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09-05 20:37

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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第1回>

◆ 内藤誠の勘違い 小津にドヤされたのは川島雄三ではない(1)

 前にも書いたが、今、私は映画(特に新作映画)を観るよりも各種の映画本を読む方が愉しく、中でも批評とかお堅い論文調のものではなく、監督や俳優の生い立ちとか撮影の裏話・ゴシップの類、名作映画が誕生するまでの軌跡、映画史なら「正史」よりもその裏側に埋もれているエピソードや「秘史」( 稗史 、と言った方がいいかも)なんかをほじくり返して納得・理解し、自分なりの映画史・映画誌を構成していくことを無上の喜びとしているが、たまに自分に関係してくる話題が出てきて戸惑うこともある。

 詩と文藝評論の月刊誌「ユリイカ」(青土社)は(最近は知らないけど)よく映画作家やスターの特集をしてくれて、興味ある映画人が特集されている時は購入して読むけれど、その中に日本映画の中でひと際キレたコメディや快作・怪作をモノした 川島雄三監督 を特集した号がある。


ユリイカ 川島特集
▲ 『 臨時増刊 総特集 監督・川島雄三 1989年3月(vol.21-4) 』青土社


 『 臨時増刊 総特集 監督・川島雄三 1989年3月 』 (vol.21-4) がそれで、この中に映画監督の 内藤誠 「川島雄三のマジック」 と題して川島監督に一文を捧げている。この一文、日本映画ファンや川島作品のファンなら一切ならず読んでいる文章だと思うが、この中で内藤さんは、川島雄三は大好きだがちょっとヤな奴らしい側面もあるのを知って悲しくなった、と書いている。それは以下の一節である--

 もっとも、高橋治『人間ぱあてぃ』所収の「許せない男」という一文を、たまたま手にした「夕刊フジ」で目にしたときは悲しかった。川島雄三が監督になることと引きかえに松竹大船の監督特権を放棄し、高橋氏たちに多大な迷惑をかけたという話である。しかも、わが偉大なる小津安二郎が彼を名ざしして「自分一人が監督になれば良いと思っているとしたら大船の監督も落ちたな、俺なら自分のことより先に後輩のことを考えるがな」といったという。ああ、川島雄三にして! 映画づくりにはイヤなところがあるんだなあ、としばらくブルーな気分になった。
                    ※註:下線はジャズ野郎。



 これを読んで私も〝ブルーな気分〟になったものだが、同時に腑に落ちないものが残った。周知の通り、川島雄三は身体の筋肉が萎縮していく難病に冒されており、その業を振り払うかのように酒や女に興じ、弟子の今村昌平や常連の小沢昭一などに召集をかけては某所で芸者を上げて騒いだり、ストリッパーを呼んだり、御法度のブルーフィルムを上映したり、と妖しげな催しを行って乱痴気騒ぎを尽くした粋人(変人)である( 川島雄三については、2013年5月8日付 【 松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その8>   ◆芳太郎を引き受けた川島雄三という男 】を参照 )。
 だから・・・と言ってはなんだが、そうした時にハメを外す素行が行きすぎて、松竹の、いや日本映画界の良心と言われた小津安二郎監督の逆鱗に触れて怒られる、といった事もあったんだろう・・・と最初はそんな風に理解した。だが、どうもおかしい。 <続く>

『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの確執とともに描いた、
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 - <第2回>

◆ 内藤誠の勘違い 小津にドヤされたのは川島雄三ではない(2)

 何がおかしいかというと、他の映画本--例えば吉村公三郎監督の著書や、昭和40年代に任侠映画のブームを巻き起こした東映の製作者・俊藤浩滋についての本 『任侠映画史』など--で書かれているこの当時(昭和20年代後半から30年代中頃)の状況を見ると、小津と川島はどうやら同じクラブ(現在の、若者が遊ぶクラブではない、功成り名を遂げた大人が通うバー・スナックのクラブである)で飲んでいたらしい事が分かるからだ。
 
 小津はともかく、大松竹の大御所(小津)に名指しで注意され、怒られた川島雄三が行けば顔を合わせるに決まっている、そんなバツの悪い場所(その場所とは当時、銀座でナンバーワンのクラブと言われた〝おそめ〟〝エスポワール〟といった名店)にのこのこと飲みに行くものか。呉越同舟を避けるに決まっている。しかし上記の本では小津も川島もそれらの店の常連でよく飲みに来た、と書かれている。

 では、二人は一旦は険悪な関係になったけれど、その後、和解して一緒に楽しく飲んだのかな、と思われる向きもいるだろう。でも映画監督なんてのは、濃密なタテ関係にある師匠と弟子ならともかく、同じ松竹の監督だとてお互いライバル関係にあって共にプライドは高く、しかも名匠の評価も定まって映画界初の芸術院会員となった小津に対して、日頃から自分自身に劣等感を抱き、社会に不満を託っていた川島が頭を下げて和解する、なんてことは考えにくい。


川島雄三・近景
▲ 川島 雄三監督 〔1918 - 1963 〕
出典:青森県むつ市のHP「川島雄三の部屋」 http://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm/41,0,107,html


 ずっと以前にアップした松竹映画の監督の人脈図をご覧いただきたい( 2013年5月4日付け【松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その4> 】)。
 小津は本流の大久保忠素門下だが、川島は師匠を持たない本流から外れた傍系(一匹狼)である。だからといって二人はもとから疎遠だった、とか、仲が悪かったということもないだろうが、当時の小津安二郎は松竹の中堅・若手監督から〝旧態依然〟の存在だとして陰で猛烈に批判されていたというし、小津も一旦ドヤシつけた後輩の逆恨みを恐れて、そうした輩が来そうなクラブやキャバレーには足を向けないハズである。

 もっとも小津は叱ったり、注意したりして離反していくような後輩や若手には極めて慎重にデリケートに接する人であり、永井健児の書いた 『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』(フィルムアート社) を読むと小津の若手に対してその一歩も二歩も引き下がった態度に触れて、敬服してしまう(この本の中には、読むといつも泣かされる件がある。後述)。

 それに(コレを言うと小津と川島のことを好きなお前の〝贔屓の引き倒し〟じゃねぇか・・・と思われるだろうが)、『幕末太陽傳』(昭和32=1957年・日活)みたいなウン十年に一本とも思われるような、秀逸なる喜劇映画を演出した川島雄三を小津が叱るわけがない。

 そうだ、その通り! 『幕末太陽傳』という作品名が出ると、ちょいと日本映画に詳しい人ならばすぐにピンと来るはずである。何にピンとくるかってぇと、小津が川島を叱ったッて話が内藤誠の完全なる勘違いであることに。        <続く>

『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの確執とともに描いた、
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第3回>

◆ 内藤誠の勘違い 小津にドヤされたのは川島雄三ではない!(3)

 小津安二郎が川島雄三をドヤシつけたのは、この当時、松竹に所属する監督達が開いていた寄り合い「大船監督会」の席上のこと。この会がいつ行われたかというと、この話を紹介している、当時、大船撮影所・助監督だった高橋治の本 『人間ぱあてぃ』 に「〔高橋が〕二本ほど身分は助監督で監督作品を作り、いよいよ退社届を出して契約監督になろうという時である。」と書いているから、昭和36、37年ごろのことと思われる (※1)

 となると 『幕末太陽傳』 は昭和32年(1957)の日活の映画で、川島雄三は松竹出身だが、戦後、映画製作を再開した日活にその発足の昭和30年(1955)に移籍し、この『幕末~』をもって日活を退社、以後フリーの立場で(松竹以外の)各社で映画を撮っていった(この当時もっとも演出料が高い監督だと言われた)。したがって昭和36、37年にはすでに松竹の監督ではないのだから、大船監督会の場に来るわけがない
 もっと詳しくいうと、内藤さんが読んでブルーな気分になったという高橋治著の『人間ぱあてぃ』「許せない男」の先に引用した部分(下線の文)に注目いただきたい。

 川島雄三が監督になることと引きかえに松竹大船の監督特権を放棄し、高橋氏たちに多大な迷惑をかけたという話

 昭和36、37年の話だとして、川島が(その時)監督になるために松竹大船の監督特権を放棄した、というのがそもそも違うのだ。何故なら、その時にはとっくに川島は監督になっている。川島雄三が監督に昇進したのは戦時中の 昭和19年(1944) であり、織田作之助の『清楚』を脚色した『四つの都』がデビュー作で、これは劇場公開のあたって 『還ってきた男』 と改題されて公開されている。
 だからその頃から昭和36、37年ごろまで残っていたという、

……小津監督が中心になって獲得したこのような監督に有利な既得権(※2)……
              『人間ぱあてぃ』高橋治、講談社文庫より

が、〝川島雄三〟によって反故にされ、以降、それが慣例化してどの監督の待遇も同じように<手当無し>となってしまい、後輩の高橋治が助監督からようやく監督に昇進した頃には、その有利な既得権がなくなっていて金がもらずに損をしたというその元凶、既得権放棄の言い出しっぺの張本人は〝川島雄三〟ではなく、別の人物なのである。


          人間ぱあてぃ 小
         ▲ 『人間ぱあてぃ 』 高橋治、講談社文庫


 大体、内藤誠が読み間違った大元の、高橋治の『人間ぱあてぃ』の 「許されない男」 の全文を読めば、もう一発でその勘違いが分かるのだ。なぜならば、松竹大船の監督既得権を反故にした男の話、として書かれているこの文章は、「赤八会」 という高橋治より二期上の助監督グループの中のひとりの男の事を書いたものであるからだ(もっともこの人物を批難する内容だから、題名で「許せない男」とうたい、文中でも〝その男〟としか表記しておらず、要するに実名は載せていない)。

 赤八会とは昭和26年(1951)に猛烈な数の応募者の中から助監督試験にパスして松竹大船撮影所に入社した8人のことを指し、昭和18年(1943)に行われた松竹・大船撮影所の第1回の助監督採用試験に合格した川島は、当然ながら「赤八会」ではない


 ・・・というわけで、私が力を込めて「内藤誠の勘違い」と言い切るのも納得していただけると思う。しかし小生程度の映画本の読み手ですら、この間違いに気づくのだから、すでに他の評論家やもしかしたら内藤さんご自身がどこかでこの誤りを認めたり、勘違いを訂正した文章を発表しているんじゃないかと思うのだが、どうでしょうね。

 内藤さんはおそらく『人間ぱあてぃ』よりも、それを掲載した「夕刊フジ」の引用の仕方が悪かったので、それを鵜呑みにして、自分の監督昇進のために既得権を放棄した人物を川島雄三だと思い違ったのではないか・・・と察する次第である。  <続く>


※1「高橋治」 高橋はいわゆる松竹ヌーベルバーグの一人で、大島渚や吉田喜重、田村孟などアンチ大船調をブチ上げた若手監督グループの同人として、ステレオタイプな表現を避け、メッセージ性の強い作品を作っていたようで(そういうのあまり好きじゃないから、私は未見です)、後に監督から小説に転じて直木賞作家となった(昨年、死去)。
 この人の第1回の監督作『彼女だけが知っている』と次作『死者との結婚』が昭和35年、『非情の男』が昭和36年。助監督の身分で2本監督し、3本目で一本立ちの監督になったとすれば監督昇進したのは『非情の男』の時、すなわち昭和36年となり、小津が若手をドヤシつけた大船監督会があったのはこの年あたりということになる。
                          ***
※2 「監督の既得権」  既得権というのは、松竹専属の監督が作品を撮らずとも、毎月、またその1年間にいくらかもらえる保証金(手当)のこと。松竹専属の証の「拘束料」みたいなもののようで、映画会社がそういうものを払えたのも客がワンサときた映画ブーム、黄金時代のおかげであろう。次回、詳述。


『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの確執とともに描いた、
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 - <第4回>

◆ 映画を撮らずとももらえた金をもらえぬようにした男


 昨日(9/13)からブログ画面のデザインを変更しています・・・内容はいつも通りの映画ブログです。
 もし旧デザインか、もしくは旧デザインの変形版みたいな画面しか映らない場合は、ブラウザのキャッシュ(履歴)をクリアにすると、新デザインが見られます。
 または、お気に入り登録されているアドレスをクリア(削除)し、お手数ですが改めて
    http://ag4nematwc.blog.fc2.com/ 
 と入力していただくと、新デザインが閲覧できます。なにとぞよろしく。

    ***************************

 高橋治の 「許せない男」 にある「〔高橋が〕二本ほど身分は助監督で監督作品を作り、いよいよ退社届を出して契約監督になろうという時……」という記述。コレどういう意味かというと、この当時、松竹大船では助監督の時は組合に属して松竹の会社員だが、助監督から監督に昇進すると1本いくらの契約者となるので、松竹専属であっても身分的には一旦退社しなければならない。
 その上で、改めて松竹(大船撮影所)で映画を撮る監督として(専属)契約して、1本撮るごとに演出料(ギャラ)をもらう。しかし企画が通らなかったり、病気などでその月、またはその年、映画を撮れない事もあるわけで、そうした働きのない時でも月にいくら(月保証)、1年いくら(1年保証)という手当(金)がもらえた。それが大船監督の持っていた既得権で一種の生活保障みたいなものだろうが、コレは小津や当時のベテラン監督が自分や後進のこと(生活)を考えて、会社側と掛け合って取得した大切な権利であった。

 それを赤八会、すなわち昭和26年の助監督募集試験にパスして入社してきた8人のうちの一人がそれをなしにしてしまったのである。 『人間ぱあてぃ』 にはこうある。

 大船の監督が諸事おっとり構えていられたのは、小津監督が中心になって獲得したこのような監督に有利な既得権があったからだった。だが、私が契約を結ぶ段になって、出された書類を見ると、月保証も一年保証もなくなっている。私はなぜそんなことになったのかを芸文室長に聞いてみた。
「あの監督がね、事務との取引きで、二条件を放棄するなら監督にするという話にのったんです。前例が出来たからもうどうにもなりません」
 良き大船の伝統の理解者を任じていた室長も、憤懣をかくせない口調だった。
              (以上、 同書「許せない男」より)


 「二条件を放棄するなら監督にするという話にのった」ので、その男は晴れて監督昇進と相なり、そのおかげでその既得権は廃止されて、以後その男の後輩の高橋治はおろか(おそらく)小津ら一線級の監督達も手当をもらえなくなってしまった、という事らしい。


中平康
▲ 中平康監督 〔1926 - 1978 〕
出典:高知県美術館のウエブサイト 「中平 康 映画祭 -映画をデザインした先駆的監督-」
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/previous/nakahira/nakahira.htm

鈴木清順
▲ 鈴木清順監督  〔 1923 -  〕
出典:ウエブサイト「昭和史に残る 不滅の日本映画 監督編」
http://nihon.eigajiten.com/suzukiseijun.htm
 
松山善三ほか
▲ 松山善三監督 〔1925 - 2016 〕松山は右、左が妻の高峰秀子、中央は仲人の木下恵介監督。
出典:ウエブサイト「時の最果てにて」 http://redanger.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-d1fb.html


 赤八会の8人とは、川島雄三同様、鬼才で知られた 中平康 (日活に移って『狂った果実』『牛乳屋フランキー』『若くて、悪くて、凄いこいつら』『危ないことなら銭になる』)、鬼才というか異才の 鈴木清順 (当時は鈴木清太郎。この人も日活に移籍)、先日亡くなった 松山善三 (『名もなく貧しく美しく』で監督、『人間の條件・全六部』『人間の証明』などの脚本家)などであるが、ジャズ野郎は某誌に書かれた赤八会のメンバーの名を目で追っていって、思わず「あッ」と叫んでしまった。          <続き>


『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの確執とともに描いた、
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第5回>

◆ いたいけな大学生時分の嫌~な記憶 (1)

西武池袋駅・東口
▲ 現在の池袋東口。西武池袋線「東口」が左下に。
出典:ウエブサイト「池袋沿線タウン情報」  http://search-2.jp/category/228619-1.html


 ココで話をグッと私的な、学生時代の情けな~いエピソードに転じよう。

 昭和57年(1982)に日芸の映画学科に受かって上京した私は、文字通り右も左も分からない田舎者で、あらゆる失敗をしでかし、周囲の人間にはバカにされ笑われて、本人も「オレッてバカだなあ、なんて情けないんだ」と嘆息しつつの学生生活は苦痛の一語で、青春を謳歌するどころか、楽しいことも嬉しいこともまったくなく、親を泣かせて入った大学をダブる(留年する)ことなく4年でつつがなく卒業することだけを念じて生きていた。

 今思うと、私みたいな環境適応能力のない輩は、東京のような大都会に出ていっちゃいけないんであるが、当時は若く、上京した当初は「ここに骨を埋めるんだ」という決意で燃えていた。でもその過剰な決意とは裏腹にやらかす失敗--新しい環境下での作法や決まりに慣れず、なじめなくてしでかす大ドジ--に、我ながらほとほとマイッてほとんど下宿に引きこもってるような状態。

 それでも時には映画を観に街に出なきゃと思って、学校のある江古田から西武線に乗って池袋駅に行った時に、それは起こった。東口を出た階段のところで、「ちょっとアナタ!」と呼び止められた。何かの紙を挟んだボードを手にした、女性だったか男性だったか若い人で、要するに勧誘の野郎なんだが、コッチは北海道から出て来たばかりのポヤポヤの田舎者で人が好いから、呼びかけられると「ハイッ!」と言って立ち止まり、向きなおってしまう。

 当時、地元の札幌でも街中に出て行けば、宗教系やら何かの勧誘や声かけ、しつこい呼び込みってのはいた。しかし東京のそれはピンポイントでガッとくるというか、コッチが人の好い顔してるから余計につけこまれるのか、私が池袋や新宿、渋谷といった街に出て、駅の出入り口とか繁華街にいると、必ずそうした「勧誘」にひっかかる。

 もー、イヤでしたね。それの最悪なのが以前書いた、文芸坐に行く途中にあった、風俗・キャバレー街(今、ビックカメラのあたり)を突っ切っていく時 ( 2015年4月1日付け 【すくり~んエッセイ「名画座という名のタイムマシン」- 池袋・文芸坐までのロング・アンド・ワインディング・ロード <その1>】 ) で、この日もそっちに向かう途中、この勧誘に声をかけられた。

 でも、コッチも田舎から出て来たばっかで、話す人もいないし、声かけてくれる人もないから寂しくて、そういう勧誘に声かけられると、「メンドウ臭ぇなー」とは後日、思うことで、この時はまだ嬉しいわけですよ。あー、話しかけてくれたァ、みたいに。

 だから、必死に話しているその人につき合って、「ハイ、ハイ、」と相づちを打ちながら話を聞いてあげた。何の勧誘だったかは覚えてないが、コッチにはそれに乗るような気も、また金もないわけだから、聞くだけ聞いて最後は断るしかない。
 
 話を聞いてあげてはいてもそれに乗って応じるなんて事は、いくら田舎者でもない・・・と言いたいところだが、この同じ年、夏の帰省の際に上野から夜行に乗る前に、駅の入り口で引っかかった野郎に、ワールドムービーのフリーパス券を5千円だったか3千円だったかで買わされてしまった(!)。コレ、赤羽とか八王子とかやけに遠い場所にある映画館で、朝方だか夕方だかに上映する映画を見に行けるってヤツで、チケットが5枚綴りか6枚綴りになってて、それで5千円だと新作1本=千円だから「超お得ーーーッ、でしょ!」なんて文句にのせられて買ってしまったもの(いや、10枚で5千円だったかなぁ・・・もう忘れた)。


上野駅・広小路口
▲ 現在のJR上野駅・広小路口。 出典:ウエブサイト「万歩計 上野駅~田原町駅~浅草駅」
http://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/subway/eidan/ginzaH2405/Kukan02_Tameike_Sannou-Kanda-Asakusa/Sub2_Kanda-Ueno-Asakusa/newpage06-S.html



 「得した!」と思ってホクホクで札幌に帰り、東京に戻ってから大学の友人に話したら、さんざ笑われた挙げ句にこう言われた。

「ワールドムービーに引っかかってやんの!」
「エッ? 何、コレ、ウソなの?」
「オマエ、そんなモン買って、どうすんの!?  ソレさ、劇場ってみんな遠くの映画館(こや)ばっかジャン。赤羽とか王子とか尾久とかさ。そんな所でやる1回分の上映だけがそのチケットで観られんだよ。でもそんな劇場じゃ、観たいのかかるわけないじゃん!」
「そうかなあ・・・」
「そうだよォ! ほらその、チケットの裏に書いてる小屋、確認してみなッ! しょぼいトコばっかジャンよぉ~。それに上映作品をその劇場に、いちいち電話して聞いてから行かなきゃいけねえンだゼ!」
「 ・・・ 」

 電話で確認するもなにも、ソイツの情けがひとかけらもない言い様に傷心して、結局、そのチケットで映画を観に行くことは1回もなかった。


 ワールドムービー ・・・・ ホントは、どういうものだったんだろう? 


 私には、そのワールドムービーという限りなく詐欺的なチケット売買の手法よりも、それについて毒舌を吐いたダチの心ない言葉の方が深く胸に刺さったのでありました。 <続く>


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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第6回>

◆ いたいけな大学生時分の嫌~な記憶 (2)


日芸キャンパス
▲ 改装中の江古田キャンパス(2006年撮影)。私が通ってた昭和50年代の日芸キャンパスの写真を探したけれど、ネット上にはないようなので、一番、当時の雰囲気が感じられるヤツをアップ。コレはどこかな、裏門あたりか、西武線沿いのスタジオ裏か?
出典:ウエブサイト「【移転跡地】ソウルに通いながら、こう考えた。」http://kageri.air-nifty.com/seoul/2006/11/


 ワールドムービーの話は余計でしたが、その日、池袋の東口で声をかけてきたのは、そのワールドムービーの押し売り販売ではなかった(と思うが、どうだったか)。
 こちらの相づちを待つこともなく、せっせと勢い込んで喋ってた勧誘の人につき合って、10分もいたのかな、映画が始まる時間が近くなってきたので、さすがに人の好い私もその勧誘を遮って、その場を離れ、池袋の名画座「文芸坐」に向かって足を速めた。


 そんな私の姿を その男 は見ていたらしい。


 2、3日後、大学で授業があって、それは10人弱ずつにクラス分けされた監督コースの学生が、めいめいの担当講師のレクチャーを受ける授業。レクチャーというより講師と生徒が語らうというような時間で、その松竹出身の元監督である担当講師から、昔の映画界はこうだったとか、あの名監督はこんなヘマをやったとか、マッチョを気取っているスターは実は喧嘩が弱かったというような、映画界の裏話みたいなものを聞かせてもらったり。
 また私たち1回生には8ミリ映画で3分、5分といった短編を撮る課題が課せられていたので、それについての作品内容の審議とか注意とかスケジュールについて話す「演出」の授業がそれであった。
 その日もそれをやるものと思って出席していた私に、いきなりその講師が話しかけてきた。

「○○クン、君、先週の木曜日、西武の東口にいなかったかい?」
「エッ? 先週の木曜ですか・・・さぁ」
「いただろう、いたんだよ」
「そうですかね?」
「しらばっくれて(笑)・・・東口で何かの勧誘に声かけられていただろう、君!」
「ハイッ? 木曜日ですか? えーと・・・いや、ないと思います」
「ウソだよ。君、東口で、勧誘のやつとずっと喋ってたじゃないか」


 そう、この講師は、私が勧誘に声をかけられていた現場を目撃していたのだ。で、それを私に言ってきたのだが・・・コレは本心からそうだったのだが・・・その時、私は映画を観に行く途中で勧誘にひっかかった件をすっかり忘れていた。なんで忘れていたか、というと、東京生活のアレコレにまだ慣れていなくて、「今日の晩飯、オカズは何にしよう」とか「銭湯に行く時には洗濯物持ってって、入浴前にコインランドリーに入れとこう」というような日常生活のやるべき些末事に忙殺されて、勧誘の事などをすっかり忘れていたのだ。
 しかし、その勧誘はかなり長時間、しかもしつこかったから、実はよく覚えていて忘れるはずもないのだが、なぜかその講師に尋ねられた時にはまったく頭の中に浮かんでこなかった。

「・・・いや、やっぱりボク、東口で勧誘にひっかかってないと思います」

 と私は答えた。それは〝罠(勧誘)にかかった田舎者がその恥を隠したかった〟わけじゃなかったのだが、どうもその講師は私が嘘をついている、勧誘にひっかかったことをバカにされたくないから忘れたフリをしている、と思い込んだようで、

「ウッソだぁ・・・君、木曜日、あそこにいただろう。あそこで勧誘に声かけられて、断れずにずっ~~~~と喋っていたじゃないか!」
「いや、ボクいませんよ。別の人じゃないですか」
「いや、○○クンだよ。俺見たよ」

 見た、のであればなんで横から「オッ、○○クン、ココで何してる? ちょっとお茶でも飲もうか」みたいに助け船を出して救ってくれなかったのか(薄情なヤツだなあ)、と今にして思う。
 でもその時の私はとにかくその記憶を忘れていたから、何度言われても「いや、行ってません。ボクじゃないです」で通した。

 その講師はそれにもめげず、かなりしつこく私に食い下がっていたが、やがてコッチをかなりバカにした嘲笑の体を見せて「ああ、そうかい、そうかい。分かった、分かった」と言って授業を始めた。でもその途中で何度も「ホントはいただろう?」と訊いてきた。

 まったくなんてしつっこい男なんだよ・・・と思ったが、本当にその時、勧誘された記憶がなかった私は逆にシレーッとそのしつこい、嫌味のような、ハラスメントに近い講師からのからみを受け流し、さして傷つくこともないでいた。

 しかし--それにしてもこの男は随分と陰湿な野郎だなあ。自分より目下の、田舎者と見なした人間にはそれが生徒であろうが誰であろうが、上から目線で畳みかけてねめ付けてバカにする。そういう品性下劣なところがこの男にはあるんだな、そんなんでよく人にモノを教えられンなー、--とは思っていた。 <続く>



『祇園の姉妹』や『浪華悲歌』で日本映画にリアリズムを打ち立て、『西鶴一代女』『雨月物語』などの名作を放った溝口健二の人生を、伊藤大輔・小津安二郎・黒澤明などのライバル監督&スタッフとの確執とともに描いた、
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第7回>

◆ 小津に説教された男はなんと我が講師!

図々しい奴
▲ 『図々しい奴』(昭和36=1961年・松竹)  監督:生駒千里
出典:サイト「jauce com (Japan AUction CEnter)」http://jauce.com/auction/b205555625


 さて、そういう私自身の惨めな体験を踏まえて、再び、内藤誠の勘違い、いや高橋治著 『人間ぱあてぃ』 「許せない男」 を考えてみよう。
 「許せない男」に出てくる、松竹の監督たちが持っていた既得権を勝手に放棄した〝その男〟--この男が川島雄三監督ではないことはすでに立証した。そしてこの男が、昭和26年に松竹大船に入社した助監督の8人=赤八会のメンバーであることも書いた。
 赤八会とは、映画界は一見煌びやかな華やかな世界に思えるが、その映画を作っている撮影所には大学出がやるものとは思えぬショボい雑用が多く、ほとんど寝ないでボロボロになって働かねばならない。そんな助監督生活はまさに赤っ恥そのものだということで、自らを赤っ恥をかく八人として「赤八会」と名乗ってシャレたらしい。

 そのメンバーは先に書いた中平康、鈴木清順、今井雄五郎、井上和男、有本正、松山善三、斉藤武市・・・と、映画本に書かれていた名前を目で追っていた私は、先にも書いたが「アッ・・・」と叫んで、しばらく絶句してしまったのである。


 生駒さん、アンタだったんだね。小津安二郎にドヤシつけられたのは・・・。


 その赤八会の最後の8人目は生駒千里という人物であり、この人こそ日芸時代の私の担当講師であった。あの、池袋で勧誘に呼び止められて窮していた私を目撃していながら助けもせず、後に授業でさんざんからかったゲス野郎(オッと失礼!)こそ、この生駒であった。

 この事実を発見した時、私は相当ショックだった。一瞬、ウソであってくれ、と思い、胸が苦しくさえなった。

 痛恨の極み・・・とまではいかないが、かなり痛切な、悲しい気分に囚われた。

 悄然として、しばし目は宙を見つめた。

 そして何度も「間違いじゃないか、叱られたのは今井雄五郎って人じゃないのか」と思って、調べ直した。生駒千里がその男だと思いたくなかったから。
 それはやはり〝その男〟が--

 どんなに嫌な卑しいヤツでも、一応は映画を教わった師であるから。

 教わった講師が、天下の小津安二郎にドヤされた、自己中でズルい見下げ果てた野郎だった、とは思いたくなかったから。


 でも ・・・ 生駒千里しかいなかった(そんなヤツは)。 <続く>


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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 - <第8回>

◆ その男、〝赤八会の落ちこぼれ〟は、ひ弱な江戸っ子


白い南風
▲ 『白い南風』(昭和36=1961年・松竹) 原作:丹羽文雄、監督:生駒千里
出典:「ヤフオク」 http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r156946747



 順を追って、赤八会の面々の当時の情況(※1)をたどってみる--


○ 中平康、鈴木清順、斎藤武市の3名は、小津が〝その男〟を叱責した昭和36年よりも前に日活に移籍していて、松竹にはいない。
○ 松山善三は木下惠介監督の秘蔵っ子で、昭和36年に監督第1作の『名もなく貧しく美しく』を発表しているが、すでに脚本家としては「一流」で小林正樹作品の『あなた買います』(昭和31=1956年)、『黒い河』(昭和32=1957年、」ともに松竹)を書いて評価を高め、大作『人間の條件』(昭和34~36=1959~61年、にんじんくらぶ)を手がけ、松竹のライバル会社の東宝から名匠・成瀬巳喜男の『娘・妻・母』(昭和35=1960年・東宝、脚本は井手俊郎と共作)を頼まれるという売れセン状態だから(※2)、「監督にしてくれ」といって既得権を捨てるようなバカなマネをするわけがない。
○ 井上和男は〝蛮〟の愛称で小津巨匠に可愛がられ、小津の死後は数年を費やして小津の遺稿や小津ゆかりの人々からコメントを集めた貴重な大著『小津安二郎 人と仕事』(小津安二郎・人と仕事刊行会・編、蛮友社)をまとめ上げた人。昭和31年(1956)に『父と子と母』(京都映画)ですでに監督デビューしている。
○ 有本正、この人は早くに亡くなっていて、助監督の仕事もあまりやっていないか、入社してすぐ亡くなっているような人だから、監督昇進話に関係してこない。
○ 今井雄五郎は、なんと私と同じ日芸出であるが、出身が群馬県高崎市(旧吉井市)である。

 今井はこの群馬出身という一点で、小津にドヤされた当人から外れてしまう。なぜなら『人間ぱあてぃ』にこう書いてあるのだ。

 いわゆる俊秀が揃っていた赤八会の中にもこの男にはついて行けないという人間が一人だけまじっていた。
 妙に江戸っ子を気取る男で、一見洒脱な言行で誰ともソツなくつき合う。その点では多くの人に親しみを持たれていたのだが、私は川島雄三監督の仕事を一本一緒にしただけで、ああ、この男は東京育ちのひ弱さを抱え込んでいて、強いものにはとことん立ち向かえないタイプだなと見抜いてしまった。
          同書「許せない男」より   ※下線はジャズ野郎。



 つまり、その小津に叱責された〝その男〟江戸っ子なのである。だから群馬出身の今井を外すと、該当する赤八メンバーは一人しかいなくなる。その人物は、当時、すでに監督作を発表してはいたが、松竹大船ではまだ「監督」になれずにいた。

 それが、〝その男〟こそが、わが講師、生駒千里だったのである。

 その事実を突きつけられて--

  ああ、なんてこッた ・・・ 私は嘆息した。    <続く>


※1 「赤八会」の動向については、2013年5月17日付【 松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その13> ◆あくまで仮定の「松竹の昭和30~50年代」論 】を参照。

※2 「昭和30年代の松山善三」については、2013年5月14日付【 松竹の監督系譜-蒲田(大船)調の行方 <その10> ◆2派が融合した本流を継ぐものは・・・ 】を参照。


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09/24のツイートまとめ

JAZZyaro

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09-24 16:05

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第9回>

◆ 不運な気取り屋・生駒千里の焦り (1)

1950年代の松竹大船撮影所
▲ 1950年代の松竹大船撮影所 
出典:サイト「お家で鎌倉」より「小津安二郎の映画」http://blogs.yahoo.co.jp/mamataromamataro/11789378.html


 この人のプロフィールを書いておこう。


生駒千里  昭和2年(1927)11月16日、東京市小石川区江戸川に生まれる。都立三中を経て、昭和23年(1948)東京外語大学フランス語科卒業、同年11月、戦後はじめて行われた松竹の助監督試験公募に合格し大船撮影所監督助手室に入り、中村登、川島雄三、番匠義彰らに師事。
   …(略)…
 昭和32年(1957)10月「見事な求婚」で監督に昇進し、大船調のホーム・ドラマを手がけた。
              『日本映画監督全集』キネマ旬報社、に加筆。



 ね、この人、東京生まれの東京育ちなんである。よって、赤八会の〝その男〟は(消去法でいえば)この人しかいない、って事になる。

 だが、生駒千里は昭和32年に監督デビューしてるから、小津に叱責された監督会の昭和36,37年にはもう監督になっている。すると監督昇進のために既得権を放棄する必要はない、だからその人物は生駒さんではないのでは? と思う人もいるかもしれない。

 それも考えられなくもないが、実は松竹では助監督待遇のままで監督作を撮るという事が普通にあったみたいで、特に昭和20年末には松竹から日活へ助監督が大量に移籍して若手の人材が激減したから、それまで本編を撮る機会がなかった助監督が積極的に登用されたと思われる。ゆえに助監督の身分ながら生駒さんでも劇場用映画を撮れるようになって、劇映画の監督として使われていた、ということなのではないか。
 でも彼の撮った作品が社内上層部から及第点をもらえなかったために監督に昇格されぬまま、助監督の身分でその後も撮っていった、と推測する。

 松竹は厳しい会社で、一度、監督に昇格しても撮った作品が良くなかったり、または上層部の意に沿わないものだった時には、再び助監督に降格させて修業させることがままある ( 豊田四郎吉村公三郎中村登渋谷実ら錚々たる面々もそれを経験。 )。

 メンツにかけても助監督の身分には戻りたくはない・・・と気位の高い生駒さんは思い、監督に有利な既得権を反故にしてまで「自分を監督にしてくれ」と事務方に泣きついたのだろう。

 それにしても--先輩監督や同僚を裏切ってまでも「監督」になりたかったのかなあ、とは思う。<続く>

※ 「豊田四郎」の出戻り(助監督降格)については、2013年8月2日付け 【 巨匠のムチャブリ-島津保次郎、オヤジの蛮行 <その42> ◆島津が拾い上げ、救った弟子・豊田四郎 】 参照のこと。


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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第10回>

◆ 不運な気取り屋・生駒千里の焦り (2)


赤ちゃん颱風
▲ 『赤ちゃん颱風』(昭和33=1958年・松竹) 監督:生駒千里  (C)1958松竹株式会社
出典:ラピュタ阿佐ヶ谷HP「庶民の笑いと日常と 松竹大船撮影所」
http://www.laputa-jp.com/laputa/program/shochiku_ofuna/sakuhin3.html


 それに、まあ、一応、教えをうけた「師」であるからちょっと擁護しとくと、なんでこの人が貴重な監督の既得権を自ら進んで手放すという〝汚い取引〟に出たかというと、赤八会の優れ者--中平康、鈴木清順、斎藤武市など--はみんな日活に行っている。この時期、松竹の出来のいい監督や助監督はみな日活に移籍している。
 川島雄三はじめ今村昌平、松竹の入社試験に落ちて日活に拾ってもらった浦山桐郎などなど。
 それを手配した西河克巳さん(この人も日芸の映画学科の講師でして、私の入試の際の面接試験時の担当がこの方。目が優しくて話しやすい人だったけど、しっかり心の底まで読まれていましたナ、今から思うと)は生駒さんも呼ぼうとしたけれど、この時、生駒さんは肺病で病床にあったから諦めたとか(「蕩尽の人生、蕩尽の映画」西河克巳インタビュー、『臨時増刊 総特集 監督・川島雄三 1989年3月(vol.21-4)』青土社)。

 まだ助監督だった今平さんや中平康、鈴木清順、松竹の京都撮影所にいた蔵原惟繕神代辰巳松尾昭典たちがこぞって日活に走ったというのは、ベテラン監督が多くて監督昇進が望めない松竹にいるより、新しい撮影スタジオが眩しく近代的なシステムを有しながらも人手(特に現場仕事に精通した助監督)が足りない日活に行った方が早く監督になれる、と踏んだからだ。実際、行った人たちはみな監督になって野心作、話題作を発表している。
 また松竹に居残った助監督仲間も松山善三を筆頭に活躍している。

 それなのに自分はまだ「監督」になれない ・・・ プライドが高い、江戸っ子の生駒さんとしちゃ、この出遅れは焦っただろう。

 だから「どうかオレも監督にしてくれぇーー」と上役に頼みに行って、その条件に松竹大船の監督にとっちゃ金科玉条のような監督の既得権を売り渡した、ってことなんだろう、察するに(※1)。   <続く>


※1「生駒千里が監督になれた背景」  生駒さんが映画を撮れた背景には、松竹から日活へ助監督が大量移籍した事に加え、当時の松竹上層部の中にこうした考え方が広がっていたためのようである(下線)。

 この時〔『君の名は』三部作がメガヒットを記録していた時期〕、松竹首脳部に、もはや、芸術派監督は不要だとする判断が出てきたのは、誤りである。
 ところが、現実は、そうなってしまった。彼ら芸術派は「大船調」の復活を推進していく、うるさいだけの監督であり、製作費も高くつくということになってしまった。
 会社のイズムを貫いていくためには、二線級三線級と呼ばれる監督や新人監督の方がやりやすいし、それで充分であるとした。
 『東京物語』のあと小津安二郎は沈黙した。以後、三年間、小津の松竹作品はない。
    (『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』升本喜年、平凡社)
                   ※〔〕内、ジャズ野郎。


 二線級、三線級の監督や新人でいい、と松竹の上層部がタカをくくったおかげで、生駒さんクラスの才能(お仕着せの企画を期限内に撮れて、そこそこ観られるものをこしらえる、いわば御用監督)が起用されるようになったのだ。
 この時、〝うるさいだけの監督であり、製作費も高くつく〟おまけに当たらない、と言って小津作品を敬遠し、小津監督不要論すら持っていたと思われる松竹上層部であったが、今となっては(日活に移籍せず松竹に残った)小津監督に感謝しないといけないだろう。山本富士子を大映から呼んで撮った『彼岸花』(昭和33=1958年)はヒットしたし、何より、その数年後には現在まで続く小津映画のブームが到来して、松竹映画のトレードマーク「富士山」が世界中に発信されるのだから。


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09/28のツイートまとめ

JAZZyaro

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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第11回>

◆ 裏取引せずとも、松竹の監督既得権は廃止された


松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代
▲ 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』 升本喜年、平凡社


 もっとも、この時期(昭和36年頃)は映画の斜陽化が顕著になってきた時期で、松竹映画はその以前からハッキリと下降線をたどり始めていた。元松竹の製作者、升本喜年『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』(平凡社)の中で、戦後の松竹映画のピークは『君の名は』 (※)が全国的に大ヒットしてブームを作った昭和28年(1953)だとし、その上がり(興収)で築地に松竹の本社である、映画館(松竹セントラル)等を併設した「松竹会館」を開いた時には、すでに凋落は始まっていた、と書いている。

 〔松竹会館は〕 昭和三十年(1955年)五月十四日に地鎮祭。総工費十億円をかけて着工し、翌年九月十四日に開館した。コレまで、新富町にあった松竹本社は、以後、ここになった。中央区築地一丁目十三番地五号である。……
 その会館の開設を記念し、いわゆる「柿落し」に、大船撮影所で製作されたのが、日仏合作『忘れ得ぬ慕情』(1956年、イブ・シャンピ監督作品)である。  …(略)…
 …皮肉なことに、ここ(築地)にこの松竹会館ビルを建て開設した昭和三十一年(1956年)から、松竹映画の下降は、はじまった。
      (『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』升本喜年、平凡社)
                      ※〔〕内、ジャズ野郎。



 松竹映画の下降が昭和31年(1956)から始まっていたとすれば、問題の監督会があった昭和36、37年頃には事態はもっと深刻であったから、大船所属の監督さんにあてがわれていた手厚い既得権などは早晩、廃止されることになっていたと思われる。

 だから生駒さんはなにも焦って、自身の監督昇格と引き替えるなんて事をしなくてもよかったのだ。

 それに--もしかして生駒さんは自身が監督デビューを飾った昭和32年に「監督」に昇格していて、その交渉の場で「ボク、監督の既得権いりません(その代わり、監督にしてくださ~い)」と進言して既得権が廃止されていたとすれば、昭和32年から36、37年までの4、5年の間、松竹の監督たちはその事を知らずに映画を撮っていた事になるが、これは考えにくい。だって映画を撮らずに入ってくる毎月の手当が「今月入ってない!」となれば、高橋治がそれに気付くまで(監督昇進の時=昭和36年)、誰も文句を言わずにいたとは考えられないからだ。
 この既得権廃止は、高橋治が監督会に提訴して発覚した〝大事件〟であったのだから、これが昭和32年頃に廃止されていたとすれば、もっと早くに揉めたハズである。

 ともかく、生駒千里が監督の座と引き替えに既得権を放棄する、なんて事をしなくても、その既得権はいずれは消え去る運命にあったのである。 <続く>
 

※ 「君の名は」ブーム  今大ヒット中の興収100億円を達成した、新海誠監督のアニメ映画 『君の名は。』 のことではなく、その〝タイトル〟のオリジナルの昭和の大ヒット・メロドラマのことで、アメリカ映画『哀愁』をベースにした菊田一夫原作のラジオドラマの映画化。ラジオでその放送が始まると〝銭湯から女性客がいなくなる〟と言われるほどの人気となり、それを松竹の大庭秀雄監督が映画化して大ヒット。その成績について、『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』には、こう書かれている。

 『君の名は』は、昭和二十七年(1952年)九月十五日、十月一日、昭和二十八年(1953年)四月二十七日と、第三部までの三本を封切し、その全国総配収九億六千万円は、興行成績として、松竹映画創設以来の大ヒットだった。

 主人公の後宮春樹を演じた佐田啓二は二枚目スターの座を確立し、ヒロインの氏家真智子を演じた岸恵子の〝真知子巻き〟が女性の間で大ブームを巻き起こした。


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高村英次

Author:高村英次
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