・・・映画『はじまりのみち』のどっこにも、狩谷太郎は出て来ない。 〔続く〕


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その9>

◆ 短命に終わった狩谷体制・・・その終焉 <前篇>

 西河監督が語った狩谷の言葉--

    「木下恵介と川島雄三だけは、私が所長をしていなきゃ監督になれなかった」

 --は、短い間でも大船の撮影所長を勤めた狩谷太郎の大いなる自負心の現れととってもいいと思うが、この他にも狩谷は、今ではよくあるが、この当時はまだどこの映画会社もやっていなかった、映画タイトルが平仮名だけ、という作品を公開してヒットさせたりもしている。

 次長から所長になるかならない頃、大庭秀雄監督の『むすめ』が封切られました。
 この題名がなかなかきまらず、揚句の果て、狩谷所長発案の、今までなかった平仮名だけの『むすめ』にしたところ、内外に評判がよく、入りもよかったとかで、その後、渋谷実監督『をぢさん』、原研吉監督『おばあさん』と、平仮名の題名映画が続き、とくに『おばあさん』は飯田蝶子さんの主演で、久し振りの大ヒットになったそうです(十九年一月封切作品)。
      (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社) ※〔〕内、ジャズ野郎註


 本当は、タイトルを平仮名にするなんて事よりももっと大胆なことがしたかっただろうし、変えたい事もいっぱいあっただろう。何せ、この戦争末期の大船撮影所には城戸四郎はいなかったし、暴君・清水宏監督もいない。
 そして大船の良心ともいえる小津安二郎監督も戦地にあって、大船にはいない。

 この小津の3度目の応召に関しては、戦争映画の企画の 『ビルマ作戦 遙かなり父母の国』 や、接近してきた軍関係者(特務機関の光機関)から小津は戦地で映画を撮るように懇請され、インドの独立運動家 チャンドラ・ボース(スバス・チャンドラ・ボース) の企画(『オン・トウ・デリー』、邦題 『デリーへ、デリーへ』 )などを持って、シンガポールへ軍報道映画班として派遣されたのであるが、実はこの裏には狩谷の思惑があったようである。

 そして小津先生も小津組のスタッフを連れてシンガポール(だったと思います)へ行かれることになりました。
 松竹が陸軍の要請を受けて、南方軍の活躍を撮るためでした。
「陸軍からの監督の指名はとくになかったが、小津監督は何となく煙たいので、小津さんにきめたのだ」
 と、当時の撮影所長・狩谷太郎さんが、後年述懐されました。         (前掲書)


 〝小津監督は何となく煙たい〟とは、やはり小津は城戸の敷いたディレクター・システムに安住する大御所であったから、狩谷がそれをプロデューサー・システムに転換しようとする時に、城戸の次に厄介な存在になると踏んでいたのであろう。

 それにしても、戦地へ送る撮影隊の中心人物(責任者)として松竹から大監督の小津が選ばれた、のではなく、その人物は実は誰でもよくて、狩谷太郎が独断で選んでもいいというような、そんな安易な、打算的な操作が入る <いい加減な選定> でもって、小津安二郎が戦場に征かされた、とすれば、それは由々しきことではないか。
 狩谷太郎が大船でやった事、やろうとした事について、その大半は賛成できるとしても、この小津出征の件だけは、ジャズ野郎はいただけない。







 それはともかく--川島雄三のデビュー作での批評面・興行的での失敗、木下惠介の『陸軍』が軍部の逆鱗に触れるなどなど、行動は意欲的だが実が伴わない、というような批判が狩谷の周囲に巻き起こったことは想像に余りある。
 松竹外にいて、大船の状況を眺めていた城戸にも狩谷のやらんとしている事は、大船に残してきた城戸の息のかかった者から情報が入っていたであろうから、元専務の威光をかざして裏からじわじわと失脚させる手はずを整えていたとも思われる。
 やがて松竹上層部の意向や撮影所内の空気が自分に対して冷たくなり、締め付けがきつくなっていく。
 そうした動きに対し、煩わしく息苦しく感じていた狩谷は大船を去っていく。

 十九年十二月木下監督の『陸軍』が封切られましたが、この制作には、監督は勿論所長も又、大変な力の入れようで、軍部他様々な困難があったようですが、それを乗り切り、出来上がった作品は、それだけに見ごたえがありました。田中絹代さんが、整然と前進し続ける一聯隊の兵隊さんの中から、わが子を一目と捜し求める、あの長いシーン……入りもよく所長の鼻を高くしました。

 この頃から、店を「帝国人絹軍需部」に貸してしまい、〔山本若菜の〕父は病床に臥しました。
 狩谷所長は父を見舞い、近々所長をやめると打ちあけました。父は、
「それがいい、ここはあなたの来るようなところではない」
 と言い更に、
「若菜は一生お宅へ伺わせます」
 とはっきり言いましたが、数日後の二十年七月十五日病歿し、あとに母と五人の娘(若菜、さくら、葵、檀〔まゆみ〕、篝〔かがり〕)がのこされました。
 そして、その涙も乾かぬ二週間後、狩谷所長は大船を退陣しました。
                              (前掲書) ※〔〕内、ジャズ野郎註


 昭和20年(1945)の7月15日に、山本若菜の父が亡くなり、その2週間後に狩谷体制は退陣した、とすれば、狩谷太郎は日本の終戦を待たずに大船撮影所を追われた、ということになる。           〔続く〕


< 『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、
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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その10>

◆ 短命に終わった狩谷体制・・・その終焉 <中篇>

-  狩谷所長時代は長かったんですか。
西河  所長も駄目でした。続かなかった。インテリで、まともといいますか、ちょっと弱い人でした。紳士でしたけど、撮影所のような泥水の多いところでは、ちょっと務まらないタイプの人ですね。
      (【蕩尽の映画、蕩尽の人生  西河克巳インタビュー】 聞き手・山根貞男、
       『ユリイカ 3月臨時増刊 総特集 監督 川島雄三 』〔1989年3月、青土社〕所収)
                                ※〔〕内、ジャズ野郎註


 西河監督の言う〝撮影所のような泥水の多いところでは、ちょっと務まらないタイプの人〟という狩谷太郎の人間性について、狩谷と長く交際した 山本若菜 もそれを裏書きするような話を紹介している。

 狩谷次長に初めてお目に掛かってから一週間ほどたったある日、狩谷さんはお一人で昼食にいらっしゃいました。
   …(略)…
それからは、昼も夜も、「松尾」で召し上るようになりました。     
  …(略)…
 そのつど勘定を自前でお払いになるので、
「あの、今までは、所長さんの分は、あの……全部、会社の方へ伝票を廻しておりましたから、これからは会社の方へ……」
 と、まごつく私に、
「それはいけない、これからも、私が一緒の時はすべて、僕自身のつけにして下さい」
 と、きっぱりおっしゃいました。
   …(略)…
 この理想主義(?)が、戦後の荒波を乗り切れず、ましてや映画界-。彼の命取りになったのではあるまいかと、今、私は考えています。

 その頃 川口松太郎先生は、小島政二郎先生に、こう話されたそうです。


 「大阪の白井松次郎の睾丸を握っていて、財産が何もないなんて、狩谷太郎はよっぽど馬鹿だ」

 清濁合わせ呑む度量、それも濁を好む体質でなければ、当時の松竹の機構の中で、いじめぬかれたのも当然だったと思います。        (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社)

 映画は夢を売る商売だから理想主義も大いに結構だが、撮影所長ともなればその理想は理想として頭に入れながら、会社(松竹上層部)と現場(撮影所)との間を巧妙かつ狡猾に、打算的に、そして泥縄式に取り持って連繋させてゆかなくてはいけない。 〝清濁合わせ呑む度量〟 とはそういう事だろうし、こうした 〝しがらみだらけのドブ掃除〟 をやってのけるには、狩谷太郎は立派すぎた、紳士すぎた。

 食事代のツケを、慣例に倣って「所長室の経費」に廻そう(必要経費で落とせるように)とした「松尾食堂」の山本若菜に、「自分のツケにしろ」と言いはなった狩谷は、いわゆる真面目な、真っ当な常識人であったが、それではカツドウヤの世界は乗り切れない。それを見破った山本若菜も凄い女性である。






< 以後、書き記すことはみな、山本若菜が自ら記した『松竹大船撮影所前松尾食堂』の中で語られていることだから、ココに書いてもよいと思うが、いわゆる山本さんのプライベートな話なので、一応、このようにお断りを入れておきます。・・・ >

 大船に赴任した狩谷が初めて「松尾」を訪れた時(昭和17年の年末)、その店の娘・山本若菜は佐々木(康)組の助監督・ 萩原徳三 と恋愛関係にあった。恋愛関係と言っても、肉体関係のないプラトニックなものだったらしいが(と、山本若菜は書いている)、狩谷と出会って彼と長い間、不義の関係を続けていたようである。戦後、若菜は一時、店(実家)を飛び出し狩谷の許に走って同棲を続け、その狩谷に説得されて実家に戻ってきた、と同書にある(若菜が実家「松尾」に戻ってからも、狩谷との関係は続いた)。
 一方、狩谷は松竹大船を辞めた後、映像制作のプロダクションに入ってPR映画を製作していたようで、昭和33年(1958)頃、吉村組のヘッド助監督・森園忠(*1)に仕事を依頼する件が、やはり『松竹大船~』に書かれている。

 狩谷太郎は、城戸と同じ東大出ながら関西人らしい合理主義でもって、大船撮影所を変革し、新たな体制の中から魅力的な松竹映画を生み出そうとした。
 だが結果的には、その合理性が徒となって松竹を退社することになった。     〔続く〕

*1「森園忠」  元々は大映の助監督で、松竹を退社した 五所平之助 が大映で1本撮り、再び松竹で映画を撮る時に大船撮影所に連れてきて、そのまま大船所属になる。
 戦後、レッドパージで松竹を追われ、教育映画やドキュメンタリー畑で活躍。「松尾食堂」山本家の若菜の妹で4女の檀(まゆみ)と結婚。因みに松尾食堂は、撮影所の人間が入り浸った店だから、山本家の5人娘-若菜、さくら、葵、檀、篝〔かがり〕-は映画人かその関係の者と結ばれている。さくらは木下監督の弟で映画音楽家の 木下忠司 (後、離婚)、葵は檀の夫・森園忠が紹介した劇団「民芸」の経理の人間、篝は大船の監督・田中康義。そして若菜は狩谷太郎、という具合。


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Coffee Break - 排除される変革者、松竹を変えようとした人々 <その11>

◆短命に終わった狩谷体制・・・その終焉 <後篇>

 狩谷太郎は昭和17年の暮れか昭和18年初頭に大船にやって来た。

 その時、彼はまだ大船撮影所の撮影所次長であり、城戸所長が退いた後、短期だが所長を務めた白井信太郎に変わって大船撮影所長に就任したのは昭和18年後半。山本若菜の書いた『松竹大船撮影所前松尾食堂』によれば、終戦を2週間後に控えた昭和20年7月末に狩谷体制は退陣し、その後、狩谷は松竹を去った。
 すると狩谷所長時代というのは2年弱という事になるが、彼はこの時、ディレクター・システムの松竹大船をプロデューサー・システムに転換しようと動いた。こうした〝先進性〟〝合理性〟が旧態依然を良しとする松竹上層部に嫌われ、退陣に追いこまれた、ということはすでに書いた。

 狩谷太郎と「松尾食堂」の山本若菜の道ならぬ関係については、何度も触れてきたが、長いこと〝日陰の身〟であった山本は、

 四十四年秋、狩谷さんの奥様の三回忌がすんでから、私は狩谷さんと結婚しました。
 四十六年秋、狩谷さんは亡くなりました。
 …(略)…。
 もう一度、人間に生れ変ることが出来るのなら、私はまた女に生れて……もう一度、狩谷太郎と恋がしたい……。
                  (『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社)


とあるように、不倫の仲であった事には何の後悔もないばかりか、〝また狩谷と恋がしたい〟と書いているくらいだから、彼女は、一生涯、狩谷のことを愛していたようである。
 山本若菜にこんなふうに想われている狩谷太郎という人は、オトコしてもたいそう魅力的で、ダンディで、優しい男性だったのであろう。
 狩谷の本妻が亡くなってから結婚したとあるが、それまでの間、どういうふうに付き合っていたのか。『松竹大船撮影所前松尾食堂』には具体的に書かれていないので、二人の様子が分からない。(余計なお世話だが)それがちょっと残念だ。





 しかし、川島雄三のトンチキな行動を巡って、狩谷と山本が揉めた面白い話があるので、それを紹介してこの稿を終わることにする。それは戦後、川島がようやく一本立ちし、売れっ子監督として重用され出した時のこと、その頃、川島は「松尾食堂」の二階の空き部屋を下宿代わりにして寝泊まりし、山本家の若葉やその妹達を呼んでは、夜な夜な自分の身体を揉めませていた。

 川島さんは寝る前に必ず指圧を要求しました。足の裏は、妹達が交替で踏みましたが、指圧は私のかかりでした。ある夜、私は、
「いつまでやっていたってきりがないんだから、もういいでしょ」
 と、指圧をやめ、蒲団を掛けて立ち上がると、
「キッスンして……」
「えッ?」
「おでこにキッスンして……」
「やだァ……」
「ねえ、キッスン……」
「駄目よッ」
「おでこだから、カマイマセン」
「おでこ……」
 私は思いました。「そういえば外国映画ではちょっとした挨拶がわりに、頬や額にキッスする……別に、どうってことないんだわ」と。
 そこで私は、言われる通りにしました。
「もう一度……」
 私はまた唇を額に当ててやりました。
「もう一度……」
「もういいでしょ、早く寝なさいよッ」
「ねエ……もう一度だけ……」
「ええッ、めんどうくさい、いっそお口にしましょうか」
 私は唇を突き出してみせました。

 川島さん大慌て、
「いけません、狩谷さんに悪いデス」
 と言うと固く口を結びました。
「ああ、お休みなさい」私はさっさと下へ降りました。

 このおでこのキッスを狩谷さんに話したら(唇を突き出したことは伏せましたが)狩谷さんは真青になって、私に往復ビンタをあびせました。                        (前掲書)


 川島が背広やコートを着ようとすると、筋萎縮硬化症のためになかなかうまく着られない。それを見かねて女優などが手伝うと、「やめてくれ!」と邪険に振り払った、という同情されることを嫌った後年の川島を知るファンとしては、下宿の女性に甘えるヤニ下がった川島雄三というものは相当に情けなく思うけれども、しかしこの〝身内の女にとことん甘ったれる〟態度はいかにも川島雄三らしい。

 「いっそ口にキスしようか」とふざけた山本若菜に「狩谷さんに悪いデス」と言ったというのも面白い(川島雄三にしちゃ、律儀でマトモじゃないか!)。
 狩谷と山本の仲は撮影所内で知られていた事だったようで、川島としても自分を監督に昇進させてくれた狩谷にやはり恩義を感じていた。

 そして、このキッス話を聞いて狩谷が山本を往復ビンタした、というのは、いかにもこの時代の普通の男だなあ、という気がする。

 狩谷太郎は普通の、一般の良識ある男性だった。だが彼の所長時代が短命に終わったのは、その善的な、良心的な普通さ、ゆえであった。           

          〔完〕 ・・・ 他の〝変革者〟については、またいずれご紹介。


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『 ラストシーンの余韻 』 発売中!
映画ライター・高村英次、初の書き下ろし長編 『 ラストシーンの余韻 酒乱と失態、女難と頑迷、監督・溝口健二の狂おしき人生 』

高村英次

Author:高村英次
電子書籍版はアマゾン Kindleストア 及び 楽天ブックスから、紙の書籍版は製本直送.comより発売。直近の各コラムの末尾にある発売告知から販売サイトに遷移、またはポップアップ画面が出ますので、そこで購入できます。 

< プロフィール >
血液型:A型
趣味:サイクリング&ウォーキング&クッキング、デジカメでの写真・動画撮影
好きな場所:札幌ドーム、中島公園、中央図書館、豊平川
好物:コーヒー、ジンギスカン、スープカレー、ラーメン、「ロイズ」のソフトクリーム、「シャトレーゼ」のアイスバー・ピュルテ(塩キャラメル味)、びっくりドンキー、はま寿司、セイコーマート

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