ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第25回>
ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
▲ 蓼科にある小津安二郎記念館。
出典:Cinema Kingdom Blog
--と、以上のような次第で、怠け者の助監督・小川二郎を小津は、(おそらく)ダメ人間観察の意味で自分の傍に置いていたが、やがてバッサリと切ってしまう。
小川はその次の作品の『落第はしたけれど』(昭和5年作品 小津安二郎監督)の撮影のとき、支給されたスタッフの昼食代を銀座で飲んでしまい、あげくブタ箱に入れられて、朝出社してこなかった。そんなことが二度、三度と重なって、ついに小津監督から「おれの組には来なくていい」と宣告されたしまった。どうしようもない助監督もいたのである。
出典:『楽天楽観 映画監督佐々木康』佐々木康・著、佐々木真・佐々木康子監修、円尾敏郎・横山幸則・編集、ワイズ出版
〝品行は直せても品性は直らない〟と言った小津だから、本来なら小川二郎みたいな性根が腐った態度の悪い輩はハナから自分の組には入れないようにも思われるのだが、一度は組に入れてその行状を観察し、見込みがないと判断するとクビを切る。そもそも小川に期待してないのだから、切る時は冷淡である。佐々木康の時みたいに引き留めたりはしない。
こうした小川助監督に対する態度や母を亡くした今平さんへの(悪趣味な)放言は、〝松竹の良心〟とか親切で粋で世話焼きといった善き小津像と相反するものであるが、そのいわば清濁併せ飲むようなところが、ある意味、小津安二郎の凄みではないか、という気がしてくる。
一方、元小津組助監督だった今村昌平は、日活に移籍して小銭が入ったので昭和33年(『盗まれた欲情』で監督デビューした年)に長野県蓼科に別荘を買った。その時、ちょうどシナリオ執筆の定宿を茅ヶ崎館から蓼科(の野田高梧の持っていた山荘)に変えた小津と顔を合わせることとなり、交流している。母親の件を根に持っていれば、容易に近所つき合いなどしなかったと思うが、二人は時折、飲み食いを共にした。
昭和33年に小津さんと脚本家の野田高悟さんが仕事場にする長野県蓼科の別荘の近くに、私も別荘を構えた。私は夏休みに家族で長期間滞在するのが常で、長男や二男を連れて散歩すると二人とよく顔を合わせた。子供たちもかわいがってもらい、あちらの仕事場を訪問して酒の相手をすることもあった。
この時、今村は小津にこう言われる。
「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く」
今村昌平の映画に登場する人間達がみな欲長けた<赤裸々ギラギラ人間>ばかりで、その劇(ドラマ)がこれまたあけすけ&むき出しの欲望劇だったから、そうした欲や生(性)の情念を抑えに抑えたホームドラマを撮っている小津は、協力者の野田高梧とともに素直に(またはある種の悪意、皮肉を込めて)「WHY?」と訊いたのであった。
「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く」。
小津、野田両氏にそう言われたのも、蓼科で山内久さんと「豚と軍艦」のシナリオを書いていたころだ。
小津さんはにやにやしている。その顔を見ながら、口では適当なことを言っておいたが、内心は「このくそじじい」と毒づき、「上等だ、俺は死ぬまでウジ虫を書いてやる」と決意を固めた。師とはまことに有りがたいものである。
以上、『映画は狂気の旅である 私の履歴書』今村昌平、日本経済新聞社
ニヤついたクソジジイのしたり顔を見ながら、「死ぬまでウジ虫を書いてやる」と心に決めた今村昌平はその誓いに違わぬ〝ウジ虫が跳梁跋扈する映画〟を一貫して作り続けていく。
小津の、半ば、批判的なひと言が今平さんに生涯の目的を、描くモチーフを与えた、と言えるとしたら、かつて「脳溢血で死ぬのはあんなもんだろう」と言い放った時と同じように、弟子の今村昌平を発憤させて真の映画作家に為さしめた、と言えるのかも知れない。
今平さんが言うようにそれは、
師とはまことに有りがたいものである・・・ということに尽きる。 <続く>
▲ 小津&野田の言う〝ウジ虫ばかり〟が出てくる今村昌平の映画とは例えばコレ、『果しなき欲望』(昭和33=11958年・日活)。因みに私が最も好きな今平作品デス。
出典:ブログ「ヒデヨシ映画日記」