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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第25回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /02 2016

◆ 誰もが小津を畏敬し、好きになる (11)

小津安二郎記念館 大
▲ 蓼科にある小津安二郎記念館。
出典:Cinema Kingdom Blog

 --と、以上のような次第で、怠け者の助監督・小川二郎を小津は、(おそらく)ダメ人間観察の意味で自分の傍に置いていたが、やがてバッサリと切ってしまう。

 小川はその次の作品の『落第はしたけれど』(昭和5年作品 小津安二郎監督)の撮影のとき、支給されたスタッフの昼食代を銀座で飲んでしまい、あげくブタ箱に入れられて、朝出社してこなかった。そんなことが二度、三度と重なって、ついに小津監督から「おれの組には来なくていい」と宣告されたしまった。どうしようもない助監督もいたのである。

出典:『楽天楽観 映画監督佐々木康』佐々木康・著、佐々木真・佐々木康子監修、円尾敏郎・横山幸則・編集、ワイズ出版


 〝品行は直せても品性は直らない〟と言った小津だから、本来なら小川二郎みたいな性根が腐った態度の悪い輩はハナから自分の組には入れないようにも思われるのだが、一度は組に入れてその行状を観察し、見込みがないと判断するとクビを切る。そもそも小川に期待してないのだから、切る時は冷淡である。佐々木康の時みたいに引き留めたりはしない。

 こうした小川助監督に対する態度や母を亡くした今平さんへの(悪趣味な)放言は、〝松竹の良心〟とか親切で粋で世話焼きといった善き小津像と相反するものであるが、そのいわば清濁併せ飲むようなところが、ある意味、小津安二郎の凄みではないか、という気がしてくる。

 一方、元小津組助監督だった今村昌平は、日活に移籍して小銭が入ったので昭和33年(『盗まれた欲情』で監督デビューした年)に長野県蓼科に別荘を買った。その時、ちょうどシナリオ執筆の定宿を茅ヶ崎館から蓼科(の野田高梧の持っていた山荘)に変えた小津と顔を合わせることとなり、交流している。母親の件を根に持っていれば、容易に近所つき合いなどしなかったと思うが、二人は時折、飲み食いを共にした。

 昭和33年に小津さんと脚本家の野田高悟さんが仕事場にする長野県蓼科の別荘の近くに、私も別荘を構えた。私は夏休みに家族で長期間滞在するのが常で、長男や二男を連れて散歩すると二人とよく顔を合わせた。子供たちもかわいがってもらい、あちらの仕事場を訪問して酒の相手をすることもあった。


 この時、今村は小津にこう言われる。

 「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く」


 今村昌平の映画に登場する人間達がみな欲長けた<赤裸々ギラギラ人間>ばかりで、その劇(ドラマ)がこれまたあけすけ&むき出しの欲望劇だったから、そうした欲や生(性)の情念を抑えに抑えたホームドラマを撮っている小津は、協力者の野田高梧とともに素直に(またはある種の悪意、皮肉を込めて)「WHY?」と訊いたのであった。

「汝ら何を好んでウジ虫ばかり書く」。
小津、野田両氏にそう言われたのも、蓼科で山内久さんと「豚と軍艦」のシナリオを書いていたころだ。
 小津さんはにやにやしている。その顔を見ながら、口では適当なことを言っておいたが、内心は「このくそじじい」と毒づき、「上等だ、俺は死ぬまでウジ虫を書いてやる」と決意を固めた。師とはまことに有りがたいものである。

以上、『映画は狂気の旅である 私の履歴書』今村昌平、日本経済新聞社


 ニヤついたクソジジイのしたり顔を見ながら、「死ぬまでウジ虫を書いてやる」と心に決めた今村昌平はその誓いに違わぬ〝ウジ虫が跳梁跋扈する映画〟を一貫して作り続けていく。
 小津の、半ば、批判的なひと言が今平さんに生涯の目的を、描くモチーフを与えた、と言えるとしたら、かつて「脳溢血で死ぬのはあんなもんだろう」と言い放った時と同じように、弟子の今村昌平を発憤させて真の映画作家に為さしめた、と言えるのかも知れない。
 今平さんが言うようにそれは、

 師とはまことに有りがたいものである・・・ということに尽きる。 <続く>

果しなき欲望 大
▲ 小津&野田の言う〝ウジ虫ばかり〟が出てくる今村昌平の映画とは例えばコレ、『果しなき欲望』(昭和33=11958年・日活)。因みに私が最も好きな今平作品デス。
出典:ブログ「ヒデヨシ映画日記」
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ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第26回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /04 2016

◆ 小津にドヤされ、立場がなくなった〝その男〟は・・・(1)

 勢い余って、小津安二郎と周辺の話題ばかり書いてしまいました。みなさん、とっくにお忘れのことと思いますが、その小津にドヤされた生駒千里の話に戻ります。

 そうした清濁併せのむ技量を持ち、自身もそうした清濁併せ持った大人(たいじん)として、また有り体な「聖人君子」といった薄っぺらな良識人的イメージからはみ出し、ただの呑んべぇの独り者として種取り(映画)生活に遊んだ小津安二郎。

小津安二郎監督
▲ 我思う、ゆえに小津あり ・・・ 小津安二郎監督
http://www.compora.com/Art-Gallery/Artists/Ozu-Yasujiro.html" target="_blank" title="出典:ウェブサイト「コンポラ」">出典:ウェブサイト「コンポラ」

 そんな人望も人徳もある小津監督に、我が講師・生駒千里はドヤされたのである(このバチ当たりめが!)。『人間ぱあてぃ』「許せない男」にある、その場面を再録する。

 私は強いものには必要以上に媚びる例の男の性根を見たと思い、この件を入会早々の監督会に提訴した。事実上の会長で、監督特権を作った当人である小津監督は驚いたようだった。
「お前か!?」
 その男を名ざしして、こういった。

「自分一人が監督になれば良いと思っているとしたら大船の監督も落ちたな。俺なら自分のことより先に後輩のことを考えるがな」

 その男は固くうつむいたまま一言もなかった。赤八会の名には途中退社の一人を含め、八人が赤恥をかきに来たとの意味があるという。会の名を実践した男は自らも監督特権の恩恵を受けることなく、間もなく馘首された。

出典:『人間ぱあてぃ』 高橋治、講談社文庫


 この文章を読む限り、自身が監督に昇格することと引き替えに監督特権(月保証と一年保証=手当)を放棄した〝その男〟に対して、「オマエかーーッ、このヤロウ!」というような大声で叱責する=ドヤす、とか大仰な恫喝はしていない。〝その男〟に向かって、またはその前に座ってじっと目を見ながら、静かに「自分一人が監督になれば良いと思っているとしたら・・・」と穏やかに問いかけている図が想像できる。

 しかし、これが逆に怖い!

 小津監督は入社当初は撮影部に回されて、重いカメラを担いだり、シンドイ現像場の仕事に耐えてきた人で、その肉体は頑健で肩幅は広く胸板は厚かった。つまり素顔の小津とは彼の撮る映画の世界とは正反対の、ワイルドな、野性味満点の精悍な漢(おとこ)なのである。そうした人が感情的にわめくのではなく、抑えた静かな声で言うのだから、声高に「この野郎!」と恫喝されるよりなんぼか怖いか。
 小津監督から面と向かってこう言われた時、生駒さん、さぞかしビビッただろうなあ、それこそキンタマが縮み上がったんじゃなかろうか(ウフフ…)。

 俺なら自分のことより先に後輩のことを考えるがな。


 という一言にしても、終戦直後の日本への帰還の際、その場で一番エライ監督の身分にありながら「(復員船に乗る順序は)オレは後でいいよ」と言って、本当にそれを実践した小津監督ならでは気配りと思える。

 だから、そんな大人の小津安二郎(や他の大船のベテラン監督達)を、いわば裏切るような姑息なマネをした生駒千里が私は許せないし、そんな人間に教わっていたってことが恥ずかしいのだ。

 そして、そこに私自身の在学中の嫌な記憶 (【ある痛切 第6回 いたいけな大学生時分の嫌~な記憶(2)】2016年9月19日付け) がダブッてくると、これ以上ないほどの嫌悪感が腹の底から沸いてきた。これはもう致し方ない。<続く>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第27回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /07 2016

◆ 小津にドヤされ、立場がなくなった〝その男〟は・・・(2)

大願成就 大
▲ 『大願成就』(昭和34=1959・松竹) 原作:源氏鶏太 監督:生駒千里、右が高橋貞二。
出典:サイト「jauce com (Japan AUction CEnter)」

 生駒千里は昭和33(1958)年に監督第1作『見事な求婚』を撮っており、昭和37(1962)年の『寛美の我こそは一等社員』まで9本の作品を発表している。

 その中で監督3作目の『朝を呼ぶ口笛』(昭和34=1959年、松竹)は吉永小百合の映画デビュー作で、川本三郎さんがこの作品について好意的な文章を書いていたように記憶するが、それが載っていたのがどの本だったか思い出せない。最後の劇場作品『寛美の~』でも判るようにどれもプログラム・ピクチュアで、不勉強な私はどれも観たことはないが、監督(さっか)としての評価はまあ見るべくもないようである。

 『朝を呼ぶ口笛』と同じ年に撮った『大願成就』という作品の撮影中、当時、佐田啓二と人気を二分していた松竹の男性スター・高橋貞二がオフに交通事故に遭って亡くなる、という不運を味わってもいる(この時、高橋貞二を可愛がっていた小津監督も大いにその死を悲しんだ。※1)。

 生駒千里監督『大願成就』(十一月)、この撮影の途中で、二代目三羽烏(佐田啓二、鶴田浩二、高橋貞二)のお一人、高橋貞二さんが自動車事故で急逝。高橋さんの役を、スタンドインで胡麻化すのに監督は大変苦労されたようです。

出典:『松竹大船撮影所前松尾食堂』山本若菜、中央公論社

 とまあ、こうした同情すべき事もあるのだが、ご注目願いたいのは最後の『寛美の~』が昭和37年1月29日公開だということ。小津に叱責された大船監督会は、おそらくこの作品の前後(おそらく撮影前の昭和36年)にあったと思われ、高橋治によれば「〔赤八〕会の名を実践した男は自らも監督特権の恩恵を受けることなく、間もなく馘首された。」ということになるが、『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)によると生駒さんはその後、テレビでドラマを数本演出し、昭和45(1970)年に松竹を退社してフリーとなり、間もなく日大芸術学部の講師となったようである。
 
 小津にドヤされて立場がなくなっても、テレビドラマを撮るなどして昭和45年までは大船撮影所に居続けた。ドヤしつけた小津は昭和38(1963)年12月12日に亡くなっているから、撮影所に居続けても居心地はそんなに悪くなかったのかも知れない。

 --以上は、世間の人はもちろん、ちょっとした邦画通の人でも知らない、無名なる映画監督の、知る由もない履歴である。そしてコレは、我が青春時代の苦い思い出とリンクした、その本人の私にしか関係のない、ごくごく極私的な取るに足りない話である。 <続く>

※1「高橋貞二の死」 その時、小津は大映(東京)で『浮草』を撮影で、セットで高橋急逝の一報を聞き、その夜、仕事着のワイシャツ姿のままお通夜に駆けつけた。そして--

祭壇に向かって、しぼり出すような声で〝バカな奴だ〟とつぶやいた。

出典:『松竹大船撮影所覚え書き 小津安二郎監督との日々』山内静夫、かまくら春秋社

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第28回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /09 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (1)

白痴 150
▲ 『白痴』(昭和26=1951年、松竹) 監督・黒澤明 三船敏郎(右)と原節子。
出典:「cinefil(シネフィル)」のフェイスブックから

 やはりコレも以前書いたが、大学時代、演出コースだった私の担当講師は、生駒千里の他にコバケイさん(小林桂三郎)って人(やはり松竹助監督、後に日活に移籍)がいて、生駒さん同様、この人ともじっくり話し込んだ記憶はないけれど恩師(面白いオッサン)だとは思ってる。

 でも生駒さんはそんな風には思えないんだな。

 見栄ばかりで実際は根暗、そして性格が悪い奴ってのは、どうもねぇ・・・。

 生駒、小林両師には、「演出」の時間にいろんな話を聞かせて貰った。
 でもさすがに生駒さんから小津の話を聞いた記憶がない。
 「監督既得権を勝手に反故にして、諫められた」過去があれば、小津がどうのこうのなんて話はしたくないだろうし、まあ、嫌うよねオッチャン(小津)を。もっともコレは私が聞き漏らしていたか、覚えていないせいで、「小津さんて人はねぇ・・・」と授業の中で話していたのかもしれない。

 だがお二人が同じ話をした映画がある。それは黒澤明監督が松竹大船にきて撮った『白痴』(昭和26=1951年)の苦労話だ。この時、黒澤さんは労使双方荒れ狂って長期化した東宝争議に嫌気がさして、恩師の山本嘉次郎や先輩監督の成瀬巳喜男らと独立プロダクション「映画芸術協会」を立ち上げて、東宝以外の会社に企画を持って行って映画を撮っていた。『静かなる決闘』や『羅生門』(前者は大映東京、後者は大映京都)はその頃の作品で、『白痴』はその前に撮った『醜聞(スキャンダル)』に次ぐ松竹で撮る2本目の映画であり、しかも長編の文芸大作であった。

 お二人は助監督としてこの『白痴』に付いており(助監督にはあの中平康も)、黒澤監督についての人間性や演出などを語る際に、よく例としてこの時の経験談を話してくれたのだが、内容はいつもロケした北海道・札幌の雪の多さへの不平不満、そして愚痴(黒澤批判)であった。そして私が札幌出身だと知ると、二人は揃って同じようなことを言った。

「オオ、君は札幌か。あそこじゃね、キミ、死ぬ思いをしたよ。
 北大のポプラ並木があるだろう。あそこのロケで森雅之と原節子が並木道の舗道を歩きながら話すシーンを撮る時に、舗道の雪を排雪して路肩に積んだのはいいが、その上でレフをかざしてて、ズボッと雪に埋まっちゃってさ。もう、死ぬんじゃないか、と思ったよ。
 街中の撮影でも雪にはまってなあ、エライ目にあったぜ!
 それにしても、なんて雪が多いんだい、君の故郷(いなか)は!」

 と、こんな調子でお二人は話され、私はこれを1回生、2回生の時にそれぞれ(何度も)聞かされた。
 埋まって死にかけた(とは大げさな)札幌の大雪が、さも私のせいであるかのような大仰な言い方をされて閉口した覚えがある(表面では〝ヘヘヘ…〟と笑ってごまかしたが)。

 その年の冬(昭和26年2月)はとりわけ降雪量が多かったようだが、しかしそれは札幌のせいじゃない(もちろん私のせいでもない)。

 これみな黒澤監督のせいである。 <続く>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第29回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /11 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (2)

北の映像ミュージアム 手紙展示 黒澤監督の手紙 小

▲札幌市の「北の映像ミュージアム(左)」で展示されている黒澤明監督の手紙(右が文面)。地元紙の求めに応じて『白痴』ロケ当時(昭和26年)の思い出や、その後の激変した札幌(手紙が書かれたのは昭和47年)についての心境が5枚にわたってしたためられている。 ★2013年9月撮影 © Takamura Eiji


 なぜ、札幌の大雪が黒澤監督のせいか、というと、『白痴』に限らず黒澤作品はそのロケ中に、自然災害などのトラブルに見舞われることがやたら多いからだ。 

 デビュー作の『姿三四郎』(昭和18=1943年・東宝)の有名なラストの三四郎と檜垣源之介の決闘シーンではわざと荒天待ちをしてさんざん待った末に、ものすごい嵐がやってきて、すさまじい風が吹いて壮絶なシーンが撮れた、ってのは良い方の例だが、『羅生門』(昭和25=1950年・大映京都)の時は撮影所火災であやうくフィルム(ネガ)がパーになりかけたり、『七人の侍』(昭和29=1954年)や『隠し砦の三悪人』(昭和33=1958年)では天候不良や台風にたたられてほぼ1年がかりの撮影となったり(予算と時間がかかり過ぎると東宝から黒澤プロを作れと要請される)、『蜘蛛巣城』(昭和32=1957年。以上、東宝)では御殿場で曇天待ちして時間と予算を浪費する、といった具合にさんざんだ。

 だから、『白痴』の札幌ロケでの大雪も黒澤組のせいである--というのが私の持論だが(そんなことはどうでもいいのだが)、この『白痴』の時は黒澤さんが敬愛する作家ドストエフスキー原作の映画化ということで粘りに粘った挙げ句、プレッシャーに耐えかねて、途中から演出に悩み出して大変だったようだ。

 そういった時、監督のいらだちってのは、往々にして助監督にぶつけられる。黒澤監督は野村芳太郎以下の助監督たちに演出上の意見を求めたが、松竹大船では監督の意向に沿うことが優先されてただ指示された事を「ハイハイ」と従順にこなすことが求められていた。「あのう、監督、私はこう思うんですけど…」とか「ここはこうしたら、どうですか?」などと意見具申をするなんて事は恐れ多く、そうした態度は出過ぎたマネだとして厳に慎むような、そういった空気があった(この時代、どこの撮影所でも同様だったが)。

 だから黒澤監督が意見を言えと言っても、監督を前にして恐れ多い、といった感じで意見が出なかった。
 するといらついた黒澤監督がカンシャクを起こして、「松竹の助監督は、監督の演出方針について何も発言しない。けしからん!」と言ったそうだが、その大爆発の真っ最中に、生駒さんは勇敢にも荒ぶる黒澤天皇に向かって、

「それは松竹大船ではできないことなんです」 (※1)

 と言ったというのだ。これは生駒さんが自ら話したことじゃなく、ちょっと何かで読んだ(今、その出典が確認できないが、おそらく『人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語』マガジンハウス、だと思う)。

 「ほー」と言いたくなるような話で、「生駒さん、意外にやるジャン」とこれを知った時に思ったが、『白痴』完成後、その〝けしからん大船助監督〟の中で黒澤監督が、

 「大船には一人、凄いのがいる。あんなのは東宝にも大映にもいない。日本一だ」

 と言って認め、当時、狛江にあった黒澤邸に呼んで交流したのは野村芳太郎だった。

 そう、天皇に言葉を返した生駒さんではない。    <続く>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第30回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /14 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (3)

松竹ロゴマーク
▲ 松竹のロゴマーク
出典:ロゴマークデザインサービス

 とにもかくにも、私は学生時代、生駒千里、小林桂三郎のご両名に、「映画とはなんぞや」「撮影とは、撮影所とはなんぞや」といった事を教わったが、そういった事は映画の撮影現場ならいざ知らず、実生活ではあまりというか、ほとんど役には立たないし、役立つ環境がないわけだから、生かしようがない。大学卒業前に、映画やテレビドラマの製作現場にいくことを早々に諦めた私には、だからお二人のことも、その教えも遠い空の彼方にあって、自分に引き寄せようなどとは考えもしなかった。

 しかし、なんの因果か、東京の街を数年さまよい歩いた挙げ句、いつの間にか映画について書く仕事をしていて、毎日、映画を観て暮らすようになる。ライターを始めた最初の3年は食えたが、4年目からは食うに困り、5年目の年末には早々に故郷に帰ることを決めたが、翌年からまたぞろ食えるようになって・・・という流浪の映画ライター暮しは、日芸時代の4年間よりも辛いものだったが、とにかくそうやって試写会で新作を観てまわっていると、ふいにある事に気付いた。それは自分の「映画の見方」についてである。


 映画を観れば、誰でも観終わった後で、ああでもない、こうでもない、アソコが良かった、ココが良くない、と感想を言うのは当たり前だが、映画マスコミも同じで、同業の仲の好いライターと一緒になれば、鑑賞後、お茶しながら今見てきた映画の話したり、明日見る映画の内容や情報なんかをアレコレ話して交歓する。
 また、そんな仲間がいなくても、というか大体ひとりで行動しているので、ひとりで見て、ひとりで(心の中で)感想をああだこうだと言いながら、電車に乗って家路に着く。アパートの自室に帰れば、誰はばかることなくその映画の感想を口に出して言うわけである。自室ならば--

 誰にも遠慮なく、悪評(ワルグチ)が言える!

 で、そんな時、気付くのである。
 自分が生駒さんやコバケイさんの言ってたような演出論とか映像論に基づいて映画を観ているってことに。この人達が話していた映画の評価とか、「あの映画はここがダメだ。というのはね・・・」といった論理(論点)を自分も口走っていることに。
 観た映画の演出スタイルや手法、コンティニィティの繋がりなんかについて、ボソボソ独り言でしゃべっていると、「アレ、これってコバケイさんが言ってた事じゃなかったっけ?」と気づくわけである。

 何度も言うが、このお二人は松竹・大船撮影所の(プロの)監督さんである。だから好むと好まざるに関わらず、その育ったバックステージ、松竹撮影所のカラーである「大船調(蒲田調)」というスタイル(映画についての考え方、作劇法、見方)がその身に染み込んでいる。蒲田・大船調については、以前このブログで書いたから、そっちを見てもらいたいが、映画を見たり考えたりする上で、この大船調、ひいては大船式の観点というものがいつの間か本人も気付かぬうちに、私の中に移植されていた--ということに気づいたのである。
 
「なーに、言ってんだよ、そんな事、あるわけないじゃないか!」と言われれば、
「そうだよなあ、たった4年教わっただけで、大船調が移植されるわけないか」とも思う。
 大学には4年いたが、この二人にじかに教わったのはそのうちの2年間で、しかも3回生、4回生の時はコッチは撮影で忙しいからほとんど顔も合わせてない。

 だから、大船調が移植された、なんて事があるわけがない--と最初は強い拒否感とともにその思いを打ち消した。なかなか認められないでいた。

 しかし、やっぱりそうなのだ、私の映画の見方、鑑定の仕方はまさに大船調なんだ。<続く>

**************

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11/14のツイートまとめ

つぶやきコーナー
11 /15 2016
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そういうアンタ(森喜朗)は勉強してんのか! ソチ五輪で浅田真央に不勉強なこと言ったりするくせに!  森会長「小池氏は勉強してない」 - BIGLOBEニュース https://t.co/KyM1rq2FHG
11-14 22:49

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第31回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /16 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (4)

日本映画傳
▲「日本映画傳 映画製作者の記録」城戸四郎、文藝春秋新社

 とはいえ--映画の見方が大船調だといったって、その大船調を提唱し主導した大船の撮影所長・城戸四郎は40年以上前に故人となっており、またその名のもとになっていた大船撮影所もなくなっている。そこで働いていた生え抜きの松竹映画人も希少となっていて、要するにかつて監督が師匠となって助監督を育成していたような、封建的ではあるが融通の利いた人間関係や合理的な撮影(演出)方法が伝承され、時に個性的なスタイルが花開く、いわば大船撮影所の〝匂い〟というものを継承することが出来たシステムも今はないから、その匂いは再現できないし、死に絶えている。
 今、わずかに山田洋次監督や森崎東監督がその命脈を保っているくらいだ。

 まして、撮影所にいたこともなく、たかが4年間、元松竹の監督の下で映画を「学問」として教わっただけのヤワな青学生というような私にそれが乗り移っているわけがない--とも思っていたのだが、
 映画を観ての感想が、
「あそこはこうだ、ここはこう描かなきゃいけない」という考え方(目線、指標)が、
大船調(松竹式といった方が正確か)なのだ。

 この事に、私は日本映画史、特に松竹映画の歴史、城戸四郎の本(『日本映画傳 映画製作者の記録』)自伝などを読んでいて思い当たった。前にも書いたが、大船調といっても、何がどうの、といったハッキリしたカラー(特徴)はなく、その定義も時代時代で変わっているようなもの(例えば、当初、初期の小津監督の作品は蒲田調とは言われなかった)で曖昧なのだが、それでも私はそう感じたのだ。これは感じたのであって、感じられない人には教えようがない。その頃、一緒に教えを受けた人達も「自分の見方が大船調だ」などとは思わないだろう。

 思わない方が幸せである。

 松竹に入れば松竹風の考え方になり、東宝に入れば東宝スタイルの、(京都に撮影所があった頃の)大映に入れば大映調(それは戦前の日活なのだが)、日活に入れば日活カラー、東映に入れば東映流といった具合に、それぞれがその会社のカラーや、そこに所属した監督を頂点にして助監督やキャメラマン、照明マン、録音といったスタッフ個々の人脈が出来て、それに応じたイズムというか、スタイルというか、そうした独自の気風がそれぞれのカツドウヤに備わっていった。

 そうした気風の、本当に希薄な、ほとんどなんの色も匂いもない、末端の継承者が、もしかしたら、あの昭和50年代に映画の学校で学んでいた、もっとも出来の悪い自分なのかもしれない--と思うのである。   <続く>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<第32回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /18 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (5)

シネマワールド時代の大船S
▲ 「鎌倉シネマワールド」時代の大船撮影所(撮影は1998年頃)
出典:ウエブサイト「神奈川県社会科部会地域研究委員会HP 変わりゆく神奈川県」より「湘南地区No.4-2 松竹大船撮影所から鎌倉女子大へ(鎌倉市)」
 
 松竹大船撮影所には、学生時代、一度だけ行ったことがある。

 周囲の商店街に埋もれるように建っていた、かつての夢の工場は昔の賑わいを偲ぶよすがもあらばこそ、見るも無惨で、まるで古ぼけた町工場のようだった。この古ぼけた町工場は、この後、テーマパーク「鎌倉シネマワールド」となって、一時、活況を呈するが、その貧乏臭さは如何ともしがたく(と観に行った友人が言っていた)、観覧者はすぐに減ってやがて展示施設は閉鎖され、撮影所自体も消滅した。

 私が訪ねたのは、当時、日芸の講師だった西河克己さんが監督していた小泉今日子主演の『生徒諸君!』(昭和59=1984年)の撮影を見学するためであったが、スケジュールの都合で撮影はなくなり、セットが組まれたステージは無人であった。その無人のステージに入っていくと、建てかけたセットがぼんやりと真ん中にあり、それは書割然とした安っぽい設えで裏側がなかったから、妙に貧乏たらしく見えたことが思い出される。
 確か、撮影がないので、天井横の窓が開けられ、外光が差し込んでいたように思う。スタジオ内というのは普段は暗いものだが、そのセット周辺は明るくて、だから余計に貧乏くささが際立っていて、ステージの床は砂地だった。セットの建て込みなんかでは床がコンクリやリノリウムなどよりも砂の方が便利なんだろうな、とは思ったが、その貧相な設備にはかなりなショックを覚えた。
 というのは、日芸の映画学科にも撮影用スタジオが2つあってスタジオの内部というものがある程度予想できていたからだ。だから「一流映画会社の撮影所にある撮影ステージ、セットっていうのは、ウチの学校の申し訳程度のスタジオとは違ってもっとデラックスで精巧なものなんだろうナ」という期待があった。

 しかし、目の前にあったそれは大学にあったスタジオと同じか、それよりも古いような、やや天井の高い町工場か古ぼけた体育館のようだった。とは言っても、大船はまだ稼働中で、その当時ここで働いていた映画人も数多くいたから、「さびれ果てていた」なんて書くのは失礼にあたるし、実際さびれてはいなかったと思う。ただ、妙に施設がクタビレてるな、という印象を強くもった事は確かだ。

 また大船撮影所は、当時シリーズが継続中だった『男はつらいよ』を撮っていたところだから、車屋(とらや)のパーマネントのセットがあるだろうと思って、ちょっとそこいらを見回ってみたが、それらしきものはなかった。キョンキョンもおらず、寅さんもいない、閑散とした撮影スタジオはもの悲しく、なんとも索漠たる思いがした。

 その時、私はあることを思い、映画の現場に行くことを諦めたのである。

 こんな所でやってンじゃ、この職業に未来はない・・・と。

 この甘く切ない、そしてホロ苦い、最初で最後の大船撮影所訪問は、ある意味、とても貴重で得がたい体験だったと思っている。 <続く>

11/18のツイートまとめ

つぶやきコーナー
11 /19 2016
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ジョージア体験キット、当選の証・・・こんなデラックスな懸賞、今まで当たったことないから感激!  #ヨーロピアン驚きの体験 https://t.co/eWclKvCsvV
11-18 18:26

「ジョージア ヨーロピアン味わい実感チャレンジ」の体験キットに当選! さっそく飲んで味わいを実感。ジョージア、サイコー! #ヨーロピアン驚きの体験
11-18 18:23

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -<最終回>

ある痛切 - 小津安二郎にドヤされた男 -
11 /21 2016

◆ 松竹大船調の末裔 (6)

松竹映画のタイトルマーク
▲ 昭和30~50年代頃の松竹映画のオープニングロゴ
出典:「こじブロ」

 オンボロと言っては言い過ぎかもしれないが、昭和59年当時の〝年老いた〟大船撮影所を見て幻滅した--そんな痛い記憶があるにも関わらず、私はすでになくなった撮影所、松竹大船撮影所の、そのスタイル(カラー)ともいえる大船調を、その幻影を、死ぬまで抱き続ける末裔なのだと思っているのである。こんな笑止なことはない。

 大船調の末裔だ--などと言えば、今回のコラムでその行いや人格にケチをつけてきた(口の悪い)生駒千里あたりに、思いっきり嘲ったドヤ顔をされて、こう言われるだろう。

「オマエが?! 撮影所で働いたこともないオマエがか?! フン、笑わせるね。何を寝ぼけたことを言ってるんだ!」

 またコバケイ(小林桂三郎)さんにも

「スタジオの匂いを嗅いだこともないキミが、なんて世迷いごとを言うンだい!」

 と、言われるに違いない。そうですよね、まったくその通りです。私は日芸のホコリっぽいスタジオしか知りません。

 この松竹出身のお二人から猛烈な反発と嘲笑を受けるのは、火を見るよりも明らかです。でもまあ、本人がそう思ってンだからしょうがない。

小津組の野外ロケ
▲小津組のロケ・スナップ。ロケバスに「OFUNA STUSIO」の文字。中央下、キャメラ左の帽子の紳士が小津監督。  出典:松竹「小津安二郎110年」
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 かつて、撮影所がフル回転していた時代、そこでは前にも書いたように、監督を中心に人脈が作られ人が育った。ステージのホコリを吸い、所内を走りまわって下働きの業務をこなすうちに、いつの間にかその撮影所の手法やスタイル、描く内容、タッチ等が似ていったり、継承されていった。それは、映画作りの中心が撮影所(映画会社)だった頃の、スタジオシステムの美点であったし、レガシー(遺産)でもあった。

 今や、そんなレガシーは消滅して、どこにもないのかもしれない。

 でも、そこで育ち薫陶をうけた人達が撮影所外で講義や講演をしたり、回顧録に類する手記や体験記を出版して、そこでの逸話や物語が流布されていく。それがかすかな微香となって映画ファンや私のような映画を志した学生に移っていった。その微香はホンモノの撮影所やそこでの仕事を知らぬ者にも、確実に〝ある視点〟や〝観点〟(=リファレンス)を与えるほど強烈なドラッグであった。

 私はそのドラッグに冒されてしまったのだろう。
 だから、馬鹿にされ、批判され、笑われることを恐れず、唾されることを覚悟の上で、こう言わなければならない。

 私は松竹大船調の最後の末裔なのだと--。   <完>


▲松竹大船撮影所開設50周年記念作品『キネマの天地』(昭和61=1986年) 監督:山田洋次 


※出典および参考文献
● 『月刊ユリイカ 臨時増刊 総特集 監督・川島雄三 1989年3月(vol.21-4)』 青土社
● 『人間ぱあてぃ』 高橋治、講談社文庫
● 『絢爛たる影絵 小津安二郎』 高橋治、岩波現代文庫
● 『おそめ 伝説の銀座クラブ』 石井妙子、新潮文庫
● 『任侠映画史』 俊藤浩滋、山根貞男、講談社
● 『溝口健二というおのこ』 津村秀夫、芳賀書房
● 『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』 永井健児、フィルムアート社
● 『小津安二郎物語』 厚田雄春・蓮見重彦、筑摩書房
● 『小津安二郎と茅ヶ崎館』石坂昌三、新潮社
● 『小津安二郎全発言(1933~1945)』 田中真澄編、泰流社
● 『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(一九四六)年-昭和38(一九六三)年』 田中真澄編、フィルムアート社
● 『松竹大船撮影所前松尾食堂』 山本若菜、中央公論社
● 『松竹大船撮影所覚え書き 小津安二郎監督との日々』 山内静夫、かまくら春秋社
● 『巨匠とチンピラ 小津安二郎との日々』 三上真一郎、文藝春秋
● 『西河克己映画修業』 西河克己、権藤晋、ワイズ出版
● 『人物・松竹映画史 蒲田の時代』 升本喜年、平凡社
● 『松竹映画の栄光と崩壊 大船の時代』 升本喜年、平凡社
● 『人は大切なことも忘れてしまうから-松竹大船撮影所物語』 山田太一・斎藤正夫・田中康義・宮川昭司・吉田剛・渡辺浩、マガジンハウス
● 『日本映画傳 映画製作者の記録』 城戸四郎、文藝春秋新社
● 『日本映画を創った男 城戸四郎伝』 小林久三、新人物往来社
● 『映画黄金期の思い出 -私の交遊録』 守安正、五曜書房
● 『雨の日の動物園』 小林久三、キネマ旬報社
● 『映画は狂気の旅である 私の履歴書』 今村昌平、日本経済新聞社
● 『楽天楽観 映画監督佐々木康』 佐々木康・著、佐々木真・佐々木康子監修、円尾敏郎・横山幸則・編集、ワイズ出版
● 『映像を彫る 改訂版 撮影監督 宮川一夫の世界』 渡辺浩、発行・パンドラ、発売・東京書館
● 『小説田中絹代』 新藤兼人、文春文庫
● 『映画女優 若尾文子』 四方田犬彦・斉藤綾子/編著、みすず書房
● 『シネマの裏窓 ある活動屋の思い出ばなし』 小川正、恒文社(現在この本は「マッカーサーとチャンバラ ある活動屋の思い出ばなし」に書名が変更)
● 『講座 日本映画② 無声映画の完成』/『講座 日本映画④ 戦争と日本映画』岩波書店
● 『聞書き キネマの青春』 岩本憲児/佐伯友紀・編著、リブロポート
● 『日本映画監督全集』 キネマ旬報社

高村 英次

札幌在住の映画ライター。2013年よりスタートしたこのブログの他に「はてなブログ」でフォトブログ「日暮らしフォトブック」を公開中。

< プロフィール >
趣味:デジカメ撮影、動画制作、SNS
好きな作家:レイ・ブラッドベリ
好きな歌手:エラ・フィッツジェラルド
好きな場所:豊平川、北海道神宮、北大、八紘学園農場
好きな番組:「映像の世紀バタフライエフェクト」「アナザーストーリーズ」「ファミリーヒストリー」(NHK)/「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」(NHK Eテレ)/「イタズラジャーニー」(CX)/「錦鯉が行く!のりのり散歩」(HTB)/「サンドのぼんやり~ぬTV」(tbc)